ep2 灯台の手紙
海の端に立つ白い灯台は、もう何年も光を放っていなかった。
灯台守の志乃は八十を過ぎた今も、毎朝、灯りの窓を磨くのを日課にしている。
光を失っても、それが自分の居場所であることに変わりはなかった。
ある日の午後、郵便配達の青年が息を切らしてやって来た。
「志乃さん、手紙ですよ。東京からです」
「東京?」
差し出された封筒には、見覚えのある名字が記されていた。
――「海原真帆」
志乃の心臓が一瞬止まる。
“海原”は、かつて彼がこの町でただ一人「友」と呼べた男の姓だった。
四十年前、荒れた海で消息を絶った親友――海原俊介の娘の名前だった。
――――――――
手紙にはこう書かれていた。
> はじめまして。
私は海原俊介の娘、真帆と申します。
父の遺品の中に、古い写真がありました。
灯台の前で笑う父と、もう一人の男性――あなたのようでした。
父が最後に見た海の話を、どうしても聞きたくて、来週そちらへ伺いたいと思っています。
――海原真帆
志乃は震える手で便箋を閉じ、しばらく海を見つめた。
あの日の潮風の匂いが、今も鼻の奥に残っていた。
――――――――
一週間後、真帆は本当に現れた。
白いワンピースにスニーカー、まだ十代のあどけなさを残す顔だった。
「志乃さんですか? 真帆です」
「よう来たな。……俊介によう似とる」
志乃の声が、少し掠れた。
二人は灯台の下のベンチに座った。
潮風が吹くたび、真帆の髪が揺れた。
「父のこと、教えてください」
真帆の瞳はまっすぐだった。
志乃は静かに頷き、ゆっくりと話し始めた。
――――――――
俊介とは、少年の頃から一緒に育った。
釣りも喧嘩も、何でも競い合った。
海が荒れた日、灯台の上から一緒に嵐を眺め、「いつか自分の船を持とう」と夢を語った。
だがその夢は、ある冬の夜に砕けた。
俊介は暴風の中、漁に出たまま帰らなかった。
家族を養うため、危険を承知で海に出たのだ。
志乃は止めた。それでも俊介は笑って言った。
「志乃、お前が灯りをつけてくれたら、俺は迷わねぇ」
その言葉を最後に、彼は帰ってこなかった。
――――――――
「灯りを……つけてくれたら?」
真帆が小さくつぶやいた。
志乃は目を閉じ、長く息を吐いた。
「嵐の夜、灯台は故障しとった。電線が切れとったんじゃ。わしは、修理を間に合わせられんかった」
真帆はしばらく黙っていた。
そして、小さな声で言った。
「志乃さんは、ずっとそのことを気にしてたんですね」
「……あの日から、灯りを点けられんでな」
真帆はそっと立ち上がった。
「じゃあ、今日つけましょう。お父さんが帰ってこれるように」
――――――――
二人は灯台の階段を上った。
古い鉄の扉を開けると、風と潮の匂いが押し寄せた。
錆びたレバーを動かすと、かすかに機械の音が鳴り、長い間眠っていた灯りがゆっくりと明るくなる。
志乃の頬に涙が伝った。
「俊介……見とるか……」
真帆は窓の外を見つめた。
夕暮れの海が、黄金色に染まっていた。
「きっと見てます。だって、灯りが戻ったもの」
その声に、志乃は微笑んだ。
潮風が二人の間を抜け、遠くで波が静かに砕けた。
――――――――
数日後、真帆は東京へ戻った。
帰り際、彼女は一通の手紙を渡していった。
> 志乃さんへ
灯台の光、すごく綺麗でした。
あの灯りはきっと、父にも届いたと思います。
私、海の研究をする仕事に就きたいんです。
海を恐れるんじゃなく、守れるように。
また会いに行きます。
――真帆
志乃は手紙を胸に当て、静かに海を見た。
灯台の光が、ゆっくりと夜の海を照らしていた。
その光は、確かに“誰かの帰り道”を導いているようだった。
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秋が来て、港町の祭りの日。
遠くでギターの音が流れてきた。
町の若者――翠と修平が演奏しているらしい。
志乃は灯台の上からその音を聴きながら、静かに呟いた。
「潮風のあとで……か。ええ歌じゃ」
そして、灯りをもう一度強く灯した。
それは、今も変わらずこの町を見守り続ける、友情の灯だった。




