【六】
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アメリカ主力艦隊は、栗田艦隊との交戦で、こちら側が進軍を開始したことを知った。もっとも、キンケイド中将は、この艦隊移動の真意を連合艦隊の東京集結と勘違いしていたが、小野寺たち日本軍にとっては、敵の攻勢が激しくなることを意味していた。
栗田艦隊が米軍と交戦し、明けて二十四日。ネグロス島の南を航行する西村艦隊は、本作戦初めての、交戦を行った。それは、時計の針が、午前九時半を廻った頃、伝声管からの報告が飛び込んで来て始まった。
「電探感ありっ!! 北方より米軍航空機二十機あまり、接近中っ!!」
「とうとう、来たか……、全艦に通達!! 機関最大戦速! 対空戦闘用意っ!!」
西村の指示が飛ぶ。あっと言う間に艦橋は慌しくなった。小野寺は伝声管に駆け寄り、金色の蓋を開け、各部への命令を下知する
「敵機来襲!! 機関最大戦速! 対空戦闘用ー意っ!!」
小野寺の声を合図にするかのように、西村艦隊の各艦船から敵機来襲を知らせるサイレンが鳴り響いた。緊張感が走る。艦橋にいる将官士官は、そろって辺りを見回した。すると、ネグロス島の小高い丘の向うに、鳶の群れを思わせる影が現れた。数えられるだけでもその機影は二十七機。アメリカ軍の艦載機部隊であることは明白だった。
「高角砲射撃用意っ!! 仰角三十度、方位十五度っ!!」
艦の左舷に取り付けられた高角砲が旋回し、敵機を捕らえる。編隊を組んだアメリカ軍航空機隊は、帯が折れ曲がるように、こちらに向かって降下を開始した。
「指揮所、ひきつけろっ!! まだ撃たせるなっ!!」
小野寺は伝声管に向かって叫んだ。静まり返る周囲に、レシプロ戦闘機特有のプロペラ音が聞こえてくる。
「敵機、射程圏内ですっ!!」
伝声管からの声。しかし、小野寺は迫り来る米軍機を睨みつけながら、まただと指示を送る。やがて降下してきた米軍機の先頭を飛ぶ一機から、機関銃の火線が伸びてくる。空気を引き裂くような銃声。海面を叩いた銃弾は、水面に柱を立てながら、山城を狙う。
「今だっ!! 高角砲、撃ち方はじめっ!!」
小野寺は伝声管に向かって怒鳴った。次の瞬間、左舷高角砲が火を吹く。発砲煙とともに真っ赤な砲弾が敵機に向かって飛来する。一瞬の間をおいて、砲弾は先頭の機体に命中した。激しく炎を上げて四散する敵機。しかし、続く二機目の戦闘機はまるで木の葉を返すかのようにひらりと、砲撃をかわした。後には、火薬の煤煙だけが残る。
「怯むなっ!! 対空迎撃、撃てっ!!」
乱れ飛ぶ機銃弾の中、各艦の対空機銃座が米軍機に向かって、射撃を開始した。雷鳴のような射撃音が響き渡った。もはやどれが、どちらの弾丸かも分からぬほどの火線が飛び交う。しかし、米軍の航空機攻撃に対して、対空装備を施しているとは言え、三連装機関銃や高角砲では飛び回る蝿に砂粒をぶつけるようなものだ。それが当たる見込みはそれほど高くはない。
「最上、時雨、被弾っ!!」
別の伝声管からの報告が飛び込んでくる。すぐさま艦橋外側のデッキに飛び出した士官が、後続の最上を確認する。双眼鏡から見て取れる範囲では、最上の前部甲板から煙が上がっているが、絶え間なく攻撃を繰り返しているところを見れば、まだ最上は健在のようだった。
「最上、損傷軽微の模様っ」
報告を受けながら、小野寺は艦上に舞う敵機を見上げた。窓の外では、まるで米軍機が羽虫のようにクルクルと忙しなく飛び回っている。
「攻撃の手を緩めるなっ!!」
と、小野寺が命じたその時、機銃座の弾丸が米軍機の尻を捉えた。回避に手間取った瞬間の出来事だったのだろう。火の粉と煙を上げながら墜落する戦闘機の風防が開け放たれ、白いパラシュートが開いた。
「よし、二機撃墜っ」
艦橋に居る、誰かが言った。しかし、敵はまだ二十機以上健在だ。小野寺は薄暗い青色の戦闘機を睨みつけた。
敵機はそのまま南へと艦隊をすり抜けると、編隊を組みなおす。体勢を立て直し、再度攻撃を仕掛けるつもりだと、小野寺は思った。
「敵が引き返してくるぞっ、右舷対空射撃用意っ!!」
小野寺はすぐさま右舷砲撃指揮所に命令を下す。すると、小野寺の背後で声が聞こえた。それは、篠田艦長の低くくぐもった声であった。
「妙だ。敵は魚雷を一発も落としていかなかった。よもや、機銃だけで沈められると思っているわけではあるまいに……」
「反転後、魚雷投下するつもりでは?」
と、言ったのは江崎であった。江崎はちらりと米軍機が飛んで行った方向を見る。しかし、敵機の姿はそのまま、雲の向うへと遠ざかっていくばかりであった。
「おそらく、彼らの目標は本隊だ」
静かに西村が言った。小野寺はふと、そんな西村の横顔を見た。穏やかな表情、敵機来襲などなかったかのように落ち着いている。言い換えれば、豪胆にも毅然としている。騒然とする艦内で、これほど静かな顔をしている者は、他にいないだろうと、小野寺は思った。
「各所、損害状況知らせっ!! 敵の攻撃に備えろっ!」
西村の隣で、篠田艦長の怒声が飛ぶ。直ぐに士官の一人が艦橋を飛び出し、それと入れ替わるように、伝令が艦橋に現れて他艦の損害状況を知らせた。
「最上、時雨、両艦とも損害は軽微。航行に何ら支障はないとの報告であります。なお、寮艦が敵機一機をしたとのことです」
「そうか。伝令、栗田艦隊に打電せよ」
報告を受けた西村が命じる。
発、第三部隊司令西村祥治中将。宛、艦隊司令長官栗田健男中将。○九四五。ワレ、敵機撃退。撃墜三、至近弾数発ウケシモ被害軽少、戦闘力ニ支障ナシ。
西村の発した伝文はすぐに、栗田の下に伝わった。そのころ、栗田艦隊はシブヤン海を航行し、スールー海に到達しようとしていた。アメリカ軍第三十八任務部隊に発見された栗田艦隊は、同日の十時ごろから、激しい攻撃に見舞われた。
特に戦艦「武蔵」は次々と迫り来る米軍機から、二十本近い魚雷と爆弾を浴びせかけられ、ついに沈没。また、巡洋艦妙高が脱落し、旗艦大和、戦艦長戸、巡洋艦利根も被弾した。このため、栗田艦隊は一路空襲圏外へと反転した。反転の旨はすぐさま、西村艦隊にも通達した。しかし、その伝文には西村艦隊への行動の指示がなかった。
一方、栗田艦隊を攻撃していたアメリカ軍は、北側からレイテへ進軍していた小沢艦隊を発見する。すぐさま、栗田艦隊の動向を探らせていた偵察機を撤収させ、小沢艦隊へ攻撃開始する準備を整えていた。
栗田艦隊の反転を知りながらも、指示を仰げない西村艦隊は、そのまま進軍を続けた。やがて、夕闇が迫る時刻になって、栗田艦隊は栗田の意向に従い、敵が居ないことを確認して再び進軍を再開する。この時、栗田は再進軍を悟られないために、進軍の打電をしなかった。そのため、連合艦隊司令部は艦隊の現在を知ることが出来ず、七時になって各艦隊に「天佑を確信して、全軍突撃せよ!」との命令を下した。
この命令を受け取った時点で、西村は栗田艦隊の再進軍を知らなかった。艦橋に集まる将官士官が、不穏に思ったのも無理からぬことだった。
「栗田長官は、先ほどの豊田副武総司令の命令に従って、再び進軍を開始しているはずです」
とは、小野寺の意見だった。しかし、この懸案は難しく、誰にもそうだとは言い切れなかった。西村艦隊は栗田艦隊へ何度も、現状報告を打電した。しかし、それについて栗田艦隊からの応答はない。困惑に誰もが囚われていた。
「確証はありませんが、小野寺少佐の言うとおりです。いずれにしても、栗田艦隊からの指示を待っているわけには行きません」
江崎が航路図を睨みつけて言う。
「栗田長官たちが反転しままであれば、我々の方が先にレイテへ到着してしまう。志摩艦隊と合流したとしても突出すれば、われらだけで米主力艦隊と対峙できるか?」
別の将校が眉間にシワを寄せた。艦橋には、引き続き進軍することに賛同するものと、難色を示すものがいた。
「今更、必勝の信念で敵弾は避けられないぞ」
将校がそう付け加えた。すると、西村が深く溜息をついた。表情は相変わらず穏やかだったが、その眉目には言い知れぬ迫力を感じずにはいられなかった。
「例え、栗田艦隊が進軍を再会していたとしても、反転した時点で我々が突出してしまうだろう。どうやっても、我が艦隊は本隊と合流できまい。我々は、このまま進軍を続ける。明朝四時、ドラグ沖へ突入する旨を、栗田艦隊へ打電しろ」
西村が静かに指示を下す。
「ええっ!? それでは、レイテ湾突入時刻を繰り上げることになりますっ!」
小野寺はたまらず驚きを言葉にしてしまった。
「夜襲をしかける。この寡兵で勝利を得るには、夜陰に紛れ込むほかあるまい」
そう言う、西村の言葉は覚悟に近かった。ここに来て、作戦に微妙な齟齬が生じ始めている。連絡網が不備であるためなのか、それとも米軍の本隊への苛烈な攻撃の所為なのか。西村は、そのいずれとしても、ここで歩みを止めるわけに行かないことを分かっていた。
戦闘艦として期待されていない、欠陥戦艦「山城」「扶桑」を抱える西村艦隊の役目は、牽制である。その役目を果たすためには、躊躇は許されない。腹をくくった西村の決断は、先行してレイテ湾へと突入するというものであった。
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