ランデブー
苫小牧に着いた翔馬は、冬の名残を引きずる冷たい風も気に留めず、その足で議場に向かった。
大熊翔馬としての定例議会、天礎翔馬としての発明奉行の決裁…
二つの顔を瞬時に切り替えながらこなす姿は、もはや周囲にとって日常の光景でしかなかった。
だが、当の本人の胸中は凪ぎとは程遠い。
カムチャッカのことが片時も頭を離れないのだ。
色丹基地との定時通信は数時間おき。
無線機は常に腰へ下げ、会議中もスイッチは入れたまま。
ちょうど苫小牧の中央広場で、開局を控えたモシリ電波放送、つまりはラジオ局のパーソナリティー公開オーディションが始まったころだった。
老若男女が集まり、小さな娯楽に湧く街の空気は明るく、春の祭りのような賑わいさえあった。
しかし、その陽気を裂くように、無線が唐突に唸りを上げる。
――ザッ……ザ……
〔アマソサマ、トリデニ ルーシノ コブネ セッキン。ジュウゲキセン ハッセイシ…〕
続いて、緊迫を押し殺した色丹の通信士野崎忠五郎の声が鮮明に入った。
「天礎さま、ルーシの小舟が砦に接近、銃撃戦が発生した模様です。
モールスにて“テキ ヨニン ゼンイン センメツセシ”と……」
翔馬は無意識に息を呑んだ。
「…わかった。明朝には色丹へ戻る。俺の船で出る。出立の準備を急がせよ」
敵は四名。
恐らく毛皮徴収の小規模な“ローカル組”
それでも、氷解期に合わせルーシの動きが目に見えて活発化している証拠だ。
無線を切ると、翔馬は何事もなかったかのようにステージへ戻った。
大熊翔馬の顔で、候補者たちに笑みを向ける。
苫小牧の民は、まさかその胸中の緊張に気付く者など誰もいない。
声の美しい男女が次々と壇上へ上がり、アイヌの若者が独特の節回しで朗読すると、客席から歓声が上がった。
(……夏の開局に間に合わせたい。どちらも落とせない)
そう腹の底で決め、翔馬は淡々と選考を進めた。
オーディションが終わると同時に、水野副長官へ事後を託し、翔馬はすぐさま色丹行きの高速輸送船へ飛び乗った。
既に補給物資は積み込まれている。
船は夜を裂いて北上し、最短の三日で前線砦に到着した。
砦では兵たちが整列し、まだ冷たい空気に息を白くして敬礼した。
「ご苦労。状況を報告してくれ」
現場指揮官は緊張の面差しのまま語る。
「小舟が近づいたため、拡声器でルーシ語にて警告しました。
“ここは日本国領土、武装解除し指示に従え”と。
すると向こうが先に発砲してきたため、やむなく応戦……結果、四名とも即時に射殺しました。
遺体・船とも既に回収済みです。
距離は百メートルほどでしたが、隊員の射撃は初弾で命中しました。」
(敵は威嚇射撃のつもりだったのだろうな……しかし百メートルでほぼ必中か。訓練の成果が想像以上に出ている)
翔馬はわずかに息を吐き、指揮官の肩へ軽く手を置いた。
「よくやった。ここまで鍛えたのはお前たちだ。胸を張れ」
回収されたコサック兵の遺留品を見ながら、彼らの生活と任務の重さを頭の中で組み立て、簡素だが丁寧な埋葬を行った。
それからすぐ、翔馬は数名の兵とともにウォータージェット巡視艇に乗り、北方へと向かった。
荒天の海でも滑るように進む高速艇で、約10キロ先の岬へ到着。
そこに早期警戒のキャンプ地を設置した。
(56.024619202433904, 162.07752502087706)
テント、手回し充電式無線機、厚手の寝袋、保存食、そして双眼鏡。
ただし煙で居場所バレを防ぐため火の使用は禁止。
海をひたすら見張る…それだけの、しかし最も重要な任務だ。
ここからであれば、水平線の靄の先に肉眼でも河口付近の地形が見える。
双眼鏡を使えば、10キロ以内に近づいた船は見逃さないはずだ。
「敵影を見たら、すぐに無線で知らせろ。その迅速さが鍵だ。一週間で交代するから、頑張ってくれ」
兵たちは厳しい任務に頷いたが、その背には誇りが宿っていた。
砦に戻ると、翔馬はすぐに“空気”の異変を感じた。
兵士たちが常に眉間へ力を込めている。
どの目も張りつめ、睡眠不足すら滲んでいた。
(……この調子では夏を越える前に、精神がやられそうだな)
そこで翔馬は物資庫を開け、テーブルに“あるもの”を並べた。
「……おお、将棋!人生遊戯?オセロ?なんだ?」「酒まで……!」
非番の時間に限り、娯楽を許可した。
酒量は制限、喧嘩は厳禁。
しかし、その夜から砦にはかすかな笑い声が戻り、兵たちの目の周囲の影が薄れていった。
迎撃の備えは怠らない。だが、張りつめているだけでは戦えない。
翔馬は、砦の見取り図を夜の灯の下で見つめながら、静かに呟いた。
「さて……敵との“ランデブー”はそろそろだな」




