七夕 (1)
そこまですべて報告して、自席に戻ろうときびすを返すと、千絵が色とりどりの短冊を配っているところだった。
「ハルちゃん、机に置いとくね」
「はい」
この短冊は、七夕飾り用のものだ。七夕に笹を飾るのは、ネット管の初夏の風物詩となっていた。と言っても、それほど古い慣習ではないらしい。
机の上に配られた短冊を見て、篠崎が声を上げた。
「もうこんな季節かあ」
「そうなの。もうこんな季節なのよ」
千絵は短冊を配りながら、うふふと笑って篠崎に相づちを打つ。篠崎は配られた緑色の短冊をつまみ上げて、小さく笑った。
「キドジュンも毎年よくやるよねえ」
キドジュンとは、第一開発部にいる、遙香の二年上の先輩社員である。木戸淳のフルネームが、そのまま呼び名になっていた。ただし、フルネームを呼ぶときとはイントネーションが違う。「キドジュン」で一語として扱い、イントネーションは「品川」と一緒だ。
彼は容姿が目立つので、遙香も名前はよく知っている。身長は高くも低くもなく、成人男性の平均くらい。だが、とにかく日に焼けていて筋肉質である。学生時代はボルダリングの選手で、全国大会での入賞経験もあると聞けば納得の、迫力ある体格だ。仕事柄、屋外に出ることのほとんどない開発部にあっては、褐色の肌色だけでも非常に目立っていた。
そんな彼の名がここで出てくる意味がわからず、遙香は首をかしげる。
「キドジュンさんが、どうかしたんですか?」
「あれ。ハルちゃん、知らないの?」
「何をですか?」
「七夕の行事は、キドジュンが始めたんだよ」
思ってもみない言葉に、遙香は目を丸くした。七夕のような、言ってみればかわいらしい行事と、あの無口で無表情な木戸とが結びつかない。
篠崎によれば、ネット管で七夕の笹を飾るようになったのは、木戸が新人だった頃のことだそうだ。七夕の前日、彼は一本の大きな笹をかついで出社した。いったい何ごとかと、周囲は目をむく。木戸はそんな周りの様子など気にすることなく、オフィスの片隅にテキパキと手際よくそれを設置した。
そして、部員ひとりひとりに短冊を配って回る。
短冊を手渡された部長は、戸惑って木戸に尋ねてしまったそうだ。
「これは何かな……?」
「七夕の短冊です。ここに願い事を書いてください」
「あ、はい」
生真面目な顔で淡々と返され、言葉を失った部長は、その時点で考えることを放棄した。流されるままに「ありがとう」と受け取り、無難な願い事を書いて木戸に渡す。課長たちを始めとした、他の社員も同様だ。
木戸は第一開発部のメンバーに短冊を配り終えると、次は第二開発部のメンバーに配り始めた。何とも親切なことに、同じフロアのよしみなのか、彼は隣の部の分まで短冊を用意していた。
短冊を渡された者は「どうして会社でこんなことをしてるんだろう」という疑問を胸に抱きながらも、口には出さない。当然のことをしていると信じて疑わない、木戸の純粋な目を見たら、とても言い出せる雰囲気ではなかったから。
だが、ついに勇者が現れる。小野寺だ。彼は空気を読むことなく、その場にいた全員の心に浮かぶ素朴な疑問を不思議そうに言葉にした。
「なんでこんなことをしてるの?」
「七夕だからです」
淡々と返された木戸の簡潔な答えに、誰もが「違う、そうじゃない」と思ったと言う。その翌日が七夕であることなど、みんなわかっているのだ。知りたいのは「どうして『会社で』七夕飾りを書かされているのか」ということだ。幼稚園や小学校じゃあるまいし。
とはいえ、さしもの勇者小野寺も、純度百パーセントの善意を前にしては、それ以上質問を重ねることができなかったようだ。小野寺は「そうだね、七夕だものね」と吹き出しつつ、「ありがとう」と笑顔で短冊を受け取った。
こうして最初の七夕は、二つの開発部の大いなる戸惑いの中、無事に飾り付けを完遂した。
その翌年も木戸は七夕の前日、笹をかついで出社した。二年目ともなると、もはや驚きはない。何かもう「そういうもの」として受け入れられていた。ネット管メンバーの順応性の高さも大概である。
ところが、前年と同じ場所に笹を立てようとした木戸に、第二開発部の部長が声をかけた。ちなみに、当時の部長はまだ岡田ではなかった。
「せっかくだからさ、事業部全員の目に触れる場所に置かない?」
木戸は「はい」とうなずき、言われるがまま、再び笹をかついで場所を移動した。移動先は、一階のスタッフ部門のフロア外側だ。ビルの正面玄関から入った少し奥の、階段下に置かれることになった。
階段を使うのは基本的にネット管のメンバーばかりだから、他の事業部の者の目に触れることもなく都合がよい──はずだった。だがエレベーターを利用する者たちだって、視界の端にチラリと見える笹が気にならないわけがない。ましてやその笹には、色とりどりの短冊が飾り付けられているのだ。
怪訝に思って正体を確認しに行った者たちの口から、七夕飾りの存在が他の事業部に広まるのは、あっと言う間だった。気がついたら、明らかに他事業部の社員による願い事と思われる短冊が、ちゃっかり吊されている始末。製品名やプロジェクト名から、事業部はバレバレだ。一応、よその事業部の行事に無断で乱入している自覚があるのか、目立たない場所にこっそりと取り付けられていた。
遙香が入社したのは、さらにその翌年のことだ。三年目ともなると、もうすっかりビル全体での公認行事のようになっていた。だから彼女は、たったひとりの新人が始めたものだなんて、思ってもみなかったのだ。
無表情な木戸から手渡された短冊に、困惑しながら願い事を書いている部長や課長たちの姿を想像すると、シュールで笑える。篠崎の話を笑いながら聞いていた遙香は、聞き終わって疑問に思ったことを尋ねてみた。
「ところで、あの笹はどうやって持って来たんですか?」
「だから、キドジュンがかついで来たんだってば」
「それは聞きましたけど、どこから?」
「家の裏に生えてるのを切り出してくるらしいよ」
ワイルドな木戸は、住環境もワイルドらしい。笹は自家製だから、入手が簡単なのだ。
そこは納得したが、まだ謎は残っている。家から会社まで、どのように運んだのだろうか。まさか朝の通勤ラッシュの時間帯に、あれをかついで満員電車に乗ったわけでもあるまい。
遙香がそう不思議がっていると、篠崎はあっさり「ああ、電車じゃないよ」と請け合った。
「キドジュンはチャリ通勤だからね」
「そんなに近かったんですか」
「いや、それほど近くはないかな。川崎だから」
「え。川崎からここまで、自転車で通勤してるんですか⁉」
「うん。だってキドジュンだし」
木戸の自宅から会社までは、距離にして十数キロ。それをロードバイクを飛ばして、片道二十分ほどで通っている。本人いわく「電車より速いし、いい運動になるから」なのだそうだ。あの筋肉は、こうした日々のたゆまぬ鍛錬によって培われたものらしい。
笹は背中にくくりつけた状態で、ロードバイクで運んで来るそうだ。その光景を想像すると、またしても遙香は笑ってしまう。特大サイズの笹を背負い、都心に向かってロードバイクで爆走する、真っ黒に日焼けした無表情なスーツ姿の青年。シュールすぎる。
その終着点を想像したところで、再び遙香は首をひねった。
「でも、自転車はどこに置いてるんでしょうね? この辺りには、停めて置ける場所なんてありませんよね」
「駅の近くに駐輪場を借りてるはず」
「でもロードバイクって、盗まれやすいって聞いたことがありますよ。大丈夫なのかな」
「大丈夫。地下収納型の機械式駐輪場があるんだよ」
なるほど、と遙香は感心した。確かに地下収納型で機械式なら、盗まれたりいたずらされる心配はなさそうだ。
「篠崎さん、詳しいですねえ」
「あたしもチャリ通勤してみようかと思って、調べてみたことがあるからね」
「へえ。試してみて、どうでした?」
「いや。結局、試してもみなかった。スカートじゃ、そもそもロードバイクに乗れなかったわあ」
オチがついたところで、おしゃべりを切り上げ、遙香は席に戻った。そして短冊に、今一番の願い事を丁寧に書き込む。
『JDD案が、国際標準に採用されますように』
* * *




