半世紀に及ぶ戦いの末
アナディルの町は、勝利の報せが伝わったその瞬間から、一斉に沸き返った。吹きすさぶ風など誰も気に留めず、焚き火を囲んでは酒を酌み交わし、太鼓のように木箱を叩いて踊りはじめる者まで出た。
だが、翔馬は浮かれる町の中を歩きながら、あえて声を潜めて言い添えた。
「まだ野良のルーシが残っている。弓はそのまま持っておけ。見かけたら……すまないが、処分してくれ」
住民たちは真剣に頷いた。
喜びと不安が入り混じったその表情には、この土地が背負ってきた長い怯えがそのまま刻まれているようで、翔馬は胸の奥に冷たいものが走るのを自覚した。
チュクチの地は、想像以上に広大だ。純粋に面積で日本の倍はある。人々の生活圏は驚くほど広範囲に散らばっていて、ルーシ支配が広まらなかった理由がようやく腑に落ちた。
この広さを短期間で巡り、併合を告げて歩くなど、とても現実的ではない。急げばあまりに過酷で、気長にやるには利が薄い。それに、徒歩や手漕ぎボートでしか行けない先の集落には元から進むつもりもない。あまりにも過酷だ。
ひとつの集落は数家族からせいぜい大きくても100人いかないくらい。アイヌの集落と似てはいるが、集落間の密度がアイヌとは比較にならないほどスカスカだ。山を歩いていくつも越え、マイナス50度に耐え、隣の集落に行くなど、とてもじゃないが考えられない。
(……帰れない人質の処遇をどうするべきか…)
「ま、いいっか。残りたい人はアナディルに残り、日本へ来る気がある人は連れて行こう。」
そう考えると、一気に楽になった。
その帰途、翔馬はひとつの決断を下す。
アナディルから南へ二百キロ。海岸線の静かな入り江に、ただ風だけが通り抜ける広大な岬の土地がある。
(63.05149216292103, 179.32049471641926)
そこは、まだ見出されていない埋蔵量こそ測り知れない炭鉱地帯だった。
「ここに町をつくろう。北方の中継拠点だ」
いまは日本から石炭を運び出しているが、こんな辺境まで運ぶのは骨が折れる。余計な経費も発生する。ここに採掘拠点ができれば、戦略は劇的に変わる。北方での航路・軍事・都市開発の要となるはずだ。
未来の知識で、どこに鉱物資源があるかは熟知しているが、ここほど海に近く、アクセスしやすい場所もそうそうない。
チュクチには、膨大な金銀やレアメタルが埋蔵されている。大陸棚には、21世紀でも把握しきれていない量の石油や天然ガス資源が埋もれていると言われている。
その辺鄙さゆえ、21世紀でも開発は進んでいなかったが、ルーシではなく、日本という本土に近い立地となれば話は別だ。今後、後世に大きな価値を生むことは間違いないだろう。
さしあたっては、現生で価値の重い金銀の採取、これは、急いで取り組むべき課題で、行動範囲を広げるためにも、中継地としての燃料補給基地が必要になってくる。
価値がないと思われる場所でも、金銀が採れるというだけで人は目の色を変える。
極寒の山奥であったとしても、人の動きが生まれることは歴史を見れば明らかだ。
捕虜となったルーシの百名は、一行の牢屋には収まらず、鎖につながれたまま船の広間に押し込められていた。彼らはまずアバチャの強制収容所へ送り、準備が整い次第、炭鉱で働かせる。
それまでは、造成中のアバチャの町づくりに従事させるつもりだ。
帰り道、翔馬はアレクセイ・ゴズィリンが語っていた通り、チュクチからカムチャツカへ至る海岸線の村々を訪れた。
かつてルーシに毛皮を奪われ、男たちは鞭で打たれ、女や子どもは怯えながら暮らしてきた集落だ。
海霧のなか、小さな村へ踏み入ると、住民たちは最初こそ警戒の目を向けてきた。やがて日本の旗と、ルーシ兵の捕虜を連れた一行の姿を認めると、ざわめきは静かに歓声へと変わっていった。
翔馬は前に出て、ゆっくりと言葉を選びながら告げた。
「ルーシの支配は終わった。彼らは追い払った。これからは日本がこの地を守る。毛皮の徴発も、暴力も、もうない。年に二度、交易船を出す。売りたいものがあれば我々が適正な対価で購入する。買いたいものがあれば、貨幣で好きに買えばいい」
そういって、彼らには交易品のパンフレットを与える。
文字がなくても、感覚的に理解できるよう、イラスト形式にした。
一瞬、静寂が落ちた。
次の瞬間、誰かが泣き出し、別の誰かが両手を挙げて叫び、老人が震える手で翔馬の袖を掴んで「本当か」と何度も問いかけた。
村人たちは焚き火のそばに集まり、日本の一行と肩を組んでは、ルーシの恐怖が去った喜びを、子どもたちでさえ歌で表した。
年寄りは涙をぬぐいながら、翔馬の手を握って放さず、
「おまえたちは、海から来た守り神か……」
とつぶやいた。
翔馬は首を振り、小さく笑った。
「ただ、争いを終わらせたいだけだ。」
もちろん、旅のすべてが利のためではない。
だが確かに利はある。
この辺境には、いまだ誰も知らぬ鉱脈や地下資源がいくつも眠っている。人々が捨て置くような荒れた土地こそ、未来の価値を秘めている…未来を知る翔馬には、そういう確信が常にあった。
ひとつひとつの村で歓喜の声を受け、祈りを捧げられ、子どもが笑顔で駆け寄ってくるたびに、緊張が少しずつほどけていくのを感じた。
すべてを終え、船室の小さな寝台に倒れ込んだとき、体の芯まで疲れが染みわたる。
目を閉じれば、焚き火の向こうで泣き笑いする住民たちの顔が浮かんだ。
安堵と解放の入り交じった気配に包まれながら、翔馬はいつの間にか深い眠りに落ちていた。




