新芽が芽吹くころ・海の真ん中で・木の実を・ついに手中に収めました。
ありとあらゆる物が手に入る飽物の時代にも、どう願っても手に入らない物がある。海を漂う漂着物なんかはその典型だ。安全な砂浜に漂着した物だけが手に入る。それがガラスであったり、瓶であったり、果物であったりした。もちろん他人から見たら海を汚すゴミでしかないことは理解している。だが漂着物には、その長い年月を海のゆりかごに抱かれた赤子のようなものだ。その海に育てられた赤子があか抜けて美しいのは言うまでもないだろう。だからこの時代に、私は漂着物を集めている。その基準は様々で、美しい時の変化を得たものに限られるのだが。私は海を愛している。潮の満ち引きが美しい音となって私を誘ってくれる海を愛している。だがあいにくと泳ぐのは苦手であり、海に入ろうと思いもしない。だが友人は私が海を好んでいることを知り、ポンツーンという海の浮島でダイビングが出来ると誘ってくれた。私は旅行が好きである。世界各国を身一つで歩くのが好きである。だが海には近づかなかった。あくまで砂浜だけが私の癒しの場所だったが、ダイビングであれば美しい海の中を探せるのだろうと思ったのだ。それに専属の教える人間もいるのなら、私が事故に遭う確率は少ないだろうと安請け合いし、私にとっての大金を払って参加することにしたのだった。
海の中は美しかった。潮の香りは鼻が機械で塞がれているから分からなかったが、自分の周りには無色透明であるのに、私がいない方向を見ると美しいエメラルドブルーに囲まれている。この不思議な経験を、私は生涯忘れることはないだろう。海は美しい。下を見れば海底には珊瑚があふれ、魚が餌を求めて私の周りに集まってくる。神とはこのような美しい物を見ながら海を作りあげたに違いない。おぼれることのないこの機械は、神になれるものなのだ。私は魚に指をつつかれながら幸福を感じていた。
ふと、この神になれる体験は長くは続かなかった。ダイビングインストラクターに謂われ、私はこの体験を終わることになる。そうしてポンツーンに戻ろうとしたとき、ふと、私は運命的な出会いをした。木の実のような物が、珊瑚の上に落ちていのである。赤いつやうやとした木の実だ。赤いのはその表面だけで、がま口のような形をしてチャック部分は肌色のユニークな木の実である。これも極限まで海のゆりかごがそぎ落とした産物なのだろう。だから私はそれを掴んで、あがることにした。珊瑚の呼吸邪魔になっていると言い訳を心の中でしながら、その木の実を手中に収め、私は満足して神の座を下りたのだった。