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潮風の港  作者: 雨香


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1/6

ep1 潮風の後で


 夏の終わりを告げる潮風が、港町を静かに撫でていた。

 防波堤の上に腰を下ろし、海を眺めていると、背後から足音が近づいてくる。


「やっぱり、ここにいたか」


 声の主は、幼なじみの修平だった。高校を出てからは東京で働いているはずなのに、突然の帰郷だった。

 俺――翠は、軽く手を上げて笑ってみせた。


「久しぶりだな。いつ戻ってきた?」

「さっき。汽車の中でずっと寝ててさ、駅出たらこの潮の匂いで一気に目が覚めた」


 修平は防波堤に腰を下ろし、缶コーヒーを差し出してくる。コンビニのロゴが色褪せて見えた。


「まだ、この海、好きか?」

「嫌いになる理由がない」

「そうか。俺はもう、あの頃の海がどんな色してたかも覚えてねぇよ」


 彼は苦笑し、缶を開けた。プシュという音が、どこか寂しく響く。


―――――――――


 修平と俺は、小学校からの腐れ縁だ。

 どちらが先に話しかけたのかも覚えていない。ただ、いつも一緒にいた。放課後は堤防で釣りをして、夏には海へ飛び込み、冬は焚き火で指先を温めた。


 あの頃、海は無限だった。

 どこまでも泳いでいける気がしたし、どんな夢も届くと思っていた。


 だが、現実はそう優しくなかった。


 高校三年の春、修平が突然言い出した。

「東京行く。音楽の学校、受ける」


 彼のギターの腕前は町でも評判だった。

 だが、俺は心のどこかで焦りを覚えた。自分は何も持っていない。進学もせず、父の漁を手伝うだけの生活が待っている。

 それを「仕方ない」と思う自分が、いちばん情けなかった。


 修平が町を出た日、港に集まった仲間の中で、俺だけが見送りに行かなかった。

 海に背を向け、船のエンジン音を聞きながら、砂を強く蹴り上げた。


――――――――


 「翠、覚えてるか? 中学の文化祭」

 修平がふいに言った。

「俺たちでバンド組んで、全然ウケなかったやつ」

「覚えてるよ。途中でお前の弦が切れて、俺が太鼓叩いてごまかした」

「そう、それ。今思えば、あれが最初で最後のステージだったな」


 彼の笑顔に、どこか影が差していた。


「……東京、辞めたんだ」

「え?」

「もう音楽、やってない。仕事もうまくいかなくてさ。バンドも解散した」


 修平は波打ち際を見つめながら、言葉を絞り出すように続けた。

「結局、俺は逃げたんだよ。夢見ることからも、自分からも」


 俺は言葉を失った。

 東京へ行った彼は、ずっと「前を走る人間」だと思っていた。

 けれど、その背中が折れていたなんて、想像もしなかった。


「逃げてもいいだろ」

 気づけば、そう口にしていた。

「俺だって、海から逃げたようなもんだ。父さんが倒れて、漁継ぐしかなくて。夢なんか後回しにした。でもさ、逃げた先で生きてるなら、それでいい」


 修平は、ゆっくりとこちらを見た。

 潮風が、彼の髪を乱した。


「お前、変わったな」

「お前がいなかったからだよ」

「はは、責任重大だな」


 二人で笑った。けれど、その笑いはどこか壊れやすかった。


――――――――


 翌朝、港に出ると、修平が防波堤でギターを抱えていた。

 弦は錆びついていたが、彼の指が触れるたび、音は確かに海へ広がった。


「調律もズタズタだな」

「それでも音は出るだろ?」

「まぁな」


 朝日が海面を照らし、波が銀色に揺れていた。

 修平は一曲、弾き語りを始めた。知らない曲だったが、不思議と懐かしかった。


「新しい曲か?」

「昨日、作った。タイトルは“潮風のあとで”」

「……いいタイトルだな」


 演奏が終わると、修平は深く息を吐いた。

「もう一度、やってみようと思う。東京じゃなくてもいい。ここで、曲を作りたい」

「ここで?」

「うん。海の音、風の匂い、全部詰め込みたい。……お前の手伝いもしながらでもいい」


 俺は笑って頷いた。

「船の手伝いは地味だぞ。塩と汗の匂いしかしない」

「その“匂い”が曲になるんだよ」


 そう言って、修平はギターを肩にかけた。

 その背中は、もうあの日のように遠く感じなかった。


――――――――


 夕暮れ、二人で船を出した。

 波の向こうに、薄くオレンジの光が溶けていく。

 修平が海面に手を伸ばし、言った。


「この海の音、録ってもいいか?」

「好きにしろ。お前の音楽だろ」

「違うよ。お前と、俺のだ」


 その言葉が、胸の奥に静かに染みた。


 ――あの日、見送りに行けなかった俺たちは、ようやく同じ場所に戻ってきたのかもしれない。


 海がまた、あの頃と同じ色に見えた。

 いや、違う。

 少しだけ、優しい色をしていた。


――――――――


 数週間後、港町の小さな祭りで、修平はステージに立った。

 観客のほとんどは顔見知りの町の人たち。

 海風に揺れる提灯の下、彼はギターを抱え、マイクに向かって言った。


「久しぶりに帰ってきました。……昔の友達が、もう一度、海の音を聞かせてくれたんです」


 俺の方を見て、笑った。

 そして、あの曲――「潮風のあとで」を弾き始めた。


 波のリズムとギターの音が重なり、町中に柔らかな響きが広がる。

 観客の中で、誰かが涙を拭いた。俺もまた、知らぬ間に目頭が熱くなっていた。


 曲が終わると、拍手が湧き起こった。

 修平は深く頭を下げ、海を見上げた。


 潮騒が鳴り止まない。

 でも、その音は、もう孤独ではなかった。


――――――――


 夜、祭りの帰り道。

 港に立つと、遠くで修平のギターがまだ鳴っていた。


 海鳴りの向こうで、誰かが夢を取り戻している。

 そしてその傍らには、確かに俺の青春があった。


 潮の香りを胸いっぱいに吸い込みながら、俺は空を見上げた。

 星が滲むように輝いていた。


 ――また、明日も一緒に海へ出よう。そう心の中で呟き、波の音に耳を澄ませた。

数週間頑張りました。その結果できた作品です。あと4話ほどありますのでお願いします。

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― 新着の感想 ―
潮騒の音と二人の優しい会話が聞こえてくるようでした。 「塩と汗の匂い」も、その匂いを宿した曲も、現実には届かないのですが、この作品を読むと自然と浮かんでくるような気がします。 地の文の詩的な表現がとて…
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