1711年 正月 江戸屋敷にて
半年以上、家を空けていた。
久々に帰ると、金之助のせがれ・真は、俺の顔を忘れてしまったらしい。
門をくぐると、白い息を弾ませて皆が出迎えてくれた。
その後ろで、少し照れくさそうに身を引いているのは、ピリカレラだった。
9カ月ぶりに見る彼女は化粧をし、ひとつ大人びた空気を纏っていた。
「よぉ、ピリカレラ。しばらく見ぬうちに、きれいになったな。」
アイヌ語でそう告げると、彼女は顔を真っ赤にして、勢いよく家の中へ駆け込んでしまった。
「ん?何を言ったんだい? ピリカレラちゃんをいじめると、兄いでも承知しないぞ?」
金之助が呆れ顔で言う。
「いやいや、褒めただけさ。恥ずかしくなったんだろう。」
鈴さんが、金之助の脇腹に肘を入れる。
「ほんとに、あんたは鈍感だねぇ。」
笑い声が、囲炉裏の炎と一緒に弾けた。久しぶりの、暖かい帰り着きだった。
正月の膳を囲みながら、場はすぐにモシリの話題で持ちきりになった。
俺が話す現地の様子に、皆が目を輝かせる。
「羊を飼ってるんだがな、熊によく襲われるんで、綱吉公が大事にしていた犬っころを護衛につかせたんだ。ところがそいつらが鶏舎を荒らして大騒ぎになってな。」
笑い話に、場が和む。
ピリカレラだけは無言だったが、その瞳は真剣そのものだった。
「シラウオイは……どうなってる?」
思いがけない問いに、一瞬言葉を詰まらせた。
彼女は村から追い出された身だ。それでも、まだ故郷を気にかけているのだ。
「シラウオイは苫小牧の隣だからな。室蘭まで鉄道ができて、その中間の町としてすごい発展ぶりだぞ。」
バッグから、スケッチ用紙を取り出した。
現地で描いた鉛筆画…室蘭の入江の港に建設中の製鉄工場と製紙工場、白老の木材置き場、中央議会の建物、そして広い通りを走る自動車と脇に並ぶ街灯。
「これが……苫小牧?」
「そう。まだまだ仮設の段階だけどな。あと3年もすれば立派な町が出来上がっているだろう。その時の町の機能としては、もう江戸を超えてるかもしれん。」
一番年長の藤川勘兵衛が、スケッチを覗き込みながら眉を寄せた。
「この広い道の脇に立っとるお玉みたいなもんは……なんじゃ?」
「ガス灯です。江戸じゃ規制が厳しくて国道沿いしか設置できなかったけど、モシリでは自由に街を作れたからな。地下に“燃える空気の道”を通して、街の隅々まで火を運んでるんですよ。夜になれば明かりが灯り、足元を照らすのです。」
「燃える空気……? ほう、まるで魔法じゃな。」
「それだけじゃありません。この住居、四階建てですけど、水道もガスも、そして電気も通ってます。」
「で、でんき……?」
勘兵衛が口をあんぐりと開け、鈴さんは笑いをこらえている。
一方で、ピリカレラの表情は違った。
驚きと、そして誇らしさが入り混じったような顔で、俺を見ていた。
「翔馬さんの知識で……江戸よりもすごい街を作っているんですね。これは……いつか見てみたいなぁ」
聞けば、春から未来館の大学に通い、農業を中心に、幅広く学んでいるらしい。
「いずれ、モシリを背負う人になりたい。あなたのように。だから、勉強する。」
まっすぐな眼差しに、一瞬、心が揺さぶられた。彼女を側近に引き上げる発想が浮かんだが、すぐに言葉を飲み込んだ。
彼女の成長を、もう少し遠くから見守りたいと思ったのだ。
「ピリカレラ。農業の勉強が好きなら、これをやるよ。久留里とモシリでの栽培記録をまとめた報告書だ。図解付きで200枚以上ある。暇なときにでも読んでくれ。」
差し出すと、彼女はまるで宝物でも受け取るように抱きかかえ、そのまま自室に駆け込んでいった。
「研究者気質だな、ありゃ。」
思わず笑みがこぼれる。
その夜、囲炉裏の火が静かに揺れる中、翔馬は心の底から思った。
平和とは、こういう時間のことを言うのかもしれない。
1711年の正月。
久しぶりに味わう、穏やかな夜だった。




