1.火花
いったいどうして。
今が絶望の底だと思っていたが、まだまだ底知れぬのが絶望。
苦虫味の事実を噛み締めながら俺は情けなく木の陰に身を潜めていた。
もはやバイトに遅れるだとか、今日は早く行ってPOP用意しないとだとか、現実めいたものは頭の中から追い出されていた。
「じゃあ、俺が行けばその世界は助かるのか?」
「君じゃなきゃだめなんだよ。お願い、力を貸して!」
初めて異世界に足を踏み入れた時のことを思い出した。
俺じゃなきゃだめだ。だから行った、あの世界に。俺は選ばれていた。
「当たり前だろ。そんな話聞いて、見て見ぬふりできねーよ!」
選ばれていたんだよな?
俺じゃなきゃ、だめだったんだよな?
俺にしか務まらないから、だから俺は、一生拾えないものを捨てたのに。
「じゃ、さっそく行こっかぁ! 封印が緩みはじめてるから、早く世界を直さないと!」
「へ? ちょっと待ってよ、俺これからバイトなんだけど……」
「もうっ、この世界には〝男に二言はない〟って言葉があるって昔聞いたよ。やっぱやめるはなしだよ?」
「いや行くけど! せめて連絡させろ! 初めてのバイト先だから大事にしたいんだよ!」
冷汗が止まらない。指先から冷えていくのがわかる。
足元が、海の上に立っているみたいに不安定だ。
耳を塞ぎたくても、石にされたように体が動かない。仕方がないのでぐうっと強く目をつむった。
嫌な夢を見ているに違いない。早く目を覚まさなければ。
目を覚ました時にはきっと数学の授業中で、俺は何ページだっけと友達に確認する。やたら居眠りに厳しい先生に見つかって、放課後呼び出され、俺は部活の顧問にも叱られる羽目になる。そして一番星が落ちるころ、部活仲間と一緒にアイスをなめて牛歩で帰路につく。
スマホがぶぶっと短く震えた。
新人アルバイトくんのアイコンが、眇めて見えた画面に表示されている。
刹那に真っ暗な瞼の裏に輝きがねじ込こまれる。
俺はその懐かしい輝きを振りほどこうと、無我夢中で腕を伸ばした。
体を揺さぶられている。
昨日ベッドに入るのが遅かったからか、バイトの品出しで無理をしたからか、体も瞼も異常に重い。それでも無遠慮に体を揺すられ続け、しぶしぶ億劫がる瞼を持ち上げると、新人アルバイトくんが心配そうにこちらを覗きこんでいた。
「あ! 起きましたね、よかった!」
「何……あれ? なんで……」
「頭打っちゃいました? 大丈夫?」
ぼうっとした頭を押さえると、確かに痛い。頭を打ったのは確かのようだ。
またしても無遠慮に伸ばされた新人アルバイトくんの腕をやんわり振り払いながら、状況把握のため辺りを見回した。小さな昔なじみがふわふわと優雅に浮遊していた。
「メメ……」
「春臣、来ちゃったんだ」
幼児のような風貌に、淡いピンク色の髪の毛。背中からはとんぼのような透き通った翅が生えている。妖精というファンタジーな表現がぴったりだ。
くりくりとしたつぶらな瞳は残酷なまでに無関心で、まるで飲み会に誘ってないやつが来たみたいな軽い口調を向けられた。
「えっと……勅使河原さんとメメって知り合いなの?」
「春臣はね、夏陽の前任者みたいな感じかな~」
新人アルバイトくん――佐倉夏陽くんが、俺とメメの顔を交互に見つめる。遠慮なく向けられる苦手な目から逃げるように、俯きがちに頷いた。
「なにそれすっごい! じゃあ、勅使河原さんも異世界に来たことあった……ってコト!? ていうかここもう異世界!? うわあああすげー! 異世界っぽいのあるじゃん!」
緊張を体中に溢れさせた空回りがちな新人アルバイターの姿しか知らないため、力いっぱいはしゃぐ姿が若干鬱陶しい。
古代遺跡のような様相のビルには、今日日流行っているゲーミングデバイスのような淡いラインが走っている。外つきの昇降機が上下するたびにマナがラインを通る様を、佐倉くんは感動したように見つめていた。
「異世界だぁ~~~!」
「も~。夏陽、そろそろ行くよぅ」
「おいメメ、待っ……」
様々なことに対して説明されないと腑に落ちない。
俺を無視して佐倉くんを促したメメに声をかけた瞬間、地面がぐらぐらと嫌に揺れた。
明らかに不穏な地響きが遠くから近づいてきている。
「佐倉くんッ!」
「はい~?」
のんきにスマホで撮影をしていた佐倉くんの腕を強く引き寄せる。佐倉くんの体が傾き、足が二、三歩動いたところで、彼がいた地面がけたたましい音を立てながら盛り上がった。
「おおおっ!? 何っ、ゴーレムだあっ! これはゲーミングゴーレムだあ!」
あのままあそこにいたらどうなっていたかもわからないのに、目の前に立ちはだかった土の塊に対し実況中継のようなリアクションを繰り広げている。選ばれただけあってか、さすが肝が据わっている。
スマホのシャッター音を背中に土の塊を睨みつける。たぶん、侵入者駆除用に配備された自動操縦のゴーレムだ。佐倉くんが言い現わしたように、体中にマナのラインが入っている。ゲーミングというより、拍動する血管のように見えた。
「メメ! 俺のスキルは!?」
「スキルってなぁに?」
「え!? 異世界転生したらもらえるやつだよ! あるだろ、なんかさぁ!」
こわばっていた体ががく、と脱力した。若者らしく最近流行っている異世界ものにかなりお熱のようだ。
のんきな会話を打ち切らんばかりに、ゴーレムが土くれを撒きながら腕を振り上げた。
このままでは佐倉くん諸共薙ぎ払われてしまう。異世界に来てさっそく肋骨を折るなんてもうごめんだ。
武器がないのは痛いが、ここで対応できるのは俺だけだ。久しい使命感が脳にちかちかと光り始めた。
「マナロック!」
とっさに差し向けた指先から火花のようにマナが散る。瞬間、まるで凍ったかのようにゴーレムの腕の動きが止まった。
「と、止まった……」
「マナの流れを止めただけだからすぐ動く。今のうちに逃げ……」
言いかけたところで、佐倉くんに言葉をさえぎられた。
「今のって勅使河原さんのスキルですか!?」
「す、スキルっていうか……前に来た時に習得したんだよ、マナ操作」
「マナの流れを操作しただけだが?」と言い放ちたい、昏い気持ちが沸き上がった。
この世界を救うために召喚させるなら、やっぱり俺がふさわしい。経験もスキルもある。
メメの手違いで佐倉くんに声がかかってしまったに違いない。
異世界に飛ばされる前、俺がとっさに手を伸ばしてしまったあのとき。
メメは「封印が緩んだ」と言っていた。それは、俺が5年前に修復した封印のことを言っているんだろう。なれば俺が再度赴いて、修復するのが道理だ。
そもそも何も知らない、当時の俺よりも幼い佐倉くんに、世界を救うという大役が務まるわけがない。
ぞくぞくと背中にぬるいものが這い、あのとき一瞬感じていた絶望的な劣等感が晴れていく。
「勅使河原さんっ!」
佐倉くんの声が耳に届くと同時に、ゴーレムの大きくしなった腕が肩を打った。
「ッぐぇえっ」
そのまま真横に薙ぎ払われ、体がいうことを聞かないまま地面に転がされた。打ちつけた身体がじんじんと痺れている。
マナの流れを止めたはずの腕だが、胴体部分を無理やり回転させることで攻撃に転じたようだった。
「勅使河原さんッ! 勅使河原さんッ!!」
まさか調子に乗った罰が速攻で当たるとは。自分の愚かさに失笑が漏れた。
幸い無理やり回転させた程度の推進力しか加わっていなかったため、直撃した肩もそこまで重症ではない。体中のマナを肩に集中させればなんとか回復できる程度だった。
「メメ! 佐倉連れて早く逃げろ!」
返答はない。メメの視界には佐倉くんしか映っていないんだろう。
「メメ! 本当に俺にはスキルがないんだな!?」
「ないよ~」
「なんにも!?」
「なんにもないよぉ」
メメを振り返っていた佐倉くんが、再びゴーレムに視線を戻した。
そろそろ俺のマナロックも解除されてしまう。この世界はゲームでも漫画でもなんでもない、本当の現実だ。魔法もマナ操作も、剣術も扱えない佐倉くんでは太刀打ちできずに未来が閉ざされてしまう。
「佐倉くんッ! 逃げろよっ! 早く!!」
「あんたほっといて逃げられるわけないでしょうがッ!!」
佐倉くんが地面を蹴った。動き出したゴーレムの腕が無常にも振りかざされる。低い音を立てながら地面を割ったゴーレムの腕の下には、彼の姿はない。
避けたのかとほっとして佐倉くんの姿を追うと、すでにゴーレムの背中の上にいた。ごつごつと隆起した体の土くれを、ロッククライミングのようによじ登ったんだろう。すさまじい身体能力だ。
「スキルがないんだったらぁ――」
背びれのように生えた細く鋭い岩を、特に長いものをぼきりと折った。
「自力で倒すしかないでしょッ!!」
折った背びれを、ゴーレムの首の付け根に勢いよく突き刺した。脊髄反射のようにゴーレムの体が大きくぶれ、そのままゆっくりと地面に倒れこんだ。
頭部がマナの供給源だったのだろう。首に異物が刺された衝撃でマナの供給ラインを絶たれたため、活動を停止した。
つまり――佐倉くんが、倒したのだ。
「勅使河原さん! 大丈夫ですか、イカれた時めっちゃ体がぐねってましたけど!」
土まみれの佐倉くんが一目散に駆け寄ってくる。勝手に袖をまくられ、先ほど直撃を受けた肩を露にされた。
「大丈夫だって。さっきから勝手に触るなよ、不躾だな」
「すみません。でも心配だったんで……」
佐倉くんがゴーレムを相手にしている間に、肩は大きめの内出血が残る程度までには治せていた。顔を背けていても、心配そうに、申し訳なさそうにしている様子がうかがえる。
とてつもなく惨めだった。
5歳以上も年下の、この間まで中学生だったような子供に。
世界を救った俺と違って、平々凡々な経験しかしてこなかったような子供に。
俺は助けられた挙句、心配までされている。
メメの手違いだと、本当に選ばれるべきは自分だったんだと、思いあがっていた自分が恥ずかしく、惨めで、また深い絶望が蘇ってくる。
もういっそ死んでしまいたかった。
情けない自分への憎しみが佐倉くんに向かないよう、顔を背けるのが精々だった。
「ねえ~。この子、まだ死んでないよ」
そよ風の吹く草原を思わせるような、さわやかなソプラノボイスが不穏を告げる。
ずうんと低い音が、地面を響かせた。