残された人達
「ああ、行ってしまったか…」
長老は、白く煙る吐息をこぼしながら、遠ざかる船影をじっと見つめていた。息子アイヴァンの乗った船は、灰色の海と空の境に溶け込むように小さくなっていく。
(上流の放牧チュクチは、すでにルーシに下った。日本人の話によれば、はるかアイヌの地までも脅かしているという。嘘とは思えん。残るは我らのみ……。どうせどこかに支配される未来なら、どちらがまだ“幸い”なのだろうか)
残された日本人二名は、当然ながらチュクチ語を解さない。必死に身振り手振りで何か伝えようとしているのだが…まるで意味はわからん。それが逆に可笑しくて、長老はひそかに口元を緩めた。
(もしこれがルーシであれば……あいつらは巻き舌で怒鳴り散らし、すぐに銃を突きつけて脅すだろう。こちらの話など聞く耳も持たぬ。だが、この日本人は我々と顔立ちも似ておる。同じ“人”として扱ってくれる。これだけで、どちらに心が傾くかなど明白よ)
日本人たちが、村の若者たちに持参した風変わりな弓を取り出して見せいた。
(……我らと同じ、弓か? 銃も持たぬのか? そんな折れ曲がる弓では威力も出まい。それではルーシには勝てん。)
そう思った次の瞬間、日本人が指を離すと、五十メートル先の岩へ向けて放った。
「ピュン!ドカン!」
ものの一瞬だった。もの凄い威力だ。
岩は真っ二つに粉砕された。
長老は飲んでいたお茶を盛大に噴き出し、むせてちょっと漏らした。
周囲の若者たちは歓声を上げ、まるで子どもが新しい遊びを見つけたかのように跳ね回っている。
(はぁはぁ、なんだ、これは……矢が一直線に飛んだぞ。そして爆発した。こんな弓、聞いたことがない。これが“技術の弓”か。もしや、本当にルーシに勝てるのではないか……)
胸の奥で、凍りついた希望がほんの少し溶けたような気がした。
ズボンの中は依然として冷たかったが。
ーーー
一方そのころ、置き去りにされた日本兵。
「……翔馬さまも酷いよなあ。こんな糞寒いとこに俺ら二人置いていくとか、信じられねえぜ」
「おい、村の外を見てみろよ。木が一本も生えてないぞ。草しか生えてない。どうやって生きてるんだ?ここの人達は」
「草食ってんのかな?草」
副士官のひとりが、手をこすり合わせながらぼやく。
「言葉も通じないしよ……どうすんだ、これ」
翔馬から渡された紙を広げる。そこには見慣れぬチュクチ語の発音を、カタカナで無理やり書いた“簡易会話集”があった。数分で書きなぐったような適当な字体だ。
「……だめだ。読めるけど通じねえ……発音が絶望的に違うんだろこれ」
仕方なく、身振り手振りで〈小便したい〉のジェスチャーをすると、村の若者が目を見開き、「ああ、これか!」と言わんばかりに頷き、川へ案内してくれた。
「……厠、川かよ。そりゃまあ凍る前ならいいけどさ。凍ったらどうすんだ?これ」
暇つぶしに渡された荷物を確認すると、小田原で訓練した新型の弓が入っていた。対人用通常弾頭と砦などで使う炸裂弾頭。
「あー、長老見てるし……一発ぶちかましてやりますか」
若者たちが、興味津々に弓を覗き込んで、なにやら話しているが彼らは理解できない。
「まぁ、見とけよ。こうすんだよ」
「ピュン!ドカン!」
岩が粉々になった瞬間、周囲のチュクチ若者たちがわあっと歓声を上げ、肩を組んできた。
「うぇーい!うぇーい!」
「お、おお……なんか、打ち解けられた気がする……!」
青年A「オマエ、スゴイ! スゴイ!」
青年B「アナタ、ウチノ ムラ ノ ミカタ!」
(※多分そう言ってる)
「はは……いや、マジで寒いんだって……。あ、えーっと……ハラ……ヘッタ」
腹が減ったのジェスチャーを交えると、青年たちはまた歓声を上げ、どこからか獣肉の燻製を抱えて走ってきた。
こうして“氷点下の異文化交流”は、思ったよりも順調に進みはじめたのであった。




