01 始まり
私立四十九院大学附属高等学校。
地元ではそこそこ有名な男子校だ。
つい1週間前に3年生へと進級した月下 愉愛は焦っていた。
誰でも一度はこんなことを妄想するだろう。学校に侵入するテロリスト。怯えるクラスメイト。必死に抵抗する教師。
そこに颯爽と現れテロリストどもを一掃する自分!
これはあくまで妄想の話だ。
現実に起こったら堪ったものではない。
それにここは男子校だ。あいつらが大人しく怯えているわけがないし、助けるメリットがあまりにも無さすぎる。
ところが現実は非情だ。
自らの眼前に広がるのは武装した集団に連れて行かれるクラスメイトと教師の姿だ。
実際に事が起こると、いつも騒がしいやつらも大人しくなるものなんだなと、ある種の感慨すら湧いてくる。しかしそんな能天気な考えはすぐに薄れて、取って代わって恐怖が心の大部分を支配する。
「どうしろって言うんだよ……」
掃除用具入れのロッカーの中から一部始終をただ眺めることしかできない。いつもドッキリを仕掛けられているお返し、なんて考えで起こした行動が自らの身を助けるとは思わなかった。
5時間目の始まりを告げる鐘の音が、
嫌な響きを持って耳の中に入る。
このチャイムは自動で鳴っていたという、どうでもいい事実を知るのが今なのは勘弁してほしい。空気を読んでくれ。
武装した集団が辺りを見回す。
リーダーのような人物が指示を出す。ただただ最悪だ。生きた心地がまったくしない。見つかったら本当に殺されるだろうな、なんて考えながら次第に速くなる鼓動を聞き続ける。
一瞬、集団の一人がこっちを見た。
死。そんな単語が見える。隠れていたんだから絶対怪しまれるに決まっている。まだ死にたくない。妹を残したまま死ぬわけにはいかない。
そんな気がしたが、何か話した後に出ていってしまった。それに続いて、他のやつらも次々に教室から出ていく。最後にリーダーのような人物が出ていき、教室から音が消えた。誰もいなくなったようだ。
あの祈った時間を返してほしい。羞恥心で今度こそ死にそうだ。誰もいないのに顔と首が熱くなる。
顔の火照りが冷めるのを待ちつつ、思考を巡らせる。
この教室はこの最上階の最端だ。この上は屋上しかない。どうやら下の階に全員連れて行かれたようだ。
狭くて粗末なシェルターから抜け出す。安堵から溜息をつく。これからどうするのが正解なのだろうか。そもそもテロリストたちは、何を目的にこんなことをしているのだろうか。様々な考えが頭の中で混ざり合う。
「やぁ」
「……?……っぎゃあぁ!」
愉愛の背後に唐突に現れたその人影は、楽しそうな声を発した。次いで愉愛のまぬけな叫び声が二人しかいない教室に響く。
人影は、愉愛を少し嘲笑うかのように言葉を続ける。
「静かにした方がいいと思うよ。命が惜しかったらね」
「いやいきなり現れる方が悪いと思うんだけど……」
当たり障りのない回答をしつつ、後ろを向く。自分と同じ制服が目に入る。愉愛は仰向いて声の主の顔を認識した。
白鼓 奏音。同じクラスの少し変わったヤツ。理系選択で成績はトップクラス。ただ1年生のころから、校内放送で何度もその名前が呼ばれている。先生ののんでもなく怒気を含んだ声によって。2年生からクラスメイトだったとはいえ、文系選択の愉愛とは関わる機会はほとんどなかった。
「君、これまでどこに隠れてたんだよ……」
愉愛は呆れたような声で奏音に尋ねる。
「今はどうでもいいことだよ。それより、お前が残っていてよかった。僕一人でどうしようかと思っていたんだけど」
奏音は愉愛の疑問をはぐらかすように答えた。
おかしい。愉愛の記憶が正しければ、奏音は休み時間は教室内で一人でいることが大半だったはずだ。昼休みも基本的には教室で昼寝ばかりしていたはず。なのに思い返せば、今日に限ってなぜかこいつは教室にいなかった。不信感が募る。
「……うん。別にやっぱりいいかな……」
奏音の方も何か考えていたらしい。愉愛の頭上から独り言が溢れて来る。
「僕に着いてきてくれるかな。さっきの質問の答え、教えてあげる」
先ほどのはぐらかしをすぐさま撤回するように、奏音は愉愛を誘う。
相手はよく知らない問題児。それにすぐに意見を変えるところを見るに、相当な気分屋だろう。本音としてはあまり一緒にいたくない。ただ、こいつに着いていく、それ以外の選択肢は現状存在しない。
渋々頷き、目の前の不可解な人物と歩いていく。
「ここ。今開けるね」
「え、ここってさ……」
奏音が足を止めたのは、今は使われていないはずの物置部屋。教室と同じ階にあるため、いつも通り過ぎる部屋だ。奏音が鍵をポケットから取り出す。案の定、それは目の前の扉の鍵穴に苦もなく入った。奏音はそのまま慣れた手つきで解錠する。そしてドアノブに手をかける。
「ここに入ってきた生徒は、僕以外だと初めてかな」
扉が開く。中に入ると、どう見ても使い込まれた機械が少し乱雑に置かれている。その上、机や椅子、果てには飲みかけのマグカップや、皿に乗ったグミまである。これでは物置というよりも私室だ。まるでこの部屋だけ家から抜け出してきました、とでもいえてしまうような有様だ。
「僕の秘密基地だよ。ようこそ」
奏音は少し誇らしげな顔をしている。
「いや意味わからない。なんでこんなことになってんだよ」
机の上のグミに手を伸ばしながら、愉愛は冷静にツッコミを入れた。
「えっお前、けっこう図々しくない?それ僕のお気に入りなんだけど」
驚きと困惑が混じった顔。愉愛が初めて見る奏音の表情だ。
「非常事態に細かいことはいいだろ。」
グミを一つつまむ。濃い茶色だ。コーラ味だろうか。口の中に入れてみる。
「細かくはな……」
次の瞬間、とてつもない苦さが愉愛の口の中に広がった。
「にがっ!?……ぉぅぇぇ……」
形容し難い苦しさに、愉愛は込み上げて来る胃酸を必死で飲み込みながらのたうち回る。
「…………間違いだったかな、連れてきたの」
目の前の非常識な人間を軽蔑しながら、奏音はいつもどおり機械を操作する。
「これ何味だよ!?」
まだ残っている苦味から意識を逸らすため、愉愛は奏音に尋ねる。
「超絶ブラック味<劇苦死>」
「初めて聞いたんだけど……何が入ってるんだこれ……」
「……こっち来て」
作業を完了し、奏音は礼儀知らずの来客を呼んだ。
「はい、これ見て」
奏音は一つのモニターを指差す。
「へぇ、教室の映像が映ってるな。……は?」
あまりにも予想外の光景に、愉愛は平衡感覚を失いかける。
「これ使って解決策を考えるよ」
奏音は何でも無さそうな口調で話を続ける。
「いや待って」
愉愛は目の前の突飛な人物を問いただす。
「なんで教室が映ってんの?」
「あ、全部の教室が見れるよ。廊下も」
「全部?」
「全部」
「なんで?」
「なんでって……こういうとき用」
愉愛はドアの方へと後ずさる。正直ここまでヤバいやつだとは予想できていなかった。こいつと一緒にいたくない。まだ残っているグミの味も、余計にその気持ちに拍車をかける。
「なんで今ちょっと離れたの?」
心底不思議そうに奏音は尋ねて来る。
「いや、ちょっとおれ自身の安全のために」
じわじわと冷や汗が出てくる。段々頭がこんがらがってきた。
「まあいいや」
「全くよくない。いつから?」
「いつからって?
ここを僕の秘密基地にしたときのこと?
この部屋を綺麗にリフォームしたときのこと?
それとも学校に監視カメラを仕掛けたときのこと?」
怒涛のとんでもない言葉の数々に、意識も半分ほどどこかに飛んでいってしまいそうだ。そんな状況でも、愉愛は何とか言葉を紡ぎ出す。
「監視カメラ」
「1年生の夏休み」
即答。よく覚えているものだ。
「いや犯罪」
「お手洗いとかには仕掛けてないから大丈夫だよ」
全く大丈夫ではない。何を持ってこいつは大丈夫などとのたまわってやがるのだろうか。
「いや犯罪……」
あ、こいつといたら本当にダメだ。罪の意識が全くない。全然助かっていなかった。まだ死ねないんだけどな。頭の中がぐるぐるする。水。気持ち悪いもの全部流し込まなきゃ。
イカれたマッドサイエンティストを前に、愉愛の混乱した脳は、おかしな回答を導き出した。愉愛は机の上のマグカップに手を伸ばした。
「えっ」
奏音が止める前に、頭のおかしい客人はマグカップの中身を飲み干した。
「……にっっっが!?……うっ……ぷ……」
口の中に先ほどとは比べ物にならないほどの苦さが染み込んでくる。錆びた釘を煮詰めても、この味には敵わないだろう。汚物の濁流が一気に胃の中へ流れ込んでくる。体がこの汚水を拒絶している。愉愛は地べたへと蹲る。
奏音はとてつもなく狼狽えている。開いた口が塞がらないようだ。
「ここで吐かないでね!?」
そう言って、慌ててロッカーを探り出す。
「……これ……なにが……はいって……おぇっ……」
「さっきの超絶ブラック味<劇苦死>を濃縮したやつ……」
見つけたビニール袋をバケツに被せながら奏音は答える。様子のおかしい来訪者の奇行に、奏音は理解が追いつかなかった。
「おえ゛えええ゛えっ!ゴボッ、げほっ……」
用意されたバケツの中へと、胃の中のものを全て吐き出す。
「……お前、名前なんだっけ」
これまで知ろうともしなかった他人の名前を、初めて尋ねる。
それに相手は苦しそうな顔で答える。
「……月下愉愛……」
気まずい顔をしたまま、奏音はその名前を呼ぶ。
「月下君、これ、ティッシュ……」
「あんがと……。君は…白鼓奏音で……合ってるよな?」
愉愛は奏音の名前を以前から覚えていた。少しだけ胸がちくりと痛む。
「あ、うん……」
目を少し逸らして小さな返事を返す。
「白鼓……なんか、ほんとにごめん」
当たり前の謝罪だ。ただ、何か新鮮な感じがする。そういえば、人と正面から向き合って関わることなんて、ほとんどなかったな。
「いや、なんか……僕もごめん」
奏音は初めて謝罪の言葉を口にした。
一通り吐ききった愉愛がゆっくりと立ち上がる。
落ち着きを取り戻した二人は、今するべきことを思い出した。
「……!とりあえずカメラ見るぞ!」
「……!そうだね!」
奏音がパソコンを操作する。液晶は体育館を映し出す。
「3年生は全員いるな。今は2年生が入ってきてる」
「みんないつも血気盛んなのに、こういうときは大人しいんだね」
「銃持ってたら流石に無理だろ。おれもビビって隠れることしかできなかったしな」
まあ結構意外だったけどな、と愉愛は心の中で呟く。
「それもそうだね」
「1年生は教室で待機中か」
「……そういえば」
奏音は一つの疑問を愉愛に投げかける。
「月下君はあいつらから逃げようと思ってるの?それとも、」
「めっちゃ逃げたいけど?」
「……至って平凡な回答だね」
奏音は拗ねたような口調で言葉を返す。
「当たり前だろ。学校の教室を勝手に改造するやつと一緒にしないでくんない?」
「別に月下君が僕と同程度の知能を有しているとは思ってないよ」
「めっちゃめちゃ酷いこと言うじゃん」
愉愛は一呼吸おいて言葉を続ける。
「……でも戦うしかないんだよな。逃げられる訳ないし」
「まっ、ノコノコと下りていって『隠れていたけど降参します!』なんて言ったところで、無事で済む訳ないよね」
奏音の瞳を真っ直ぐに見る。
「勝算はあるんだろ?じゃなきゃ、おれをここに連れてくる理由がない」
「あっ、馬鹿じゃないんだ。よく分かったね」
馬鹿は余計だ、と愉愛が否定しようとする。
次の瞬間、突如放送が鳴った。
……ガチャッ
『1年3組の教室から、生徒が一名脱走。一時的に監視を制圧し、一人だけで逃げ出した。応援を求め……ドガッ!』
ブツッ……
何かを殴るような音がした直後、放送は途切れた。
「……助っ人か?」
「ぜひとも合流したいね。はい、コレ」
放送が流れている間に奏音はもう準備を済ませていた。何かを愉愛に差し出してくる。
「えっ、銃?」
人殺しはちょっと……と言わんばかりに愉愛は受け取るのを躊躇う。
「テイザーガンっていうやつ。撃ったら針が飛び出して、ちょっと強めの電流が流れる。簡易的なものだから、撃つ度にリロードしなきゃいけないけど……。致死性はあんまりないよ」
聞き捨てならない言葉に反応する。
「あんまり?」
「あんまり」
「っていうかこれ普通に銃刀法違反じゃ……」
「こういうとき用に、ね。今は非常事態だし」
「そうだな!こういうときだし、しゃーないかー!」
愉愛は開き直ってテイザーガンを受け取る。見た目から想像できるよりもずっと軽い。当たり前に銃に詳しい訳ではないが、扱いやすそうだなと思う。
「あとこれ、背負って」
奏音は更にリュックを一つ持って来る。
「なにこれ」
「リロード用のカートリッジとか、煙幕とか、あと色々」
奥にもう一つ置いてあるリュックが目に入る。
「……君は背負わないのか?」
「僕はあんまり運動得意じゃないからね」
「おれより体格良い癖に……」
テイザーガンの調子を確かめている奏音の顔を見上げながら不満を口にする。
「うん、大丈夫そうだね。とりあえずこの階から制圧しようか」
問題がないことを確認した奏音は、扉へと向かっていく。
準備は整った。
二人は秘密基地から出る。
扉の鍵をかけた奏音が笑顔で声をかける。
「じゃあ行こうか、月下君?」
少し微笑みながら愉愛は答える。
「足引っ張るなよ、白鼓!」
二人は走り出した。




