江戸城 報告の間
江戸城の一室。
障子越しに、夏の強い陽が射し込んでいた。
卓上には翔馬が持ち帰った極北の地図が広げられ、チュクチからカムチャツカ太平洋岸までの航路が、朱線で力強く引かれている。
将軍・家宣は腕を組み、じっとその朱を追っていた。
新井白石は背筋を伸ばし、眼鏡越しにじろりと地図を見下ろす。
翔馬はその横で、淡々と戦況を説明していく。
「…ここがアナディルスク砦です。到着は午後の刻。約半刻後に包囲完了。次の半刻で制圧開始。ここからはご覧の通り……」
言葉を重ねるほど、地図の上で朱線が生き物のように動いて見える。
まるで極北の風景そのものが、ふたりの目の前で立ち上がってくるようだった。
説明が一段落したころ、家宣がふと呟くように尋ねた。
「何百人も相手にしてきたのであれば……で、うちは何人死んだのだ?」
部屋の空気がすっと張りつめる。
白石も横目で翔馬を見た。
翔馬は、まるで天気の話でもするように答えた。
「ゼロですよ。ひとりの被害も出しておりません。数人、ぬかるみで転んで擦り傷を負ったくらいで。現地協力者や人質にも死者はおりません。」
家宣の眉が上がった。
白石は言葉を失い、扇を半開きにしたまま固まった。
「……ゼロ?」
家宣が念を押すように言う。
「ゼロです。」
しん、と静まり返る。
やがて白石が、疑念を隠そうともせず呟いた。
「いくらなんでも、出来すぎてはおらぬか?
そなた、少し“話を飾って”おらぬか?」
翔馬は肩をすくめ、持参した革のカバンをのぞきこんだ。
「では、こちらを。」
ごそり、と厚いものが卓上に置かれる。
「写真」という、この時代にはあまりに異質な黒い冊子。
家宣と白石は思わず身を乗り出した。
ページを開くと、そこには凍てつく大地と、飛びかかるように銃を構えたコサック。
爆風が木柵を吹き飛ばす瞬間。
黒煙の向こうで翻る日本国旗と徳川の紋。
地に伏すルーシ兵の遺体の列。
鎖につながれた捕虜を見て歓声を上げる先住民たち。
そんな戦況写真が何百枚と納められている。
ふたりは息を呑んだ。
「……絵ではないな、これは。」
白石の声が震えていた。
家宣は手を止めず、ページをめくりながら呟く。
「言よりも……見るほうが真実味が増す、か。」
やがて一冊を閉じ、翔馬に視線を戻す。
その目は、先ほどとは明らかに変わっていた。
翔馬は静かに口を開く。
「我が国が使っている武装や戦術は、ルーシよりも遥かに先を行っています。
来年には正式に“国軍”として、藩に均一の装備と訓練を伝えようと考えています。
ゆくゆくは、藩を廃止し、すべてを中央集権で統一するのです。」
白石が椅子を蹴るように立ち上がった。
「な、何を馬鹿な!藩をまとめるなど!」
しかし家宣はその反応を見越したかのように、ウンウンとうなづく。
翔馬は机の下から、さらに大きな世界地図を広げる。
西洋諸国の色で塗りつぶされた世界。
地図のほとんどが……どこも彼らの色で埋まりつつある。
翔馬は、まだ白い部分を指で叩いた。
「ここです。 この大陸も、この大きな島々も、先住民が暮らしているだけで“国家”とは呼べません。しかし、数十年以内に、ここも西洋の色で塗られます。」
息を呑む白石に向き直る。
「我が国は、いま“藩”という小さな利権にしがみついている。
そのままでは外圧に耐えられない。
まとまらねば……飲み込まれる。」
声が自然と強くなる。
「かといって、そなたの北の地のような辺境の地を得たところで、何の利があるのか?」
白石が返すが、翔馬は冷静に返す。
「資源です…… 武力でも、文化でもなく、これから世界の発言権を握るものは“資源”なのです。
食料と鉱物と燃料が尽きれば、どれほど強大な国でも瞬間に詰みます。
我が国は資源に乏しい… 覇権主義の国々に、この命綱を握られる未来を想像してください。我々は今、それを止める力がある」
言い終えたとき、部屋の空気は熱に満ちていた。
家宣はしばらく沈黙し、ゆっくり息を吐いた。
「……ではまず、そなたの言う“ルーシに圧勝する軍”とやらを、この目で見てやろう。
ちょうどモシリを視察したいと考えておったところじゃ。
今年の秋から冬にかけて、参るぞ。
よいな、白石?」
白石は驚きつつも膝をつき、頭を垂れた。
「ははぁ……。」
翔馬は内心で小さく笑った。
今年の秋…まさにインフルが流行する時期。史実なら、家宣が罹患して亡くなる冬。
以前より、将軍を疎開させることを提言はしていた。
将軍一家を江戸から離脱させる“口実”としては、これ以上ない。
「では、準備を整えておきます。」
家宣は満足げに頷いた。
「うむ。お主の見せる未来、楽しみにしておるぞ。」
家宣を救う。そして国の形を変える。すべてが噛み合い、新しい歴史の歯車が回り始めた。
そんな感覚をひしひしと実感していた。




