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鋼のお嬢さま (1)

 キンコンカンコーンと、昼休みの開始を知らせるチャイムが鳴る。


(もうこんな時間か)


 相沢(あいざわ)遙香(はるか)は、ちょうど書き上がったばかりのメールを送信した。同僚から「PCの調子が悪い」と相談され、その対処方法を書いたメールだ。彼女は大学で情報工学を専攻したおかげもあってPCに強く、こうしたトラブルの際にはよく頼りにされていた。


 両手を頭上で組んでググッと伸びをしてから、ディスプレイの電源を切る。会社の方針で、多少なりともSDGsに貢献するため、休憩時間はディスプレイの電源を落とすことになっているのだ。自分で落とさずに自動オフ機能にまかせる者も多いが、遙香は律儀だった。


 それから食事に出るために、ハンカチとスマホと財布をカバンから取り出していると、後ろから声をかけられた。


「ハルちゃん、お昼どうする?」

「あ、行きます」


 声をかけてきたのは、女性の先輩社員、平野(ひらの)千絵(ちえ)だ。技術系の社員ばかりのこの部内にあって、唯一の事務系社員。遙香は「千絵さん」と呼んでいる。年齢は知らない。三十代前半くらいに見えるが、部長の岡田(おかだ)英信(ひでのぶ)が彼女に対しては敬語で話しかけるところから察するに、見た目どおりの年齢ではないと思われる。


 遙香は千絵の、いかにも優しげでやわらかな声が好きだ。鈴を鳴らすような声とは、きっとこんな声のことを言うのだと思っている。千絵はおしゃれな上に手先が器用で、いつも髪型が華やかだった。手が込んでいて、まるで美容室で編み込んでもらったようにしか見えない。


 千絵と連れ立って食事へ出ようとしていると、バタバタと足音がした。


「待って待って! 私も行く!」


 よく通る声で引き留めたのは、遙香と千絵の直属上司、主任の篠崎(しのざき)夏朱美(かすみ)。遙香は「篠崎さん」と呼んでいるが、上司たちからは「シノちゃん」と呼ばれている。両手いっぱいに抱えたキングファイルをドサッと勢いよく机の上に放り出し、素早い手つきで財布をカバンから取り出した。


「お待たせ!」


 篠崎はこの三人の中で一番小柄だが、最も活力に満ちあふれている。サラサラのボブカットに、大きな目。そんなかわいらしい顔立ちとは裏腹に、体つきは見るからに体育会系で、筋肉質だった。実際、男子社員に負けない体力を誇るらしい。


 パワフルに仕事をする姿は、格好いい。上司たちからも、手本にすべきモデル社員として真っ先に名を挙げられる。でも真似はできないなあ、と遙香は思う。パワフルすぎて、忠実に手本にしたら、とてもではないが体力がもちそうにない。


「どこにする? トンボヤ?」

「かな。ハルちゃんは? 他に行きたいとこある?」


 二人の先輩に尋ねられ、遙香は「トンボヤでいいです」と答えた。


 彼女たちの職場は、大手電機メーカーのCCテクノロジー、略してCCテックの本社地区にある。最寄り駅は品川。本社地区と呼ばれてはいるものの、彼女たちの職場は本社ビルではない。本社ビルから六百メートルほど離れた、別の貸しビル内だ。


 社員食堂は本社ビルにしかないので、彼女たちはたいてい近くのレストランで昼食をとるか、コンビニでサンドイッチや弁当を買っていた。


 もちろん、職場が本社ビル内でなくとも、社員ならば社員食堂を利用可能ではある。しかし六百メートルも離れていると、わざわざ出向く気にはあまりならなかった。行けないことはないが、あまり行く気にならないという、ちょうど微妙な距離なのだ。往復で一キロ以上も歩くことになる上、距離がある分、どうしたって本社ビル内の社員に比べて出遅れる。出遅れれば当然、エレベーターは混雑しているし、席だって取りにくい。


 それくらいなら、近場で済ませようと思うものだ。もっと近くに、ランチのとれる店などいくつもあるのだから。


 その中でトンボヤは、最近の彼女たちのお気に入りだった。新しくこぢんまりとしたフレンチカフェで、白を基調とした明るい店内は、いかにも女性向けである。他の店のランチに比べると、価格は二、三割ほど高め。だが、温野菜がたっぷり入った野菜のゼリー寄せが前菜に出て、メイン料理も量が多すぎずヘルシーなところが彼女たちの心、いや、胃袋をつかんだ。本当の店名は「Ton Voyage」だが、彼女たちの間では「トンボヤ」で通っている。


 さっそく出てきた前菜をつつきながら、遙香は篠崎に尋ねた。


「新しい仕事の話、何か聞いてます?」

「んー。聞いてるような、そうでもないような」


 煮え切らない篠崎の返事に、遙香は「どっちなんですか」と笑った。


「一応、新しいプロジェクトは始まってるんだけど、メンバー表にハルちゃんの名前が入ってないのよねえ……」

「え」


 どういうことだろう、と遙香は首をかしげた。異動という可能性はない。何しろ定期人事異動は、先日行われたばかりだ。その人事異動で、篠崎は国内システム部から、遙香のいる第二開発部に異動してきたのだ。それまで遙香の直属上司だった主任、小野寺(おのでら)圭吾(けいご)と、ちょうど入れ替わりの形だった。篠崎と小野寺は同期入社で、どちらも遙香より六年上だ。


 ちなみに、CCテックの定期人事異動は六月に行われる。進学や就職、公務員の異動により引っ越し費用の相場が上がる三月と四月を避け、新年度が明けて落ち着く時期を選んで、そうなっていると言う。


「異動は終わったばかりだし、どうしてでしょうね?」

「ほんとよ。一緒に仕事するの、楽しみにしてたのに」


 篠崎の言葉にうれしくなって、遙香は口もとをほころばせる。照れながら「そうなんですか?」と返すと、篠崎は力強く「そうよ!」とうなずいた。


「『(はがね)のお嬢さま』っぷりを、ぜひ間近で見たかった」


 篠崎の口から出てきた聞いたことのない言葉に、遙香は思わず真顔になってしまった。話の流れからして、遙香のことを言っているのだろう。だが「鋼のお嬢さま」って、何なのだ。意味がわからないながらも、褒めてないニュアンスだけは伝わってくるではないか。


 うろんげに「何ですか、それ」と聞き返した遙香に、篠崎はきょとんとした。


「あれ。知らないの?」

「知りませんよ」

「あの小野寺君の下で、二年間もトラブルひとつ起こさず、にこにこと仕事してきてすごいって、言われなかった? 見た目はお嬢さまなのに、鋼メンタルだねって評判だったのよ」

「えええ?」


 今度は遙香がきょとんとした。


 篠崎が「あの小野寺君」と言う理由は、何となくわかる。主任の小野寺は、遙香が入社して最初についた上司だ。当時、主任に昇格したばかりだった彼は、「事業部イチ細かい男」との異名を持っていた。仕事はできる、だが細かい。それが小野寺の評判だった。


 融通が利かず正論を振りかざすので、プロジェクト内でけんかになることもしばしばだったらしい。だから新卒の女子を彼の下につけると聞いて、心配する声も少なくなかったと言う。そう聞いても、遙香にはあまりピンと来なかったのだが。


 言葉に詰まる遙香に、篠崎はきっぱりと断言した。


「あたしは無理。あの人の下で仕事するなんて、絶対にけんかになる自信ある」


 大らかな篠崎と、あらゆる面で四角四面な小野寺とは、確かに相性が悪そうだ。


 千絵も同じことを思ったのか、「そうねえ」とやわらかい笑い声を上げた。


「でもハルちゃんは、何でもハイハイって言うこと聞いてたもんね」

「いえ、そんなことはありませんでしたよ」

「そう?」

「はい」


 遙香は別に、何でも言うことを聞いていたわけではない。おとなしく聞くのは、相手が正しいことを言っているときだけだ。相手の言っていることが間違っていない限りは、どれほど細かかろうが、しつこかろうが、気にしたことがなかっただけ。だって、仕事だから。

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