樺太上陸 大泊・豊原
小田原の新兵教育を後にし、次に向かう先は「稚内」
氷の季節になる前に、一度は訪れるべき場所だと決めていた。
稚内へ向かう道すがら、翔馬は、わずか数年で生まれ変わった北端の街の姿を思い返していた。
初めて足を踏み入れた時、そこにあったのは風に削られた海岸と、曇天の下の小さなアイヌの寒村だけだった。
しかし今では、整備された埠頭に貨物クレーンが並び、苫小牧に倣った巨大な交易所が建ち、舗装道路の脇では四角い住居棟がいくつも立ち上がり始めている。
樺太へのゲートウェイとして、優先的に開発した結果が表れ始めている。
冬の氷に閉ざされる前に工事を済ませようと、人々の足取りに焦りと活気が同居していた。鉄道はまだ不通だが、駅舎だけは堂々と完成し、まるで“未来”の方が先に来てしまったような光景だった。
稚内の異変に気付いた樺太アイヌの訪問も増えていた。彼らは物品を携え、日本の貨幣に換えては、交易所で金属製の道具や保存食、布、釣り具を買う。それが最近のちょっとした流行になっていると聞き、翔馬は想定通りと笑みを浮かべた。
交易所の一角で、翔馬は荷を抱えた樺太アイヌの男に声をかけた。
「モシリの交易所は、使い勝手どうだい?」
男は驚いたように目を見開く。
「和人……なのか? 樺太の言葉を話せるのか?」
「最近の和人はアイヌ語を勉強しててな。好きなやつは熱心なんだよ。」
「ほう。あの和人が……」
「松前と一緒にしないでくれよ。彼らが悪事を働いたのは事実だが、和人すべてが同じじゃない」
そう言うと、男は少し肩の力を抜き、軽く頷いた。
「ならば話そう。この交易所は最高だ!ちゃんと値が決まっていて、この貨幣というものがあれば、好きな時に好きなものと交換できると学んだ。きつね蕎麦というのだろう?あれも実にうまかった。わしは海辺のアイヌだが、山の仲間からも頼まれ、冬が来る前に物品を交換に来たところなんだ」
「気に入ってくれてよかったよ。もし樺太にも交易所を作るとなったら、どう思う?」
問われた男 ――ウシカと名乗った―― は真剣な眼差しで少し遠くを見た。
「和人は嫌いだった。だが、この町を見ると……カムイの技術が溢れておる。大きな家、カムイの手、あの巨大な船……お主らにとってわしらを屈服させるのはどうってこともないだろうな。どうせなら、平和的に双方歩み寄りたい。あの音のでる箱を聞いていると、そう思える。」
ちょうどその時、交易所の天井に吊られたスピーカーから、歌姫ラオチの透き通る歌声が流れ、ざわめく人々が皆黙って耳を傾け、溶けるような顔で聞き惚れている。
「なぁ、樺太を見てみたいのだが、遊びに行っていいか?あそこのデカい船でだ。ウシカも、荷も、船もまとめて運んでやるよ。君らの村も見たいし、みんなの話も聞いてみたい。今は昼過ぎだろ?そうだなぁ…日が沈むまでには家に帰れるぞ?」
「……わ、わしらの船を、あれに乗せるのか?夕刻までに帰り着くじゃと?わしはここまで5日かかったが。まぁ船乗りとしては興味しかないのが本音じゃ。」
信じられないという顔をしたウシカに、翔馬は笑って頷いた。
こうしてウシカの小舟は前方開放式の揚陸艦に載せられ、樺太のピラ村へ向かった。史実での大泊に位置する集落だ。揚陸艦が海面を滑るように進むと、村人たちは巨艦の影に怯えるよりも、浜辺に立ち、ただ呆然とその大きさに見入っていた。敵意は感じられない。むしろ彼らの雰囲気には、長年の平和に育まれた柔らかさがあった。
(座標 46.62849805081536, 142.76963496871355)
ウシカが船の先頭に立ち、得意気な顔で手を振る。
村人はさらに驚き、口々に叫んだ。
「な、なんだウシカ! どうしたんだ、その船は!」
「稚内で出会った和人が、樺太を見たいと言うてな。話を聞いてやってくれ!」
翔馬は丁寧な礼を尽くし、冬に備えての保存食や合金製の道具をプレゼントしながら、モシリの現状、千島・カムチャッカで迫りくるルーシの影、そして今後の選択肢を静かに伝えた。村人たちは交易所の話には強く心を動かされたが、“和人に支配される”ことに対する迷いは大きかった。しかしウシカが稚内の変貌を興奮気味に語り、実際に持ち帰った品々を見せるうち、反対の声も次第に弱まっていった。
その晩は船で休み、翌朝、ウシカは「荷を預かった村に交易品を届けねばならぬ」と告げた。話を聞くと、地図上では、史実の樺太最大都市、豊原近郊にあたる集落だ。川を二日かけて遡るという行程に、翔馬は即座にウォータージェット巡視艇の準備を命じた。やがて海面に浮かんだ銀色の船体にウシカは目を丸くし、そして乗り込んだ瞬間、初めてジェットコースターに乗る子供のように叫び声を上げた。
「うわぁぁぁ!速い! 速すぎるぞ、これは!!」
蒸気タービンの高いジェット音とともに、時速80キロで海を駆け抜け、川へ入り、蛇行する流れを慎重に辿る。彼らが二日かける道のりを、一時間で走り抜けると、ウシカは完全に魂が抜けたように白目を剝いていた。
(座標 46.910161049066424, 142.70332115797802)
豊原周辺の集落に到着すると、またも村人が集まり、そして再度、帆先でのウシカのドヤ顔とも言える得意気な姿に驚きの声を上げた。翔馬はここでも礼を尽くし、備蓄物資を分け、情報を渡した。しかし彼らは、ルーシと和人、蒼人、社会情勢の基礎的な知識を持たず、何が良くて何が悪いのか判断するための材料を持っていない。交易所は欲しいが、支配は……。その葛藤は当然だった。
翔馬は議論を急がせず、まずはAM電波の中継棟を建てることだけを約束した。あの“音のでる箱”を複数台手渡し、周辺の集落にも届けてくれと頼むと、人々は困惑と期待を入り混ぜた面持ちでそれを受け取った。
「また暖かくなったら来るよ」
そう言い残し、翔馬たちは樺太の大地を後にした。気配はまだ静かだったが、その向こうには、すぐそこまで迫るルーシの影がある。彼らの選択が、やがて大きな流れを生むだろう…翔馬はそう確信しながら、冷たい海風を胸いっぱいに吸い込んだ。




