当選自慢罪
「んんんー、むほっ、んーふふ、むふっ……」
朝のオフィス。パソコンに向かっていたおれは、手を止め、隣の席の井上にちらっと目をやった。
で、すぐに後悔した。奴が視界に入った瞬間、強烈な不快感が込み上げてきた。
井上は椅子に深く沈み込み、両腕で自分を抱きしめ、足を絡み合わせ、まるで殺虫剤を浴びた芋虫のようにくねくねと悶えていたのだ。
その顔はにやけきっており、口からは「むふっ」とか「あふぅ」とか、気色悪い声が漏れている。何か良いことがあったらしいが、実に気持ち悪い。おれは見なかったことにして、視線をモニターに戻した。
「はあぁぁぁん、うっ、ふうふうはああ、むふっ、うはぁ、あ、あ、あ、あ」
だんだんと周囲も異変に気づき始め、同僚たちがちらちらと井上を盗み見始めた。女性社員の一人は眉間に皺を寄せ、汚物でも見るような顔をしている。シコッてると思ってるのかもしれない。
あながち間違いでもないかもしれないが……いや、本当にシコってるのかこいつ。
井上は恍惚とした表情で椅子にもたれかかり、体を小刻みに震わせながら、艶めかしい吐息と喘ぎを漏らし続けていた。
「あ、あ、あ、あ、うっ、はあはあ、むふう、ははん」
隣の席の同僚が、おれの脇腹を肘で小突いてきた。『お前が聞けよ』ってことらしい。だが、おれだってこんなのに話しかけたくない。
「あ、あ……あーあ、はあああーあ……」
周囲が無視を決め込んでいると、やがて井上は肩を落とし、わざとらしく落ち込んだフリを始めた。だが、その口元は喜びを隠しきれていない。
「はーあ! はーあ! はあああああーああっ!」
今度は叫び出した。ただただうるさい。さらに井上は胸を叩き、机を揺らし、両腕を天へ突き上げた。
「当たったあああああ! 俺、当たったあああああああ!」
とうとう自分から言いやがった……。いや、言ってしまった。
おれは見かねて、井上の肩を掴んだ。
「おい、井上。やめろよ……」
「ん? どうした?」
「どうしたじゃねえよ……なんだ、そのきょとんとした顔。腹立つな。いや、それより、もうやめとけって」
おれは声を潜めて忠告した。だが、井上は満面の笑みを浮かべ、声を張り上げて笑った。
「まあまあまあ、聞いてくれよ! 俺、当たったんだ!」
「おい……」
その瞬間、オフィス中の視線が一斉にこちらへ向いた。空気が張り詰め、おれは反射的に口をつぐんだ。だが、井上は止まらない。
「いやあ、ほんと、俺も当たるとは思わなくてさあ、あ、当たるって、お前……ははははは! ボールが当たったとかそういうんじゃないぞ、バカ! このおバカ! つまんねえよそのボケ! このやろっ! ははははは! そう、当選したのよ! この俺ちゃんがさあ。お前さ、俺のこと運悪いやつだと思ってただろ? 前にそう言ったことあったよな。こっちは覚えてんだよ。ああっ! いいのいいの! 別に根に持ってないから! ははは! 俺だって正直、自分が運のいい人間だと思ってなかったしな……でも、いやー! やっぱ神様って見てんな! というか、もはや俺が神様? いやあ、当たったよねえええ! うん、うんうん、うんうんうん。わかるよ、その気持ち。いやあ、俺もこの幸運を分けてあげたいんだけどさあ……残念! あいにく、一名様限定なんだよねえ!」
「なあ、井上、その辺でもう……」
「やめないよ。俺はな、正々堂々と掴んだんだよ! この幸運を! あのアイドルの東京ドームコンサートの無料チケットをなあ!」
「ああ……」
「どうすっかなー、現地で取材されたら」
「されねえよ」
「ステージに呼ばれたりして……」
「呼ばれるわけねえだろ」
「メンバーになってくださいって言われたら……ああ、どうすりゃいいんだ! くそおおお! なんで、こんなことになっちまったんだよ!」
「もう行かなきゃいいだろ」
「くそおおお! よっしゃああ! 当たったぞおおお!」
「結局嬉しいのかよ……いや、それよりお前、やっぱり知らないんじゃ――」
井上が拳を天高く突き上げたその瞬間、数名の警官がオフィスに入ってきた。無言でつかつかと井上に近づき、一人が肩をポンと叩いた。
「井上さんですね?」
「はい! えっ……警察? もしかして、身辺警護に?」
「そんなわけねえだろ」
「井上さん。あなたを『当選自慢罪』の容疑で逮捕します」
「へ……?」
“当選自慢罪”――今年から施行された新しい法律だ。現代社会において、自慢は人々の嫉妬心を煽り、欲望や争いを生む愚行とされ、厳しく取り締まられるようになった。
SNS上での幸せアピールも禁止され、芸能界からは、親の七光りタレントが姿を消した。この法律のおかげで、闇バイトなど目先の欲に走る若者も減ったという。
おそらく、同僚の誰かが通報したのだろう。井上は連行され、オフィスは静寂に包まれた。
その沈黙を破ったのは、課長の一言だった。
「ま、世の中ってのは、平等にできてるもんだ。さあ、仕事、仕事」
その言葉を合図に皆、業務に戻り始めた。
それぞれの顔には妙な満足感が滲んでいた。“良いものを見た”というように――。