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姉と弟 (3)

「あの日、智基の応急処置がよかったから、救急車の到着までもったって聞いたよ。まだ中二だったのに、よく知ってたね」


 遙香は「あの日」としか言わなかったが、智基には何のことだかすぐピンときたようだ。


「ああ。スポーツクラブで叩き込まれてたからね」

「そんなこと教えるんだ?」

「教えるよ。水飲め、ちゃんと休め、無理すんなって、口酸っぱくして言われてた」

「へえ」


 子どもが倒れては困るから、指導する側は熱中症の対策に余念がない。定期的に休ませ、ひとりひとりの様子を常にチェックし、教育も徹底していた。何と言っても、サッカーやバスケットボールのようにダッシュを繰り返すスポーツは、特に熱中症になりやすい。だからコーチたちも、夏場は神経をとがらせていたと言う。


 にもかかわらず、レギュラーを目指す子どもたちは、気分が悪くなってもそれを隠そうとする。休んだら外されると思い込んでいるのだ。だからどれほど大人たちが注意していても、軽度の熱中症を起こす子どもは後を絶たない。


 そんなわけで智基は、熱中症の子どもを何度か目にしていた。そのときの処置も見ている。しかもそのたびに、指導者たちは熱中症の怖さと対処法を子どもたちに言い聞かせていた。おかげで身に染みついていた、というわけだ。


 なるほど、と遙香は納得する。それから彼女は少しの間、視線をさまよわせてから、ためらいがちに本命の質問を口にした。


「智基は……、お母さんと会ったりしてる……?」


 その質問に智基は眉をひそめたかと思うと、すっと目を細めて冷ややかな表情になり、そっけなく「全然」と吐き捨てた。その反応に、遙香は「やっぱり」と悲しい気持ちになる。


「そっか。私のせいだよね……。ごめんね」

「はあ? なんで謝るんだよ。遙香は関係ないし」

「え、じゃあ、なんで?」

「会う理由がない。会いたいとも思わないしな」


 智基の思いがけない反応に、遙香は一瞬、言葉を失う。てっきり、本当は会いたいのに遙香たちの手前、我慢しているのだとばかり思っていた。


 彼女はずっと、弟に申し訳なく思っていたのだ。実の母と離れる原因を作ってしまったことについて。あの継母は遙香にはきつく当たることが多かったけれども、智基には優しかった。父の前でも明るく朗らかだった。二人の前では、遙香にさえ機嫌よく優しかった。なのに、会いたいとも思わないと智基は言う。


 遙香がいぶかしそうにしているのに気づき、智基は表情をやわらげた。


「そうか、遙香には話してなかったもんな」

「何を?」

「親の再婚前の話。謝らなきゃいけないのは、俺のほうなんだ」

「え?」


 それから智基が話した内容は、遙香にとって衝撃的なものだった。


 真由美は智基にはいつでも優しいと遙香は思っていたが、決してそんなことはなかったと言うのだ。真由美が恭一郎と再婚する前、真由美が当たり散らす相手は智基だった。


 当時、智基は真由美の実家で暮らしていた。だから母親から暴力を振るわれそうになったときには、すぐに祖父母のところに逃げ込んでいた。おかげで遙香ほどひどい目に遭うことはなかった。


 それでも彼は、自分の母親は裏表が激しく嗜虐的なところがある上に感情的で、イライラが募るとそれを無抵抗な相手にぶつけるような人間だとよく知っていたはずだった。


 真由美と智基の実父の離婚理由は、モラハラをはじめとしたDVだった。DVを受けていたのは、穏やかな性格だった実父のほうだ。気の優しい彼が決してやり返さないのをよいことに、ときに暴力も振るっていたらしい。


 ところが再婚したとたん、真由美から当たられることがなくなった。


「だから、結婚して落ち着いたのかと思っちゃったんだよ」

「実際、そうなんじゃないの?」

「いや。ターゲットを俺から遙香に変えただけだった」


 男の子は育つにつれて腕力がつき、いずれ肉体的な力関係は逆転する。智基は決して攻撃的な性格ではないが、かといって実の父のように無抵抗主義なわけでもない。肉体的に十分な力がついたときには、反撃するまではいかずとも、やられっぱなしではいなかったはずだ。だから、自分より確実に弱くておとなしい遙香に対象を変えたのだろう、と智基は言う。


「なのに俺はのんきに、自分だけしあわせに暮らしてたんだよ。ほんと、ごめん」

「なんで謝るの。智基は何も悪くないでしょ」

「だって、俺はあの人がそういう人だって知ってたのに。気づけなかった」

「それはしょうがないと思う。それに、骨折も熱中症も、あのときの一回だけだし」


 このことも、喉の奥に刺さった小骨のように、ずっと気になっていたことだった。


 もちろん、真由美にきつく当たられるのは嫌だった。青あざができるほど叩かれたことだって、何度もある。だから虐待がなかったとは言わない。恭一郎が離婚してくれたおかげで心身ともに救われたのも、間違いない。


 けれどもたった一回の骨折と熱中症で、まるで何度も同じことを繰り返してきたかのように真由美は責められてしまった。そのことだけは少しかわいそうのように思うのだ。


 ところが、遙香がそれを口にしたとたん、智基はまなじりをつり上げて声を荒げた。


「何がかわいそうだ! 一回で十分だ! 死んでてもおかしくなかったんだぞ!」


 弟のあまりの剣幕に、遙香は目を見開いて、反射的に身をすくませた。そんな遙香を見て、智基は自分の気持ちを落ち着けようとするように、ゆっくりと深呼吸をする。そのまま彼女に尖った視線を向け、低い声で不機嫌そうに続けた。


「あのさあ。自分の子どもがそんな目に遭ったらって、考えてみなよ。同じこと言える?」


 これには遙香もハッとした。あのときの父の涙を思い出したのだ。たとえ不慮の事故だとしても許せそうにないのに、ましてや悪意によって自分の子どもが命を落としかけたなら──。そう考えたら、たとえ一回だろうととても許せる気がしない。


「ごめん。言えない……」

「だろ? まあ、そんな人だからさ、会いたいどころか、二度と顔も見たくないんだよ。血もつながってないのに引き取ってくれたお父さんには、ほんと感謝してる。だから、遙香が気にすることは何もないんだ」


 遙香は「そっか」と肩から力を抜いた。


「なら、智基が気にすることも何もないよ。私が助かったのは、智基のおかげなんだから」


 智基も「そっか」と苦笑した。


 恭一郎は、智基の事情を知っているそうだ。離婚調停にあたり、彼は息子に離婚後はどちらの親と一緒に暮らしたいか尋ねた。このときに、結婚前には智基が真由美のストレスのはけ口にされていたことだけでなく、実父から聞いていた離婚の事情をすべて打ち明けたのだ。そして「遙香のこと、気づけなくてごめん」と涙ながらに謝った。


 離婚協議書に智基への接近禁止が盛り込まれなかったのは、彼が実母に会えるようにするためのものではない。ただ単に盛り込むだけの根拠が示せず、諦めただけだ。五年以上も前の虐待など、何も証拠が残っていなかった。診断書のひとつでもあれば、盛り込めたのに。


 真由美が親権を要求してきたとき、不安そうな智基に向かって恭一郎はきっぱりと言い切った。


「智基はもう私の子だ。何があっても絶対に守るから、安心しなさい」


 この言葉に、智基はどれほど安堵したことか。


 遙香への接近禁止は離婚協議書に盛り込まれているから、遙香と一緒にいる限りは近づかれる心配がない。あとはスマホの電話番号を変えてしまえば、連絡手段もなくなる。手紙は出せるが、そんなものは届いたとしても無視すればいい。


 離婚後、恭一郎は智基の実父に連絡をとって、養育費の支払い停止を求めた。真由美の手もとに智基がいなくなったことに気づかず、養育費を払い続けることを防ぐためだ。恭一郎から知らせなければ、きっと気づかなかっただろう。再婚後もずっと真由美に支払われていた養育費は、恭一郎からまとめて返還した。


 すでに再婚して新しい家庭を築いていた彼からは、とても感謝された。何よりもまず感謝されたのは、真由美に智基を渡さず引き取ったことだ。それこそ拝まんばかりの勢いで感謝された。


 彼が真由美と離婚した当時、智基はまだ五歳。幼かったために、子どもの意思は反映してもらえなかった。母性優先の原則が適用されてしまい、父親には親権が認められなかったのだ。DVを訴えてはみたが、当時は智基がDVを受けていたわけではない。結果的に親権は母親に渡されてしまった。


 どれほど子どもが心配でも、一度決まってしまった親権は、相応の事情がない限り変更が認められない。実父にできることは、息子と面会したときに「叩かれそうになったら、迷わず逃げなさい。それでも叩かれてしまったら、必ず父に連絡しなさい」と教え込むことくらいだった。


 おかげで智基は、けがをするほどの暴力を受ける前に祖父母のところに逃げ込む知恵がついた。しかし逆に言えば、そのせいで第三者の目にも明らかな虐待の証拠が残ることがなく、親権の変更がかなわなかった。


 こうして、DVの被害者が加害者に養育費の名目で金銭を渡すという、いびつな関係が離婚後もずっと続くこととなる。ところが恭一郎が智基の親権を得たことにより、ついにこの関係を断ち切れた。これに関しても、実父は恭一郎に深く感謝していた。


 彼は恭一郎に養育費の支払いを申し出たが、それは恭一郎のほうから断った。智基を引き取ったと実父に知らせたのは、あくまで真由美が不当に不労所得を得る手段を絶つためでしかない。養育費を求めるつもりなど、もとよりなかった。


 智基は真由美とは音信不通だが、実父とは年賀状や折々のメールのやり取り程度の交流を続けている。


 こうした話を智基から聞いて、遙香は長年の胸のつかえが取れたような気がした。「話してよかった」と遙香が言えば、「俺も」と智基が笑顔を見せる。


 しばらく二人の会話が途絶えた後、智基は何やらもの言いたげな顔をした。頬杖をついて、わざとらしく遙香の顔をじっと見つめる。遙香が「何?」と尋ねると、ふふんと笑った。


「あんな人のことをかわいそうって言っちゃうくらいだもんなあ。遙香さんには少しぼんやりしたとこがあるから、俺はとっても心配です」

「失礼ね。何が心配なのよ?」

「実は会社でもパワハラとかいじめとか、あったりするんじゃないの? 大丈夫?」

「何もないよ。上司にも同僚にも、すごく恵まれてるもん」

「本当?」

「本当だよ!」


 答えながら、遙香の脳裏に「事業部イチ細かい男」こと小野寺の顔がチラリとよぎった。もちろん小野寺は、真由美とは全然違う。けれども、それを智基に納得してもらうのは、なかなか骨が折れそうな気がした。この心配性な弟の前では小野寺の話題は決して出すまい、と彼女は心の中で密かに誓ったのだった。


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