【八】
【八】
気付けば、小野寺は床に転がり天井を見上げていた。後頭部に痛みが走る。どうやら、爆発の振動で頭を強くぶつけたらしい。気を失ってどのくらいの時間が過ぎたのか。小野寺は、フラフラとしながら、立ち上がった。あたりを見渡すと、艦橋の窓ガラスは四散して、火の粉が舞い込んでくる。すぐ近くにいた士官は、顔を血に染めて斃れていた。煙の中、小野寺は生存者を探した。
「小野寺少佐、ご無事ですかっ!?」
煙の中から江崎が姿を現した。顔中煤と汗に塗れてはいたが、怪我はしていない様子だった。
「ええ、大したことはありません。それよりも……」
他に生存者はいるのかと、尋ねかけて小野寺は口をつぐんだ。煤煙が風に煽られると、艦橋には多くの者が横たわっていた。血飛沫と思しき壁の染み、窓から流れ込む人の焼ける匂い。恐ろしいまでに、そこは地獄であった。
「潮時ですな、西村指令……」
機器につかまり立ちをする篠田艦長が言った。西村は悠然と、燃え盛る炎を見据え頷いた。
「総員退艦っ!! 生き残ったものはすべて海へ飛び込めっ!」
それは、篠田艦長からの最後の命令であった。生き残った多くの者が海に飛び込んでいく。しかし、小野寺は艦橋を降りなかった。
「司令はいかがなさるおつもりですか!?」
西村に歩み寄り、問いかけた。すると、西村は穏やかな顔をして、
「小野寺君、あの煙草入れを貰えないか? なあに、冥土の土産にしたいんだ」
と言った。
「そんな! 司令も退艦すべきです。あなたのような軍人がいなければ、海軍は勝利を掴むことなどできませんっ!! どうか、艦を降りてくださいっ!」
「買いかぶりすぎだ、小野寺君。君にとって、この西村と言う男が模範であったとしても、今のこうしている現実がが俺の限界と言うことだ。それにな、これからの海軍に、いや日本に必要なのは、戦争しか知らないロートルの俺たちじゃなく、君のように正悪を悩みあぐね、そして戦う者だ……」
「西村指令の仰るとおりだ。小野寺少佐、江崎主計長、直ちに退艦したまえ。艦長命令だ」
西村の横で篠田艦長が小野寺を諭した。小野寺は西村の瞳に、揺ぎ無い意思を感じた。死して尚、武将であらんとする姿。愚直にもそれが、「海の侍」と呼ばれた男の生き様とでも言いたげであった。
小野寺はポケットから、煙草入れの缶を取り出し、西村に手渡した。
「生きろ、小野寺。生きて我らのことを伝えてほしい」
缶を受け取りながら、西村はそう言うと、軽く小野寺の肩を叩いた。
「それは、司令のご命令ですか?」
「そうだ、小野寺、江崎両名に告ぐ、司令官としての最後の命令だ。いいな!?」
「拝命しましたっ!!」
西村の言葉を聞いた小野寺は、敬礼を取った。西村も合わせて敬礼する。
やがて、艦のあちこちから鉄を引き裂くような音が聞こえてきた。もう幾ばくも船はもたないと、悲鳴を上げているかのようだった。
小野寺と江崎は、艦橋から飛び出した。ラッタルを滑り降り、甲板に出たところで、二人は連鎖する爆発に身を投げ出された。あっという間に、全身を海面に叩きつけられた。腕も胸も腹も痛みが走り抜けていった。
泳ぎは得意ではない。しかし、溺れ死ぬわけには行かない。海面に浮かび上がった小野寺は必死に浮遊物を探した。手近なところに弾薬の木箱が浮かんでいるのを見つけると、小野寺は必死でしがみついた。
その刹那、山城の船体が真っ二つに別れた。そして、巨大な炎の柱が天に舞い上がった。それなのに、あたりが静まり返る。耳が痛くなるほどの静けさ。反転後退を始めた駆逐艦時雨に対する敵の艦砲射撃も聞こえない。人の叫び声も、炎の音も聞こえなかった。
「凪の海だ……」
小野寺は呟いた。鏡のような水面。映りこむ月。それは、出撃前に見たブルネイの凪と同じだった。
君は、凪の海に咲く花をみたことはあるか?
魂の輝きだよ。海が凪いだとき、無念のうちに失われた魂が、天へ召されるための道が開く。現世をさまよう魂は、その道を昇っていく。それを凪の海に咲く花と言うんだ。船乗りだけが見ることの出来る、美しい花だよ。
火柱の周りを蛍のような淡い光が舞う。それらは、クルクルと艦の真上を飛び回りながら、天空へと消えていった。
小野寺は叫んだ。憎しみか怒りか、それとも嘆きなのか、小野寺にもわからなかった。ただひたすらに、凪の海を舞い上がる魂の光に向かって叫んだ。届くはずもない声を……。
火柱が収まると同時に、山城は唸り声を上げながら、海底へと沈んでいった。そして、凪の海に爆発の衝撃波と、高波が押し寄せた。小野寺の体は掴まる木箱ごと、宙に投げ出され、そして再び体を強く海面に叩きつけられた。
遠のく意識の中、何かが近づいてきて、何事か言って、手を伸ばしてきたような気がしたが、小野寺には、それが現実であったのか夢であったのかわからなかった。
西村艦隊と合流予定であった志摩艦隊は、西村艦隊に遅れること二時間の後に、スリガオ海峡へ突入した。この時、すでに西村艦隊の最上は炎上していた。艦隊の危機を悟った志摩艦隊は、すぐさま反転をし、撤退した。
山城を撃破したアメリカ軍のオルデンドルフ少将は、午前四時十分、攻撃中止を命じ、駆逐艦に救助活動を指示した。戦闘が終われば、海に漂流する者は、敵味方関係なく遭難者である。しかし、日本兵たちは、敵に命を救われることを善しとはしなかった。多くは自決し、アメリカ軍の救助を受けなかった。
また、江崎主計長など泳ぎの達者なもの達は、遠泳に挑みフィリピンの島まで泳ぎ着いた。その中には血の匂いによってきた、鮫に食われた者もいる。また、フィリピンまでたどり着いても、現地民によって射殺された者も少なくはなかった。これは、アメリカ軍がフィリピン人に武器を持たせ、対日抵抗軍のようなものを組織させていた所為である。幸い江崎主計長は、現地の老婆に救われ一命をとりとめた。
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