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姉と弟 (4)

 翌朝、出社して遙香がPCの電源を入れていると、後から出社してきた篠崎が「ハルちゃーん」と声をかけてきた。何か用事かと振り返ってみれば、ニヤニヤと含みのありそうな笑みを浮かべている。どう見ても仕事の用事ではない。


 何やらよからぬ気配を察しつつも、遙香は礼儀正しく「おはようございます」と挨拶した。篠崎は遙香に流し目をくれてから、うれしさを隠しきれない声で、しかしもったいをつけて口を開いた。


「うっふっふ。見ちゃったわよーん」

「何をですか?」


 遙香は怪訝そうに眉をひそめて、聞き返す。篠崎が楽しそうなことだけはわかるものの、何がそんなに楽しいのか見当がつかない。


「ちょっとちょっとー、隅に置けないじゃなあい」

「はい?」


 やっぱり何だかわからない。なのに篠崎は「うりうり」と言いながら、遙香の腕を人差し指でグリグリとつつく。


「会社まで送ってもらうなんて、ラブラブじゃないのよう。誰よ、あのイケメン」

「ああ」


 やっと篠崎が何の話をしているのか合点がいった。遙香は苦笑する。


「弟です」

「え、弟?」

「研修で、昨日からこっちに来てるんですよ」

「なーんだ……」


 篠崎は、露骨にがっかりした顔をした。風船からシュルシュルと空気が抜けていくように、あっという間にテンションも下がっていく。


 学生時代にも、たまにこういう勘違いをされることはあった。智基は遙香が出かけるときには、自分の時間が許す限り、当たり前のように送ったり迎えに来たりしていたから。


 どうやら智基は、父の回し者らしいのだ。遙香が出かけるときには毎回、必ず「あまり遅くならないでね」と釘を刺す。その上、「何時に帰ってくる?」と予定の確認も怠らない。父に同じことをされたら反発するが、智基が相手であれば、遙香も比較的素直に言うことを聞く。それで託されているらしかった。


 この日の朝も、智基はまっすぐ駅へ向かわず、遙香を会社まで送ってから出かけて行った。そこを目撃されたのだろう。


 この話はこれで終わったと遙香は思っていたが、まだ終わらなかった。昼休みにトンボヤで、いつものように三人で食事しているときに、篠崎が蒸し返したのだ。


「ねえねえ、ハルちゃん」

「何ですか?」

「あれ、本当に弟?」

「弟ですよ」


 事情を知らない千絵が「何の話?」と尋ねてきたので、朝の一件について話して聞かせた。「そうなのね」とうなずく千絵の横で、篠崎は首をかしげる。


「弟には見えなかったけどなあ。お兄さんだったら、まだわかるんだけど」

「まあ、ひとつしか違いませんからね」


 これも割とよく言われることだ。智基に身長が抜かれた頃から、遙香のほうが年下だと周りに思われることが多くなった。だが遙香は、自分が童顔だとは思っていない。年齢相応に見えるはずだと信じている。


 となると、勘違いされる原因はひとつしか考えられない。遙香は確認のため、篠崎に尋ねてみた。


「あの子、そんなに老けて見えます?」

「え? いや、別にそういうわけでは……」


 旗色が悪くなったと判断したのか、篠崎はトーンダウンしてからあからさまに話題を変えた。


「彼、いい体してたよねえ」

「シノちゃん、言い方がいやらしい」


 篠崎の言葉に、千絵が噴き出す。他意はなかったらしい篠崎は、すぐに言い換えた。


「いやいや。何かスポーツやってたのかなって」

「高校と大学で、ラグビー部でした」

「なるほど、いかにもそういう感じだわ」


 体格がいいと年上に見えるのだろうか、と遙香は心の中で首をひねる。だがそれを口にする前に、ふと智基との前日の会話を思い出した。


「そう言えば、働く理由を弟に聞いてみたんですけどね」

「うん」

「篠崎さんとまったく同じこと言うんで、笑っちゃいました」

「『偉くなりたーい!』って?」

「そうそう」

「へえ。あたしと気が合いそうね」


 篠崎から返されたコメントに、遙香は吹き出した。気が合うにもほどがある。またしても同じセリフを返されるとは。もちろん、そんなこととは知らない篠崎は、きょとんとしている。


 遙香は笑いながら「だって、弟とまったく同じことを言うから」と説明した。それを聞いて、篠崎も笑った。


「あはは。本当に気が合いそうだね」

「かも」


 ひとしきり笑ってから、篠崎は「そう言えば」と話題を変えた。


「PCをクリーンインストールしてみたんだけど、調子いいわー。劇的に速くなったよ」

「そうですか。それはよかった」

「いったい何だったんだろうね?」

「さあ、何でしょうねえ。でも、もう調べようもないんですよね」

「だよね。事業部内に何人か、PCに似たような症状が出てるやつがいてさ。クリーンインストール薦めといたんだよね」

「そうなんですか」

「うん。全員、それでよくなったって言ってた。ありがとね!」

「どういたしまして」


 未知のマルウェアの可能性が高いと遙香は思ったが、それはあえて口に出さなかった。もう確認のしようのないことだし、聞いて気分がよくなる話でもないのだから。


 遙香がクリーンインストールを薦めたのには、三つの理由がある。


 ひとつは不良セクターを回避するため。ハードディスクやSSDの不良セクターが原因で動作が不安定な場合、OSをインストールし直すことで改善する可能性がある。たとえ少々の不良セクターが存在しても、インストーラーが不良部分をよけて使用するからだ。不良セクター自体が存在したままでも、使用されていなければ問題は起きない。


 ただ、篠崎はツールを使ってSSDの状態をチェック済みだ。それで異常が見つかっていないことから、不良セクターが原因だった可能性は低いと遙香は見ている。


 もうひとつは、レジストリを初期化するため。レジストリは、項目の追加や削除を繰り返すと、検索性能が落ちていく仕様になっている。だから長く使い続けるうちには、程度の差はあれ、必ず遅くなっていくのだ。クリーンインストールすればレジストリもクリーンな状態になるので、検索速度が向上する。それにともなってPC自体の動作も軽快になるわけだ。


 だが、レジストリの状態が悪化したとしても、ウェブページを開くのに三十秒もかかるほどブラウザーの動作が遅くなるとは考えにくい。だから、これが原因だった可能性も低いと遙香は思っている。


 最後の理由は、未知のマルウェアを削除するため。セキュリティスキャンをかけて何も見つからなかったと聞いてはいるが、セキュリティソフトのデータベースに未登録のものであれば、たとえ感染したとしても検出されない。


 マルウェアに感染してPCの動作が異常に重くなるのは、実は遙香にも経験がある。正確には遙香ではなくて、智基だったのだが。


 学生時代に「PCが重くてまともに動かない」と彼に相談され、オンラインスキャンにかけてみたら、なんとマルウェアが二百個以上も検出されたことがある。あれはもう、呆れを通り越して、笑うしかなかった。


「どうしてセキュリティソフトを入れてないの?」

「入れると遅くなるじゃん」

「入れてないせいでこんなに遅くなってちゃ、世話がないわね」


 遙香がピシャリと正論で斬って捨てると、智基は「だって」とすねた顔をした。


「怪しいサイトとか、いかがわしいサイトを見なければ大丈夫だと思ってたんだ」

「本当に全然見てないの?」

「家のパソコンでは見てない」


 智基の言い方に何か引っかかるものを感じて、遙香は重ねて質問した。


「家では見てないけど、どこかよそで見てるってこと?」

「うん。怪しいサイトにアクセスしたいときは、ネカフェに行く。どうしてもすぐ見たいときは、スマホで見る」


 悪びれることなく言い切った弟に、遙香は脱力した。得意げな顔で言っていいことじゃないと思う。そもそも怪しいサイトにアクセスしようとするな、と言ってやりたい。そんな目的で利用されたら、いくら対策してあると言っても、ネットカフェだって迷惑に違いない。スマホにしたって、PCに比べたら感染しにくいというだけで、絶対に感染しないわけではないのだ。


 ただ、それはそれとして、ここまで自信たっぷりに断言するからには、本当に怪しいサイトにアクセスしたことはないのだろう。少なくとも、意図的には。


 結局このとき、智基にはクリーンインストールさせた。二百以上ものマルウェアに感染していたら、仮にセキュリティソフトを使ってすべて駆除できたとしても、正常な状態に戻せる保証などまったくないからだ。


 クリーンインストール後は、セキュリティソフトをインストールさせたのはもちろんのこととして、OSの自動更新を無効にしないよう口を酸っぱくして言って聞かせた。智基はセキュリティソフトを入れていないばかりか、OSの自動更新も無効にしてあったのだ。それで手動でマメに更新するならまだしも、無効にした挙げ句に放置したのでは、セキュリティなぞボロボロである。


 どうやら篠崎も、OSの自動更新を無効にしてあったらしい。とはいえ篠崎が相手ではがみがみ叱り飛ばすこともできず、「有効にしておくほうがいいですよ」とやんわり伝えておいた。


 とにかくこんな実体験により、遙香はマルウェアに感染したPCの動作がどれほど遅くなるかを知っている。そして怪しいサイトにアクセスした覚えがなくても感染し得ることも、クリーンインストールが一番確実な解決策であることも、身をもって知っているのだ。


 けれどももちろん、こんな情けない体験談を先輩たちの前で口にしたりはしない。ただ静かに話題が移り変わっていくのを聞きながら、昼食を終えたのだった。


 * * *


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