【コミカライズ】婚約破棄された公爵令嬢は、星の光に導かれて
「ベアトリス・サリバン、俺はお前との婚約を破棄する。お前がニナを虐げ、あまつさえその殺害をも企んだのは明白だ。そのような女を第一王子妃には到底できん」
新春の夜、イグニス王国の宮殿の舞踏会場は、美しいドレスをまとった貴族たちや、華やかな音楽に合わせて踊る紳士淑女たちで賑わっていた。
天井には煌びやかなシャンデリアが吊るされ、その輝きが宮殿の広間を一層華やかにしている。
さまざまな香りの花々が室内を彩り、宮殿中に華やかで新春の喜びに満ちた空気が漂っていた。
壇上には、国王夫妻が外交で不在のため、主催としてイグニス王国第一王子エリックと婚約者のベアトリスが並び立っていた。
ベアトリスは公爵家の令嬢で、怜悧な美貌と知性を兼ね備えた才女であった。
舞踏会の参加者たちから羨望の視線を集める二人だったが、エリックはあまり楽しそうな様子ではない。
時折、誰かを探すように会場を見回していたエリックが、不意に目を輝かせて立ち上がった。
その視線の先には、社交界の話題をさらっているニナ・オーリスが立っている。
彼女は茶色の髪に珍しくも魅惑的な紫色の瞳の美女で、庶子であるにも関わらず、オーリス男爵に引き取られてからわずか一年で、多くの人々を魅了していた。
エリックの瞳の色であるコーンフラワーサファイアの豪華なネックレスをつけた姿は、エリックの隣に立つベアトリスよりもよほど婚約者らしい装いであった。
エリックが手招くと、ニナは壇上に上がりその隣に立つ。
何ごとかと注目する人々の前で、エリックはベアトリスに向かって指をつきつけ、宣言したのだ。
その言葉に、会場は凍り付いた。
音楽が止み、笑顔が消え、誰もが息を呑んでエリックの言葉を受け止める。
真紅のドレスに身を包んだベアトリスは、微笑みを浮かべていた表情を凍らせたままエリックを見つめ返す。
「殿下。一体何を……」
「証拠は揃っている。潔く罪を認めるか」
「ならばその証拠を見せてください。私はそのようなこと、いたしておりません」
青ざめた顔で、それでも気丈に言い返すベアトリスに、エリックは嫌そうな顔を隠そうともしない。
「お前の罪は明らかだ。今さら言い逃れができると思っているのか」
「言い逃れも何も、私は何もやっておりません」
身の潔白を主張するベアトリスに対して、エリックに肩を抱かれたニナが涙を流しながら訴える。
「ベアトリス様、あなたがあんなに恐ろしい計画を立てるなんて……」
「ニナ、怖かっただろう。もう大丈夫だ。俺が守ってやる」
「エリック様……」
エリックの暴走とはいえ、この場には事態を収められる国王夫妻がいない。
このままでは無理やり牢屋に入れられかねない。
ベアトリスは会場で真っ青な顔をしている両親に目を向けると、口元を引き締めた。
「婚約破棄は承りました。私の罪が確定するまで、屋敷にて謹慎したいと思います。ではこれで失礼を」
ベアトリスは礼儀作法の教師から褒められた見事なカーテシーを披露すると、エリックが止める隙を与えず壇上から降り、公爵家の馬車が待っている場所へ急いだ。
おそらく両親は会場にとどまって事態の収拾を図るだろう。
「先に帰るわ。屋敷に着いたらまたここへ戻ってお父様たちを待ってちょうだい」
「は、はい」
まだ舞踏会は始まったばかりだというのに戻ってきたベアトリスに御者は驚いた。
だがさすがは公爵家の御者を務めるだけのことはある。何か不測の事態があったのだろうと、すぐに屋敷へと馬車を走らせた。
街の明かりが流れる中、ベアトリスは窓から外を眺めていた。
彼女の憂鬱な気持ちとは対照的に、街は賑やかで明るく、人々が幸せそうに過ごしていた。
石畳の上を走る車輪の音が、ベアトリスの人生を王宮から遠ざけていくかのように聞こえ、ベアトリスの心はますます沈んでいった。
彼女は窓から街を眺めることに疲れ、目を閉じた。
エリック王子との婚約破棄は、彼女にとって深い傷を残していた。彼女は自分がどうしてこうなってしまったのか、何が原因でエリックに裏切られたのか、理解できなかった。
ベアトリスは、イグニス王国の名家・サリバン公爵家の娘として生まれ、魔法の才能に恵まれた美しく知的な女性だった。
母親は彼女に王妃になるよう教育を施し、ベアトリスはそれに応えて常に完璧であろうと努力してきた。
学園では優秀な成績を修め、公爵家でも家庭教師を招き、立派な王妃となるようにと政治や外交に関する教育を受けた。
ベアトリスが十六歳になる頃、サリバン公爵はイグニス王室との政略結婚を進めることを決めた。
政略的な婚約ではあったけれども、ベアトリスは第一王子エリックと心を通わせあい、幸せな未来を歩むことを夢見ていた。
けれどいつからだっただろう。
エリックは優秀なベアトリスに反発するようになり、避けられるようになってしまった。
それでもいつかは分かりあえると思っていたのだが、ニナと出会ったエリックは、どんどん彼女にのめりこんでいった。
「私の何がいけなかったのですか……」
思わずこぼれ落ちた言葉に答えるものはおらず、車輪の音に混ざって消えた。
屋敷に戻ったベアトリスは、驚く執事に後で両親から事情を聞くように言うと、自室へとこもった。
部屋で一人、暗い窓の外を眺める。
窓の外には星が煌めき、夜空が深い青色に染まっていた。
ベアトリスは窓を開け、冷たい風が頬に触れるのを感じた。
「エリック様……なぜ……?」
ベアトリスは星空に向かって問いかけた。
その声はいつもの凛とした姿からは想像もできないほど弱々しく、風に吹き飛ばされてしまいそうだった。
夜空には、星たちが静かに瞬いていた。
その輝きはベアトリスの心を温かく包み込むかのように柔らかく彼女の上に落ち、孤独な夜を星たちと共有しているように感じる。
星は、暗い夜空にあっても輝きを失わない。
ベアトリスも、ただ嘆くだけではなく、明日からどうするのかを考えるべきではないだろうか。
冷静さを取り戻すために、ゆっくりと息を吐き出し、静かに呼吸を整える。
夜の空気は涼しくて清々しく、ベアトリスの心に安らぎをもたらした。
夜空を見つめる中で、彼女の心は次第に穏やかになっていった。
「おそらく陛下たちはエリック殿下の暴挙をまだ知らない。知っていたならば止めたはず。であれば、陛下たちが帰国する前に、エリック殿下はどうあっても私を排除しにくるはず」
しかも、決して表舞台には戻ってこれないような、ひどいやり方で。
第一王子妃になるべく、致命的な傷になりそうな事態を避けるようにと教育されたベアトリスには、それがどういった手段か想像がつく。
一番簡単なのは女性としての尊厳を奪うことだ。
そうなってしまったら、どんなにエリック王子に非があったとしても、ベアトリスは修道院へ送られて一生をそこで過ごさなければならなくなるだろう。
エリック王子がまさか多くの貴族が集まる新春を寿ぐ舞踏会で婚約破棄を叫ぶとは思わなかったが、後手に回ってしまった分、これからはもっと慎重にならなくてはならない。
彼女は自分の未来が暗いと思い込んでいたが、この星たちが彼女に対して希望を与えてくれたように思えた。
今取れる手段を考えているうちに、両親が帰ってきたという知らせを受ける。
二人ともベアトリスの無実を信じ、エリック王子の暴挙に激怒していた。
「だが陛下が戻ってくるまでの間に、殿下が何をしでかすか分からない。修道院へ行けと言われるくらいであればいいが、身一つで国外へ追放しろなどと言いかねない」
父の言葉に、疎まれているのは感じていたけれど、そこまでエリックに憎まれていたのかとベアトリスは目の前が真っ暗になるような気がした。
今までの努力も献身も、すべて否定されてしまったのだ。
「見目は麗しいが、中身は凡庸だ。お前の優秀さを妬んでいたのだろう」
今までこれほどまでにエリック王子を貶めることはなかったが、腹の内では娘をないがしろにするエリックに鬱憤がたまっていたのだろう。
父は、誰かに聞かれたならば不敬だと処罰されそうな言葉を吐いた。
「宣告状が届けばそれに従わなくてはならなくなる。その前にベアトリスは国外へ逃げるのだ」
「まさかそこまでのことは――」
「あり得るから、言っている」
厳しい父の顔に、それが本当であるのを知る。
宣告状とは、国家や王室から発せられる、重大な処分や罰則を告げる公式な文書のことだ。
文書には発表された処分や罰則が具体的に記載され、その理由や根拠も明確に示される。
作成には王室や国家の印章、発表者の署名が必要となるので、滅多に出されるものではない。
それゆえ発行された際の効果は絶大で、すぐに実行されるのである。
「どうしてこのようなことに」
泣き崩れる母を抱き留めながら、父は厳しい顔でベアトリスを見た。
「嘆いてもどうしようもない。今すぐにでも、これからどうすべきかを考えねば」
父の言う通りだ。
おそらくベアトリスが自由に動ける時間は少ない。
夜明けまでに動かなければ、宣告状が届いてしまうかもしれない。
そうなったらそれに従うしかない。
でもその前にベアトリスが屋敷を出ていれば、宣告状の受け取りは不可能だ。
「国を出ます」
きっぱり言い切ると、父は苦渋の表情で頷いた。
「それしかないだろう。陛下が戻ってこられるまでは身を隠せ」
父は抱き留めていた母をソファに座らせると、すぐに執事を呼んで手紙の用意をさせた。
「隣国まで冒険者ギルドに護衛を頼む。依頼料はいくらかかってもいいから、腕利きで品行方正なものを雇おう。先触れを出しておくから、ベアトリスは旅支度をしてきなさい」
「分かりました」
父の心遣いに感謝しながら、ベアトリスは急いで自室に戻る。
侍女たちが既に用意していた服や靴、それから換金しやすい宝石などを、腕輪の形をしている最高級品のマジックバッグにしまいこむ。
「ドレスはどうすればいいかしら」
夜会用の豪華なドレスを脱いだベアトリスは侍女たちに相談する。
高位貴族らしく親し気にすることはなかったが、温厚で理不尽な命令をしないベアトリスは侍女たちに好かれていた。
彼女たちは自分たちの主人が遭遇した理不尽な出来事に憤慨し、どうにかして助けたいと思っていた。
「平民に紛れるのでしたら簡素な服をお召しになったほうが良いと思います」
「すぐに用意できるかしら」
「下働きのものに借りてきます」
侍女とはいえ、貴族の娘でないと公爵家の侍女として雇われない。
この屋敷で働いている平民は、ベアトリスが普段目にすることのない、下働きくらいだった。
侍女が名前も知らない下働きのワンピースを借りてくる。
腰のあたりがかなり緩かったが、それでも何とか着ることができた。
ハーフアップにして綺麗に編みこまれていた髪をほどき、後ろで一つに結ぶ。
着替えたベアトリスは鏡に全身を映してみた。
鏡の向こうに青ざめた顔の少女が見える。
手入れされた髪や手の美しさはどうやっても隠せないが、これならば第一王子の婚約者であった公爵令嬢であるとは思われないだろう。
ベアトリスは鏡に映る少女の頬に手を伸ばす。
「私の人生は、私が決める」
それは共に歩む未来を夢見た、エリック王子との決別を表す言葉でもあった。
冒険者ギルドからの返事はすぐにきた。
父の要望通りの冒険者が王都に滞在しており、依頼を受けてくれるというのだ。
「男二人のパーティーというのが心配だが、評判は良いようなので任せるしかない」
手紙を受け取った父はしばらく悩んでいたが、他に頼める相手がいるわけでもない。
冒険者ギルドを信じて、ベアトリスを任せる決心をした。
まだエリック王子の遣いは来ていないが、万が一のことを考えて、遭遇しないように屋敷の裏手から目立たない馬車で出ることにした。
慌ただしく両親と別れを交わしたベアトリスは、また必ず戻って来る事を約束して、公爵家のわずかな護衛と共に待ち合わせ場所まで向かった。
夜明け前の王都は、まだ暗闇に包まれていて、街灯の灯りが柔らかく石畳を照らしている。
東の空が、ゆっくりと深紫色に染まっていく。
夜空に輝いていた星たちがまだ薄明るい闇の中で静かに輝いているが、紫色の空にオレンジ色の縞模様が現れると、ひっそりとその姿を消していく。
王都の門の手前にある待ち合わせ場所に着いた頃には、灯りがなくとも人影が分かるようになっていて、フードを被った冒険者が二人いるのが見えた。
馬車が近づくとわずかに警戒した素振りをしたが、御者を務めた護衛の一人がギルドからの紹介状を見せると、軽く頷いて馬車の扉に近づいた。
ベアトリスは緊張しながらも、護衛の開けた扉から降りて、フードを被った冒険者たちの前に出る。
「あなたたちがギルドから紹介された冒険者の方たちでしょうか」
そう聞くと、二人組はフードを取って顔を見せた。
「魔法使いのアルヴィンです」
「剣士のリュシアンです」
二人とも、年の頃は二十代の半ばくらいだろうか。
凄腕の冒険者というからには、荒々しく筋骨隆々とした壮年の男が現れると思っていたので、ベアトリスは少し驚いた。
冒険者の二人も、シンプルとはいえ仕立ての良さそうなワンピースを着た、いかにも訳ありにしか見えない美しいベアトリスの姿を見て、一瞬顔を見合わせる。
「隣国までの護衛と聞きましたが、それでよろしいでしょうか」
「ええ。国境まで行けば、迎えがくるはずです」
隣国には、ベアトリスの父の姉が嫁いでいる。
その伝手を辿って保護してもらうつもりだ。
「失礼ながら、お聞きしても良いだろうか」
「ええ」
「何らかの追手がかかる可能性はありますか?」
「貴様、何を無礼なっ!」
慎重に問いかけるアルヴィンをじっと見つめたベアトリスは、ここで誤魔化してもいずれは分かることだからと、憤る護衛を手で制して正直に答える。
第一王子の婚約者であったが冤罪で婚約破棄をされてしまった事。
第一王子の暴走を止められる国王夫妻が外交で不在なので、身の危険を感じ国外に逃れる事。
「公爵家のご令嬢でしたか。ならばこのように逃げなくとも良いのでは」
アルヴィンの言葉に、ベアトリスは諦めたように首を振る。
貴族ではあるが男爵家という低い身分の、しかも庶子でしかないニナが王妃になるのは難しい。
それでも結婚したいというのであれば、エリックとニナはどんな困難があってもくじけず、周りが認めるまで努力をすべきだった。
それなのに実際は、ニナに公爵令嬢のむごい仕打ちに耐えてきた悲劇の少女という印象を与える為に、ベアトリスに冤罪を被せた。
しかも会場に残った両親によると、回復魔法の使えるニナは聖女で、聖女を虐げたベアトリスは稀代の悪女ということになっているらしい。
それで貴族たちがニナを認めると思っているのであれば、ばかばかしいとしか言いようがない。
だがおそらく、王家はベアトリスが犠牲になればこの混乱は収まるのだからと、ベアトリス一人を悪者にして事態を収拾しようとするに違いない。
だからベアトリスは何としてでも安全な場所へ逃げたいのだ。
「あなたがたへの依頼は、追手を追いつかせないようにすることも含まれています。どうか私を隣国まで連れていってください」
そう言ってベアトリスは頭を下げる。
公爵家の令嬢で、しかも数時間前まで第一王子の婚約者であったベアトリスが頭を下げると、アルヴィンもリュシアンも驚いて目を見張った。
二人は見目も良く物腰も柔らかいため貴族の護衛の依頼を受けることがあるが、貴族は冒険者など同じ人間だとは思っていないのか、理不尽な扱いを受けることが多い。
だから二人とも、どう見ても貴族であるのを隠しきれていないベアトリスの姿を見た時から、この依頼に乗り気ではない様子だった。
だが、頭を下げるベアトリスを見て、アルヴィンがリュシアンを見る。
リュシアンがそれに頷きを返すと、アルヴィンはローブの内側からギルドの契約書を取り出してサインをした。
「分かった。俺たちが責任を持って隣国までお連れしよう」
「ありがとうございます」
魔術契約を記した紙が、薄紅がにじみはじめた夜明けの空に向かってふわりと浮かび上がった。
二つに分かれた紙は瞬く間に二羽の白い鳥へと姿を変え、力強く羽ばたき始める。
空を舞う鳥が、夜明けの空に映える金色の縁どりを纏って、美しい光景を描く。
夜明けの空に残る軌跡は、希望に満ちた未来へ繋がる運命の糸のようにも見える。
契約の鳥を見送ったベアトリスは、もう一度二人の冒険者に頭を下げた。
「慣れないことも多いかと思いますが、お二人の足手まといにならないようにいたしますので、どうぞよろしくお願いいたします」
護衛たちと別れたベアトリスたちは、三人組の冒険者のパーティーということにして王都の門をくぐった。
幸いベアトリスは教育の一環として乗馬を習っていたので馬に乗ることができる。
まさか乗馬したままの質素な服を着た冒険者が、公爵令嬢だとは誰も思うまい。
三人は疑われる事なく、夜明けの王都を脱出した。
冒険者たちとの旅は、ベアトリスにとって驚きの連続だった。
野営も、狩った動物を処理して料理するのも、公爵家の姫で王子の婚約者だった彼女の知らない事ばかりだ。
最初は慣れずに気を失いそうになっていたベアトリスだが、やがて料理の手伝いくらいはできるようになっていった。
そして旅の間にアルヴィンから魔法を習った。
イグニス王国では、女性が聖魔法以外の魔法を使うのはあまり好まれない。
ベアトリスには聖魔法の適性がなかったので、魔法を習うのは初めてだ。
アルヴィンが驚くほどの魔力量を持っていたベアトリスは、どんどん新しい魔法を覚えていく。
聖魔法は使えないながらも傷を回復する水魔法を覚えられたことで、仮初めとはいえ、自分もパーティーの一員として役に立てたような気がしてベアトリスは嬉しかった。
隣国までの旅の間、ベアトリスは今まで感じたことのない充実した毎日を送った。
そして隣国まであと少しという辺境の街まで着いた一行は、そこで奇妙な噂を聞いた。
なんでも跡取り息子の不始末で、数年前に領主一族が交代したというのだ。
「婚約破棄……?」
食堂でこの町の名物である煮込み肉を食べていたリュシアンは、恰幅のいい女将からどうして領主が交代したのかを聞いて驚いた。
フードを深くかぶったままのベアトリスの指先が、わずかに震える。
「そうさ。隣の伯爵家の、そりゃあ綺麗な婚約者がいたっていうのにさ。メイドの娘に入れあげて、みんなが集まるパーティーの最中に婚約破棄するって叫んだらしいよ」
ここらへんじゃ有名な話さ、と言って、女将は詳しく話をしてくれる。
そもそもは領主が流れ者の母子を屋敷に入れたところから始まる。
行き倒れていた母子を不憫に思った領主が、母親の方をメイドとして雇った。娘もメイド見習いとして働くようになったのだが、この辺りではまず見ない程の美しさに育つ。
そしてあれだけの美しさなのだから、娘の父親は貴族ではないかという噂が立った。
母親が娘の父親の名前を頑として言わないことも、噂に信ぴょう性を与えた。
その噂を一番信じたのが領主の息子だ。
彼は娘の美しさに夢中になり、娘の身分を明らかにすれば結婚できると信じた。
ついにはパーティーで婚約者に向かって婚約破棄を告げてしまう。
大勢のいる前で恥をかかされた婚約者の一族は激怒し、あわや戦争かというところまでいった。
事態を重く見た領主はやらかした息子を後継者から外し、分家のものに後を継がせたことで何とか戦争は回避した。
息子は領地の端にある小さな屋敷で軟禁生活を送っているそうだが、そこにメイドの娘はいない。
自分のために身分を失った恋人も母親も捨てて、どこかに行ってしまったのだそうだ。
「あれだけの美人だから、きっと今頃はどこかで囲われているんだろうとは思うけど、騙されたご子息様が、なんともお可哀想でねぇ。あんな女に引っかからなければ、今頃は婚約者様と結婚なさって幸せに生活してらしたんでしょうに」
人好きのするリュシアンは、適度に相づちを打ちながら女将から話を聞いていく。
すると女将は気になることを最後に言った。
「きっとあの紫の目は魔性の目なんでしょうよ。あの目に見つめられると、男どもはボーッとしちまう」
紫の目。
それは、あのニナもそうだった。
濃い紫に赤や青が混じり合い、揺らめく炎のような神秘的な輝きを放っていた。
まるで闇夜に咲く花のように美しく、儚く。
見る者を深く惹きこむ力があり、その深みには計り知れない魅力と危険が隠されていた。
あれは魔性の瞳だと、誰かが言ってはいなかっただろうか。
様子のおかしいベアトリスに、アルヴィンが部屋で休もうと声をかける。
リュシアンも女将に断りを入れて、三人で食堂を後にする。
食堂からすぐのところにある宿屋はこの町でも上等な宿で、ベアトリスたちは隣り合った二部屋を借りていた。
部屋まで送ったアルヴィンたちはそのまま別れようとしたが、ベアトリスはそれを引き留めた。
どうせここでは貴族の娘のたしなみなど気にする者は誰もいない。
それよりも、気になる事があるのだ。
「さっきの話なのだけど……。もしかしたらメイドの娘はニナかもしれない」
「ニナって、君の婚約者を奪った女の名前だよな」
リュシアンの問いに、ベアトリスは頷いた。
「ええ。あんな目を持つ人が、他にもいるとは思えない」
「魔性の目、か」
深く考えこむアルヴィンに、リュシアンはそんなものがあるのかと聞く。
「あるといえば、ある。滅多に現れない魔法だけど、聖魔法が瞳に作用すると、相手を魅了できるらしい」
一介の冒険者とは思えないほどアルヴィンの知識は深い。
そのアルヴィンが言うのであれば、ニナの瞳には相手を魅了する力があるのだろう。
「魅了を解く方法はあるの?」
ベアトリスの問いに、アルヴィンは首を振る。
「元々、聖魔法の使い手を周りが守るように発現するものだから難しいけど……高位の神官なら聖魔法で上書きすれば大丈夫かもしれない」
「そう……」
考えこむベアトリスを見たアルヴィンは、心配そうな顔をする。
「君の婚約者も魅了されているだけだったら、正気に戻る可能性があるけど……そうしたら、君はどうしたい?」
「どうもこうもないわ。もう王子妃になるなんてまっぴらよ。できればあなたたちと一緒に冒険者になりたいくらい」
自由を知ったベアトリスの心には、大空を羽ばたく喜びが刻まれていて、もう籠の中の鳥には戻れない。
かつての狭い世界とは違う、果てしなく広がる未来が目の前にあるのだ。
そして、共に歩む仲間も。
ベアトリスは両手を二人に伸ばした。
領主の息子が軟禁されている屋敷にはニナの母親もいた。
彼女は娘のしでかしたことに責任を感じ、彼の世話を一手に引き受けていたのだ。
そこでベアトリスたちは、メイドの娘がニナ本人で、かつてはメアリーという名前だったことを知る。
そしてニナを引き取ったオーリス男爵は父親ではなく、おそらく魅了して養女になったのだろうということだった。
ニナの本当の父親は貴族ではなく平民で、ニナの母の村を訪れた商人だった。
行きずりの男の子供を産んだということで、ニナの母は村を追い出され行き倒れたらしい。
子供の父親の名前を聞かれても答えられなかったのは、そもそも名前を知らなかったからだ。
若き日の一夜の過ちでできた子供を、それでも大切に育ててきたニナの母から、どうしてニナのような娘が生まれてきたのだろうかと、ベアトリスは不思議に思った。
ベアトリスはこの事実をエリックに伝えるために王都へ戻るか、それとも知らぬふりをして隣国へ向かうかで悩んだ。
アルヴィンもリュシアンも、ベアトリスの選択に従うと言ってくれる。
ベアトリスは悩んだが、エリックが正気ではないかもしれない以上、このままでは国はニナの思い通りになってしまう。
ベアトリスは、王都へ戻る決心をした。
ベアトリスたちはイグニス王国に戻り、秋の夕暮れ時、城の門をくぐった。
追われるようにこの門を通ったあの日が、遠い昔のように思える。
「陛下に取り次ぎなさい。ベアトリス・サリバンが目通りを願っていますと」
門の前でしばらく待つと、すぐに兵士が現れた。
まるで犯罪者のようにベアトリスを囲む彼らに、同行した父やアルヴィンたちが気色ばむ。
それを手で制したベアトリスは、大人しく兵士たちの後に続く。
玉座の間には、国王だけではなく、王妃やエリック、そしてニナもいた。
エリックは憎々しげにベアトリスを睨み、ニナは怯えるようにエリックにしがみついている。
そこへ同行してきた大神官が一歩前へ出た。
なぜここに大神官がいるのだろうと不思議に思う間もなく、大神官の聖魔法が玉座の間を包む。
すると目が覚めたような表情の国王夫妻が、大きく息を吐いた。
「今のは一体……」
「聖魔法の使い手は、稀にその力を魅了に変えてしまうことがあります。その娘の力は、まさにそれだったのでしょう。もし魅了などに力を使わなければ、大聖女にもなれたでしょうに……」
魅了に魔力を使うと、その分、聖魔法の効き目が落ちる。
今のニナには、既に大聖女になる資質は失われてしまっていた。
「聖女になんてなって神殿に閉じこめられるなんて嫌よ。私はエリックと結婚してこの国の王妃になるのよ」
魅了の力が消えてもなお美しい紫の瞳をきらめかせて、ニナがエリックを見上げる。
魅了が解けたはずのエリックも、愛し気な顔でニナを抱き寄せる。
「そうだ。神殿などにニナを奪われてたまるものか」
ベアトリスはどういうことかとアルヴィンを見た。
エリックは魅了されていたのではないのだろうか。
それとも偽りの愛が、いつしか本物になったという事なのだろうか。
「エリック……、お前はその娘と結婚するつもりか」
国王の問いに、エリックは当然とばかりに頷く。
国王はこめかみに手を当て、王妃はその横でぶるぶると震えている。
「知識も素質も教養もない娘は王妃にはなれぬ。娘を選ぶのであれば、そなたは王位につけぬぞ」
「今から学べば良いとおっしゃってくださっていたではありませんか」
「それは我らの目が曇っていたからだ。今となっては国を亡ぼす決断などできぬ」
「話が違います、父上!」
そう叫んだエリックは憎々しげにベアトリスを睨んだ。
「俺に振られた腹いせに、お前が父上たちをそそのかしたのか!」
一体何を言いだすのだろうとベアトリスは呆れた。
エリックは魔法に関係なくニナに魅了されていたようだが、国王が正気に戻ったのは、大神官が魅了の魔法を解いたからだ。
「私は別にエリック殿下をお慕いしていた訳ではないので、婚約の解消はむしろ喜ばしいことですけれど」
「お前は俺を愛していただろう!」
「いいえ、まったく」
きっぱり断言すると、エリックは「そんな馬鹿な」とか「嘘だ」とか、ショックを受けている。
国王はそんなエリックの様子にどうにもならないと思ったのか、衛兵に「自室へ連れていくように」と命じる。
一緒に連れて行かれるニナも、「どうして私が」と叫び抵抗していたが引きずられるように退室していった。
「……すまなかった」
国王の謝罪に、ベアトリスは婚約破棄されてからずっと感じていた心の重しが取れるのを感じた。
後の交渉は、父たちの仕事だ。
ベアトリスは深くお辞儀をすると、アルヴィンたちと共に王宮を辞した。
「依頼は失敗だな……」
そう言って苦笑するアルヴィンに、ベアトリスは意外そうな顔をする。
「何を言っているの。しばらく屋敷で休んだら、また隣国へ向かいますわよ」
「え?」
「でもたくさん寄り道をしましょう。途中で見かけた古城も気になるし、幻の湖も見てみたいですわ」
話を聞いていたリュシアンが耐え切れないように噴き出す。
「ベアトリスさん、すっかり冒険者に染まってるじゃないか」
「あら。私はもうすっかりパーティーの一員になったつもりでしたけど」
確かに水魔法で回復をしてくれるベアトリスがいると、怪我の心配をしなくてもいいので、狩りもスムーズだ。
「だったら呼び方を変えなくちゃな。ベアちゃん、トリスちゃん……どれがいい?」
「そうねぇ。いっそ、最初と最後を取って、ベスなんてどうかしら」
「いいね! じゃあベスって呼び捨てで」
「おい、ちょっと待て!」
くすくすと笑うベアトリスとリュシアンの後を、アルヴィンが慌てて追いかける。
笑い合う彼らの上には青い空が広がっている。
太陽は優しく微笑むように輝き、白い雲が悠然と漂っていた。
空の青は彼らの胸に希望と安堵をもたらし、これからの未来への期待を高めた。
それは、かつての困難が遠い過去の記憶になり、晴れ渡った青い空の下で彼らの人生が再び始まることを示していた。
もしも「面白かった」と思って頂けましたら、
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どうぞよろしくお願いします!