ピリカレラと江戸
翔馬様の屋敷に来て、もう半月が過ぎた。
あの人の歩く姿は、不思議と人を安心させる。体は大きく強く、まるで熊のような出で立ちではあるが、声は穏やかで、怒鳴ることもないのに、誰もが自然と頭を下げる。
最初は怖かった。和人はみんな、私たちを見下しているものだと思っていたから。
けれど翔馬様は、私の話を最後まで聞いてくれた。あの真っ直ぐな眼差しを思い出すと、胸の奥がくすぐったくなる。
こんな気持ちは、生まれて初めてだ。
屋敷での暮らしは、函館の家とはまるで違う。
朝は早く、庭の木々が霧の中で静かに光る。台所では、金之助さんの妻、鈴さんがいつも優しく声をかけてくれる。
「おはよう、ピリカちゃん。昨夜はよく眠れた?」
その柔らかい声を聞くたび、心の奥が温かくなる。
金之助さんは賑やかで楽しい人。ふたりの息子の真は、私を後追いしてきて愛おしい。
藤川さんは少し話しかけにくいお爺さんだけど、いつも気にかけてくれているのが分かる。
浜田さんの妻、千代さんも気さくな人で、十歳になる娘の千花ちゃんとは、すぐに仲良くなった。
千花ちゃんは私の黒髪を触って「すべすべだね」と笑った。私は照れくさくて、顔をそむけてしまった。
それでも、誰かに笑いかけられることが、こんなにも嬉しいなんて知らなかった。
ある日の午後、藤川さんが声をかけてきた。
手には帳面のようなものを持っている。
「翔馬様が、来週から始まる一般講座に出てみると良いとおっしゃいました。気に入れば、『未来理科大学』という学び舎にも進めるかもしれませんぞ。次の開校は4月でまだ先じゃけど。」
私はすぐに目を伏せた。
「私なんかが……字もろくに読めないし……」
藤川さんは笑った。
「なんの問題もない。字が読めぬ農民の子も、算術を知らぬ町人も通っておる。翔馬様を見ていると、臆せず前に進むことが何より大事だと分かりますよ。そんな活力に満ちた場所ですよ。」
その言葉が胸に響いた。
この屋敷の人たちは、みんな優しい。けれど、ただ甘やかしているわけじゃない。
私が、もう二度と“誰かに守られるだけの存在”でいないように、見守ってくれている。
夜、灯りの下でしばらく考えた。
私も、何かを始めなければならない。
あの人の隣で、胸を張って並んで歩きたい。
そんな気持ちになった。
「……講座、受けてみます。」
小さく呟いた声が、部屋の中で震えた。
一般講座は、木工・製鉄・医学・農業の四つ。
どれも知らない世界だ。木工も気になったけれど、鈴さんが「翔馬様の農業の話は面白いよ」と言っていたのを思い出した。
だから私は、農業を選んだ。
場所は、大江戸未来館。
初めて江戸の町を歩いた時のあの騒がしさを、今でも覚えている。
行き交う人々の声、魚を売る音、どこまでも続く瓦屋根…。
山と風と殺風景な小屋しか知らなかった私には、すべてが眩しかった。
講座の初日。
教場には農民や職人、女中や若い商人まで、いろんな人が集まっていた。
この日の授業の内容は、「救荒作物」
最初は知らない言葉を聞いて気落ちしたけど、言葉を知らないのは私だけじゃないみたい。
先生がわかるようにみんなに説明してくれた。
和人は田畑を耕し、そこに作物を植えて糧にしているらしい。
アイヌの狩猟採取に頼る文化とは大違いだ。
しかし、近年の冷害の頻発により、収穫量が安定していない。これはアイヌでも同様であった。
夏が長雨で寒い年には、食べ物が不足して沢山のアイヌが死んだ。
翔馬さまは、気候が安定しない時でも飢えないように、非常時用の作物を研究されているという話だった。とても感銘を受けた。
休み時間に、周囲の農民の若者が話している。
「天礎様は、鶏の生育場を作ってるって江戸で話題になってるんだろう?」
隣の若者が興奮気味に話す。
「あぁ、久留里のやつだろう?五十万匹とか百万匹とか、もう訳が分からねぇな!百万とはどのくらいの数なのか?」
私は思わず聞き返した。
「養鶏所って……何だろう?」
若者が笑って教えてくれた。
卵や肉のために鶏を育てる場所だという。
そんな仕組みがあるなんて知らなかった。
窓の外を見ると、秋の風が木々を揺らしていた。
知らない言葉、知らない世界。けれど、心のどこかが少しだけ弾んでいた。
……藤川さんの言った“新しい出会い”。
それは、人だけじゃなく、自分の中の何かとも出会うことだったのかもしれない。
気づけば、私は小さく笑っていた。
次翔馬様に会ったら、講座の話をしてみよう。




