ep4 狭間のブーケ
初夏の海風が、真帆の髪をやさしく撫でていく。
港の桟橋で、彼女は小さな花束を両手に抱えていた。
白い百合と青いスターチス、そして小さな貝殻がひとつ。
今日は、母の命日だった。
真帆は海面にブーケをそっと置いた。
波が寄せて、離れて、また寄せて――花はゆっくりと沖へ流れていった。
「お母さん、海はもう怖くないよ」
つぶやいた声が、潮騒に溶けた。
――――――――
真帆は東京の大学を卒業し、今は海洋研究所で働いている。
一年前、灯台で出会った志乃の言葉が、ずっと胸に残っていた。
「海は、奪うばかりじゃない。届けてもくれる」
その言葉に導かれるように、彼女は海を研究する道を選んだ。
久しぶりに町へ戻ったのは、志乃の三回忌の知らせを受けたからだった。
灯台のふもとには、志乃のために植えられた小さな桜の木がある。
まだ若木だが、風にそよぐ枝がどこか誇らしげに見えた。
真帆はその前に花束を供え、目を閉じた。
「志乃さん、ただいま」
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そのとき、背後から声がした。
「……もしかして、海原さん?」
振り向くと、作業服姿の青年が立っていた。
少し日焼けした肌、穏やかな笑顔。
「俺、翔太。町の海洋調査チームにいるんです。
志乃さんとは、よく海の潮流データを取ってて……たまに一緒に昼寝もしてました」
翔太は照れくさそうに笑った。
「志乃さん、あなたの話をよくしてましたよ。“海の娘がまた来る”って」
真帆は思わず微笑んだ。
「志乃さんらしい……」
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二人は灯台の上まで上がった。
そこから見える海は、かつてよりも澄んで見えた。
「潮の流れが変わったんです。海底のごみを取るプロジェクトを始めてから、
魚の数も戻ってきてて」
翔太が指さした先では、白い漁船がゆっくりと行き交っていた。
「きっと、志乃さんも喜んでる」
「ええ。……あの灯台、夜になるとまだ光りますよ」
真帆はうなずき、ポケットから古びた手紙を取り出した。
志乃から最後にもらった手紙だった。
> 真帆へ
> 海は変わる。人も変わる。
> けれど、変わらぬものがあるとしたら、それは“想う心”だ。
> 光を絶やすな。お前が灯す番じゃ。
文字が少し滲んでいた。
――――――――
その夜、真帆と翔太は港の小さな居酒屋で食事をした。
木造の窓越しに、潮風が心地よく流れ込む。
「研究って、どんなことしてるんですか?」
「海の環境を調べて、守るためのデータを取ってるんです。
たとえば、この町の沿岸もね」
「へぇ、俺たちと同じだ」
翔太は嬉しそうに笑い、コップを掲げた。
「じゃあ、“海バカ”同士ってことで」
真帆も笑い返した。
気づけば、胸の奥に温かい何かが灯っていた。
――――――――
翌朝、真帆は翔太と共に海の観測に出た。
船の上で波を測りながら、真帆は言った。
「志乃さんの灯台って、やっぱり特別ですね」
「うん。あそこを目印に帰ってくる漁師、今でも多いですよ。
俺も夜の海に出るとき、あの光が見えると安心します」
翔太は操舵輪を握り、空を見上げた。
「そういえば、この前町の音楽祭に行きました。
翠さんと修平さんが歌ってて。すごくよかったですよ」
「あの人たち、まだ続けてるんですね」
「“潮風のあとで”って曲、聴いたことあります?」
真帆は静かに頷いた。
「志乃さんの灯台でも流れてた。海の音と一緒に」
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夕方。観測を終えて港に戻ると、翔太が真帆に花束を渡した。
それは、朝に真帆が海に流したのと同じ種類の花だった。
「拾ったんです。沖の方で。波に流されてた」
「え……まさか、あのブーケ?」
「たぶん。潮の流れ的に、奇跡に近いけど」
真帆は言葉を失い、花束を抱きしめた。
少し傷ついていたが、花はまだ鮮やかに咲いていた。
「海が、返してくれたんですね」
「はい。たぶん、誰かの想いごと」
真帆は涙をこぼしながら笑った。
翔太は何も言わず、ただ隣で海を見ていた。
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夜。灯台に灯りがともる。
海面に反射する光が、波間に流れるブーケを照らしていた。
真帆は胸の奥で志乃の声を聞いた気がした。
――「光を絶やすな」
彼女はそっと翔太の手を握った。
「この町で、研究を続けたい」
「じゃあ、ようこそ“潮風の町”へ」
二人の笑顔を包むように、波が静かに寄せては返した。
潮の香りが、未来の匂いをしていた。
次が最終話です。恐らく。




