ep1 潮風の後で
夏の終わりを告げる潮風が、港町を静かに撫でていた。
防波堤の上に腰を下ろし、海を眺めていると、背後から足音が近づいてくる。
「やっぱり、ここにいたか」
声の主は、幼なじみの修平だった。高校を出てからは東京で働いているはずなのに、突然の帰郷だった。
俺――翠は、軽く手を上げて笑ってみせた。
「久しぶりだな。いつ戻ってきた?」
「さっき。汽車の中でずっと寝ててさ、駅出たらこの潮の匂いで一気に目が覚めた」
修平は防波堤に腰を下ろし、缶コーヒーを差し出してくる。コンビニのロゴが色褪せて見えた。
「まだ、この海、好きか?」
「嫌いになる理由がない」
「そうか。俺はもう、あの頃の海がどんな色してたかも覚えてねぇよ」
彼は苦笑し、缶を開けた。プシュという音が、どこか寂しく響く。
―――――――――
修平と俺は、小学校からの腐れ縁だ。
どちらが先に話しかけたのかも覚えていない。ただ、いつも一緒にいた。放課後は堤防で釣りをして、夏には海へ飛び込み、冬は焚き火で指先を温めた。
あの頃、海は無限だった。
どこまでも泳いでいける気がしたし、どんな夢も届くと思っていた。
だが、現実はそう優しくなかった。
高校三年の春、修平が突然言い出した。
「東京行く。音楽の学校、受ける」
彼のギターの腕前は町でも評判だった。
だが、俺は心のどこかで焦りを覚えた。自分は何も持っていない。進学もせず、父の漁を手伝うだけの生活が待っている。
それを「仕方ない」と思う自分が、いちばん情けなかった。
修平が町を出た日、港に集まった仲間の中で、俺だけが見送りに行かなかった。
海に背を向け、船のエンジン音を聞きながら、砂を強く蹴り上げた。
――――――――
「翠、覚えてるか? 中学の文化祭」
修平がふいに言った。
「俺たちでバンド組んで、全然ウケなかったやつ」
「覚えてるよ。途中でお前の弦が切れて、俺が太鼓叩いてごまかした」
「そう、それ。今思えば、あれが最初で最後のステージだったな」
彼の笑顔に、どこか影が差していた。
「……東京、辞めたんだ」
「え?」
「もう音楽、やってない。仕事もうまくいかなくてさ。バンドも解散した」
修平は波打ち際を見つめながら、言葉を絞り出すように続けた。
「結局、俺は逃げたんだよ。夢見ることからも、自分からも」
俺は言葉を失った。
東京へ行った彼は、ずっと「前を走る人間」だと思っていた。
けれど、その背中が折れていたなんて、想像もしなかった。
「逃げてもいいだろ」
気づけば、そう口にしていた。
「俺だって、海から逃げたようなもんだ。父さんが倒れて、漁継ぐしかなくて。夢なんか後回しにした。でもさ、逃げた先で生きてるなら、それでいい」
修平は、ゆっくりとこちらを見た。
潮風が、彼の髪を乱した。
「お前、変わったな」
「お前がいなかったからだよ」
「はは、責任重大だな」
二人で笑った。けれど、その笑いはどこか壊れやすかった。
――――――――
翌朝、港に出ると、修平が防波堤でギターを抱えていた。
弦は錆びついていたが、彼の指が触れるたび、音は確かに海へ広がった。
「調律もズタズタだな」
「それでも音は出るだろ?」
「まぁな」
朝日が海面を照らし、波が銀色に揺れていた。
修平は一曲、弾き語りを始めた。知らない曲だったが、不思議と懐かしかった。
「新しい曲か?」
「昨日、作った。タイトルは“潮風のあとで”」
「……いいタイトルだな」
演奏が終わると、修平は深く息を吐いた。
「もう一度、やってみようと思う。東京じゃなくてもいい。ここで、曲を作りたい」
「ここで?」
「うん。海の音、風の匂い、全部詰め込みたい。……お前の手伝いもしながらでもいい」
俺は笑って頷いた。
「船の手伝いは地味だぞ。塩と汗の匂いしかしない」
「その“匂い”が曲になるんだよ」
そう言って、修平はギターを肩にかけた。
その背中は、もうあの日のように遠く感じなかった。
――――――――
夕暮れ、二人で船を出した。
波の向こうに、薄くオレンジの光が溶けていく。
修平が海面に手を伸ばし、言った。
「この海の音、録ってもいいか?」
「好きにしろ。お前の音楽だろ」
「違うよ。お前と、俺のだ」
その言葉が、胸の奥に静かに染みた。
――あの日、見送りに行けなかった俺たちは、ようやく同じ場所に戻ってきたのかもしれない。
海がまた、あの頃と同じ色に見えた。
いや、違う。
少しだけ、優しい色をしていた。
――――――――
数週間後、港町の小さな祭りで、修平はステージに立った。
観客のほとんどは顔見知りの町の人たち。
海風に揺れる提灯の下、彼はギターを抱え、マイクに向かって言った。
「久しぶりに帰ってきました。……昔の友達が、もう一度、海の音を聞かせてくれたんです」
俺の方を見て、笑った。
そして、あの曲――「潮風のあとで」を弾き始めた。
波のリズムとギターの音が重なり、町中に柔らかな響きが広がる。
観客の中で、誰かが涙を拭いた。俺もまた、知らぬ間に目頭が熱くなっていた。
曲が終わると、拍手が湧き起こった。
修平は深く頭を下げ、海を見上げた。
潮騒が鳴り止まない。
でも、その音は、もう孤独ではなかった。
――――――――
夜、祭りの帰り道。
港に立つと、遠くで修平のギターがまだ鳴っていた。
海鳴りの向こうで、誰かが夢を取り戻している。
そしてその傍らには、確かに俺の青春があった。
潮の香りを胸いっぱいに吸い込みながら、俺は空を見上げた。
星が滲むように輝いていた。
――また、明日も一緒に海へ出よう。そう心の中で呟き、波の音に耳を澄ませた。
数週間頑張りました。その結果できた作品です。あと4話ほどありますのでお願いします。




