宝永地震発生
10月4日…
その日を前にして、江戸の町には妙な空気が漂っていた。
「いよいよ10月だぞ。本当に来るのかな?」
「馬鹿言え、そんなものわかるかい」
「けどなぁ、2年も前からチラシが配られてるだろ?……ま、話の種にはなるがな」
居酒屋の一角、路地の茶屋、商家の軒先…どこでも一度はそんな噂を耳にする。信じる者は少ない。それでも、まったくの戯言として片づけることもできず、人々の心の片隅に棘のように引っかかっていた。
翔馬はその反応を知って、胸を撫でおろしていた。たとえ半信半疑でも「地震のことを思い出す人がいる」。それだけで、救える命があるかもしれない。
未来館の工場では、一部を残しほとんど休止し、全力で災害への備えに力を割いていた。四隻の船を港に集結させ、二隻を一組に編成する。
一隻には食糧・飲料・寝具・蒸気で動く重機類と燃料の石炭備蓄。もう一隻には倒壊した家屋に代わるツーバイフォー仮設資材や生活必需品。
「これほどの準備を……翔馬殿は、何を焦っておられるのか」
「いくら噂が広がっておるとはいえ、工場を止めるとは……」
職員らの間には、不信感すら芽生えつつあった。だが翔馬は、己の直感と知識に賭け、ただ黙々と準備を続ける。
そして……10月4日、午後2時。
地の底から突き上げるような、長く低いうねりが江戸の町を揺らした。
「……地震だ!」
「長いぞ、これは……!」
人々は家々から飛び出し、柱や瓦が音を立てるのを必死にやり過ごす。幸い江戸は大きな被害を免れた。永遠とも思える長い揺れが収まると、江戸の町には再度平穏が訪れた。
しかし、時が経つにつれ、早馬に沿って次第に方々から報告が舞い込んできた。
「駿府より急報! 沿岸の村々が津波に呑まれたと!」
「三河も被害甚大! 街道は寸断、早馬すら通れぬ有様とのこと!」
報せは東海道沿いに連なり、だが尾張を越えると、まるで途絶えたかのように何も入らなくなった。情報は途切れ、江戸の城下は不安に包まれる。
ーーそのころ、土佐藩邸。
乾は苛立ちを隠せなかった。
「ちっ……情報が来ぬ! 尾張から先が地獄と化しているなら、土佐も無傷では済まんはずだ……」
そこへ領主が顔を見せる。
「乾よ、このまま江戸にとどまるは危ういのではないか。国元に戻るべきか……」
乾は唇を噛みしめ、ふと一人の男の顔を思い浮かべた…翔馬。
彼は数か月前にこの事態を予見していた。まさか、と思いながらも、その言葉が脳裏を離れない。
「……翔馬なら」
居ても立ってもいられず、乾は藩邸を飛び出した。着の身着のまま未来館へ駆け込み、息を荒らしながら翔馬を探し出す。
「翔馬!お前の言った通りだった……! 土佐は……土佐はどうなっておる!?」
翔馬は一瞬、沈痛な顔を見せる。
「わからん。しかし、この揺れの規模からすれば……無傷では済んでいないだろう」
乾が絶句するのを遮り、翔馬はすぐに言葉を続けた。
「来てすぐで悪いが、俺は将軍に会いに行く。救助命令が下れば、土佐を最優先にする。……だから、お前は藩邸で話し合え。俺と共に行くかどうかを決めろ。即決だ。決断に割く時間は残されていない。」
そう言うや否や、翔馬は乾を自動車に押し込んだ。蒸気の唸りとともに車は走り出し、土佐藩邸前で乾を降ろすと、まっすぐ江戸城へと駆けていった。
地鳴りの余韻がまだ空気に残る中、未来を知る男の行動だけが、誰よりも速く確かであった。
ーーー
御座の間。襖の外には小姓や近習が固唾を呑んで控えていた。障子越しに伝わる将軍の声は、いつもより一段張りつめていた。
翔馬は深く頭を垂れると、静かに切り出した。
「本当に、起きてしまいました。……いかがなさいますか。」
将軍は落ち着かぬ様子で、膝の上の扇子を何度も開いては閉じる。
額には薄い汗が浮かんでいた。
「翔馬よ。お主の警告通りになりおったな。今の段階では情報がない。各藩からの報せもまだ届かぬ。判断のしようがなかろう!」
声は上ずり、苛立ちを隠せぬ。翔馬は一礼しつつも、間髪入れずに言葉を重ねた。
「だからこそでございます、将軍。私の知見によれば、予言通りの大災害に見舞われている藩が多数あるはず。紀州、土佐、大坂……被害甚大にて、いまだ早馬も辿り着けぬでしょう。」
将軍の眉がピクリと動いた。苛立ちの奥に、確かな不安が潜んでいる。
「……だが、援助要請が来てもおらぬのに、こちらから動けるものか!向こうから頼むのが筋であるだろう。」
御座の間に重い沈黙が落ちる。
翔馬は一歩前へ進み、将軍の正面に深々と頭を下げた。
「前回の話の続きでありますが、無事であれば、それで良かったで済む話。ですが、もしそうでなければ。この状況下で藩を案じ、手を差し伸べる幕府の姿勢こそ、民に安心と忠誠を抱かせるのです。」
「……ふむ。わしもお主に言われてから、時折同様のことを考えることはあった。だが、決めかねる。」
将軍は扇子を止め、翔馬を鋭く睨む。だがその目の奥に、動揺の色が消えない。
「今が肝要でございます。地震発生からすでに半日。街道は寸断され、報せは届きません。被災した人々にとっては、今この瞬間の助けこそが何よりの励み。幕府が先んじて動くことが、幕府への信頼に繋がり、国全体を支える柱となりましょう。
発明奉行としては、この事態を予見し、すでに出立の用意はできております。」
再び沈黙。やがて将軍は深く息を吐き、膝上に置いた扇を静かに閉じた。
「……おぬし、口が立つな。なるほど、一理ある。」
小姓たちがざわめきを押し殺す。翔馬は頭を垂れたまま、次の言葉を待つ。
「よかろう。被災地支援の命、そなたに委ねる。幕府の倉を開き、米をはじめ物資を未来館へ集めさせよう。」
「ははっ! 必ずや、幕府の威光を示してみせます。」
翔馬は深々と頭を下げた。
その瞳は、既に遠く被災地を見据えていた。




