【九】
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「目を覚ますと、そこはアメリカ軍の駆逐艦の船室だった。薄れ行く意識の中で伸びた手は、アメリカ兵の手だったんだな。さっきまで命を奪い合った相手に、助けられたとは、皮肉な話だと思ったよ。聞くところによれば、生き残ったのはわしを除いて十名足らずだったそうだ……」
実に西村艦隊の死者は四千名近くに上った。レイテに参戦した、他の三艦隊の被害を凌いでいる。
その後、日本軍は劣勢を極めた。レイテの戦いはアメリカ軍の圧勝に終わり、フィリピン諸島を手に入れたアメリカ空軍は、日本本土への絨毯爆撃による空襲を開始した。ナパーム弾という、可燃性の油が詰め込まれた焼夷弾が最初に落とされたのは、翌年、一九四五年三月十日、東京であった。燃え盛る炎の中、多くの市民が焼き殺された。これを皮切りに全国的に都市に対する空襲が日夜行われた。四月には、アメリカ軍は沖縄に上陸した。この折に、海軍は最後の頼みであった、戦艦大和を失っている。そして……。
八月六日の朝、よく晴れた広島の上空に、一条の閃光が瞬いた。世界で初めての核爆弾「原子爆弾」による攻撃である。死者は三十万人以上と言われている。次いで八月九日、長崎の空にも原子爆弾が光った。
中立条約を結んでいた筈のソビエトの侵攻もあって、ついに日本は追い詰められたことを確信するに至った。八月十五日。日本政府は連合国の示す「ポツダム宣言」を受け入れ、無条件降伏をした。
長きに渡る太平洋戦争が終結し、生き残った兵士たちは、それぞれの故郷を目指して日本へ復員した。
「終戦は、捕虜施設で聞かされた。敗戦したことは、聞くまでもなかった。それから、わしが、日本へ帰れたのは、戦争が終わって一年余り経ったころだった」
小野寺が孫娘の千佳に昔話を語り終えた。静かに息を吐き出す。冷たく曇った息だった。千佳は祖父から手渡された手帳を握り締めながら、静かに話に耳を傾けた。
「それから、故郷へは帰らなかった。望郷の念はあったが、生きて帰ってきて本当によかったのか、わしには分からなかった」
小野寺の言葉に、千佳は驚きを隠せなかった。
「そんな、どうして……?」
「戦後のわしを生かしたのは、西村司令の最後の命令だ。しかし、敗戦を立ち直ろうとするこの国を、人々を見ていて、初めてわしは罪を背負ったことに気付いた。英霊の元へ召す日まで、永遠に消えることのない烙印だ」
祖父がそう語る罪とは何なのか、千佳にはわからなかった。戦争をしたことが罪だというのなら、今この世界で戦争の名の下に、殺し合い、憎しみあっている人々はすべて罪人だ。千佳がそう言うと、小野寺は静かに首を振った。
「いや、そうではない。西村司令はわしに言った。『悩み戦う者こそ、生き残るべきだ』と。生き残ったわしに与えられたものはなんだったのか。多くの仲間たちが屍をさらし、南洋の海で帰らぬ人となったのに、わしは日本のために何の役割も果たせぬまま、のうのうと生き続ける」
「生きることは罪なんかじゃないよ、おじいちゃん」
「ああ、そうだな。しかしな、本当にあの戦争で生き残るべきだったのは、わしではなかったのではないか。わしの隣で息絶えた下士官だったかもしれない。そう考えるたび、戦後の日本にわしはなんの役割も果たせなかった」
いつの間にか、小野寺の頬を涙が伝っていた。
「昔のことを聞きたがるものなど居ない。若い者は振り返るべきではないなどと、決め付けてはいたが、その実わし自身が、あの凄惨な戦いを思い出したくなかった。その『覚悟』がなかったんだ」
伴侶にも、子どもにも誰にも戦争の話をしたことはない。昔の事を聞かれればそれとなくかわしてきた。それは、否応なしにあの凪の海に咲いた、光の花を思い出さなければならないからだ。戦地から帰った江崎主計長は、西村艦隊の戦いを後世に伝えた。しかし、小野寺は口を閉ざしたまま、今日の今まで、誰にも語り聞かせなかった。それが、小野寺にとっての罪であった。
「戦争が愚かか否か、わしには分からん。しかし、戦争で死んでいった名もなき人々の魂を本当の意味で救えるのは自分であったと言うのに……わしは、悩んでばかりの弱い人間だ」
小野寺はまるで自分を嘲笑うかのように言った。
「おじいちゃん……」
千佳にとって、祖父がそのように思い続けていたことなど知る由もなかった。そっと、祖父の日記を開いた。日記には、細かな文字でびっしりと書き添えられていた。それは、小野寺がアメリカ軍に助けられ、捕虜になっていた当時に書いたものだった。日記、と言うよりは回顧録で、小野寺は日本へ帰るまでの間、無我夢中でレイテの戦いを文字に連ねた。
平和な現代を生きる千佳には、戦争も死も、覚悟も到底理解できるものではない。ただ、祖父が戦後に抱え続けた呪縛のような思い、即ち怒りや悲しみ、悔しさ、ジレンマは、その文字に込められているような気がした。
「凪の海に……」
千佳は日記を閉じると、祖父の顔を見据えて言った。
「凪の海に咲いた花は、空へ昇っていったんでしょう? きっと、その先は天国だと思う。戦争が正しいのか間違いなのか、それはわたしにはよく分からないけれど、でもおじいちゃんと一緒に戦った人たちは、きっと一生懸命生きたと思う」
だから、命の輝きは淡い光となって、小野寺の瞳に映ったのだと、千佳は言う。
「もしも、おじいちゃんが弱い人間でも、日本のために何の役割も果たせていなかったとしても、絶対確かなことがひとつだけあるよ」
千佳の言葉は力強かった。あの日、最後の命令を小野寺に下した、西村の言葉とよく似ている。
「わたしは、おじいちゃんが生きて帰ってきてくれて嬉しい。わたしだけじゃないよ、お父さんもお母さんも、それに天国のおばあちゃんも同じ気持ちだよ」
そう言うと、千佳は小野寺に微笑みかけた。やさしい微笑みは、偽りのないものだった。
「そうか……そうか、千佳」
その時、小野寺は胸が温かくなるのを感じた。
罪は癒えなくとも、自分たちはこの笑顔を守った。それだけで、生き残った意味はあるのだ。今となっては確かめる術もないが、西村はこのことを伝えたかったのかもしれない。
「ありがとう」
小野寺は微笑んで、孫娘に言った。
(おわり)
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