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凪の海  作者: 雪宮鉄馬
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【四】

                【四】


 翌日の朝から、ブルネイ泊地は騒がしくなった。時計の針が八時を指す頃、晴天のブルネイ泊地を、栗田長官率いる第一部隊が出発した。先頭を行くのは、栗田長官の座上する艦船で、旗艦でもある重巡洋艦愛宕。要塞のごとき堅牢な艦橋を持つ船だ。それに続き、宇垣纏中将率いる大和・武蔵・長門といった、海軍が誇る巨大戦艦が出航する。その数はざっと十九隻にも及ぶ。それは、威風堂々と決戦に挑む架のような佇まい。しかし、艦列のどこにも航空母艦の姿はなく、所謂戦闘艦のみの布陣となっていた。

 一方、遅れてブルネイを出発することとなっている、西村艦隊の乗組員達は総出で、栗田艦隊の健闘を祈って帽を振った。

「この威容なら、敵軍も恐れを成すでしょうね」

 甲板の上。軍帽を振りながら小野寺は、江崎寿人主計長に言った。江崎は大きな口を開き、豪快に笑う。江崎は髭の良く似合いそうな、豪胆な人物だった。小野寺は、もっとも西村と対極の性格で、それでいてもっとも西村に似た軍人だと思っている。

「でしょうな。しかしまあ、米国とて負けてはおらんでしょう。敵主力艦隊の底力は、マリアナでイヤと言うほど見せ付けられました」

「では、江崎さんは、勝機がないと仰るので? 誰ぞ聞き耳を立てているやも知れませんよ」

「いやいや、そうではなくて、油断はできないと言うことですよ。少なくとも、米軍よりも士気はこちらが上。後は、我々の健闘次第といったところでしょう。ほら、トラック泊地で燻っていた大和も、揚々たる船出じゃないですか」

「江崎さんは、いつも剛毅ですね。いや、その方がいいのかも。いけませんね、どうも心配性で。昨晩も西村長官に叱咤していただいたと言うのに」

 小野寺が頭をかきながら言うと、江崎は遠のいていく艦列を眺めながら、

「あの方は、厳格な栗田長官と違い、いつも穏やかだ。時化など何処知らぬような顔で、どんな難局も乗り越えられる。俺もあのような海軍軍人でありたいと思うのですが、いや、どうにも性格というのは、改められぬものですな、お互い」

 と、半ば自嘲気味に言った。しかし、小野寺は江崎の豪胆さを羨ましく思う。パリックパパン以来、ソロモンをはじめとする海戦に出撃し、大尉と言う階級にまで昇進したにもかかわらず、先に不安を禁じえない自分とは違う姿。彼や西村のような人間こそ、軍人と呼ぶに相応しいような気さえしてくる。そんなことを思うのは、いつにない決戦と言う舞台にたっているからなのか、それともそれが一人の人間としての小野寺なのかは、よく分からない。

「さて、我々も出撃準備の仕上げに取り掛からないといけませんな」

 江崎は軍帽を被りなおしてから言った。

「いつまでぼんやりしているか、貴様ら! さっさと持ち場に着かんかっ!!」

 立ち去り際、江崎の怒号が浴びせかけられる。無論、小野寺にではなく、いつまでも栗田艦隊の航跡を見送る学徒兵に、である。学徒たちは、慌てて江崎に敬礼すると、雲の子を散らすように各々の持ち場へと走っていった。

 学徒動員。深刻化する戦線の、喪失した兵力を補完するために徴兵された、高等教育機関文系科の学生達である。集められた彼らは、陸海軍の下士官などに充てられ、戦地へと送り出された。しかし、今後の日本の礎となる若者たちまで、戦争という苛烈な世界へ引っ張り出す、日本にはたして勝機はあるのか。それは、小野寺がまだ新米であった、パリックパパンの時にはまったく抱かなかった思いだ。だが、戦闘経験が次第に彼の心に、不安の二文字を芽生えさせた。それは、日増しに強くなっていく。


 勝つか負けるかではない。祖国を守る意思が、俺たちにあるかどうかだ。戦争などと言う非生産的なことしか出来ない、俺たちに与えられた役目は、国を、人々を守ることだ。言い換えれば、それが出来るのは軍人の他にいないということだ。


 脳裡に西村の言葉が甦る。それは、いかな理由あろうとも、自らが海軍軍人であることの意味。軍人の覚悟だ。不安は拭えずとも、迷うべきではない。そう教えられたばかりではないか。小野寺は邪念を払うように、頭を振った。

「勝つも負けるも俺たち次第か。江崎さんの言うとおりだ、いつまでもぼんやりとしていられないな」

 小野寺は江崎と学徒の後姿を見ながら呟くと、自らも軍帽を被り直し、持ち場へと向かった。


 西村艦隊が出撃するのは、午後三時である。本作戦は、四つの艦隊で、別々のルートを進軍しレイテで合流し、その全精力をもって、アメリカ主力艦隊を撃沈せしむことが最終的な目標である。ブルネイを出発した栗田艦隊はサンベルナルジノ海峡を抜けてレイテへ。西村艦隊は、スリガオ海峡を抜けてレイテへと進出する。

 この進軍ルートの分割には、二つの意味があった。一つは、敵戦力の分散である。いずれの海域にも

アメリカ軍は兵力を配置しており、危険であることに変わりはないが、決戦の地であるレイテ湾へ進出するに当たって、その被害は極力抑えなければならない。特に、両艦隊ともに航空戦力による援護はなく、戦略から言っても、同じルートを進むのは有効な判断にはならないだろう。

 同時に、西村率いる第二艦隊は、欠陥戦艦「山城」「扶桑」を抱えている。速力が遅いこの戦艦は、大和級や高速戦艦金剛級に比べ、速力が大きく欠けていた。そこで、概算距離が圧倒的に短いスリガオを抜けるルートが割り当てられた。それと同時に、バナイ島を出発した志摩艦隊とスリガオでの合流も控えていた。そのために、時間的な誤差も含め、西村艦隊は十月二十三日の午後三時の出発となったのである。

 出撃の刻限が迫るまで、西村艦隊の各艦は粛々と準備を整えた。この戦いが、激烈な戦闘になることは、誰の目にも明らかであった。決戦。その二文字は思う以上に重い。もしも、フィリピン諸島を失えば、アメリカ軍が新開発した高々度爆撃機「B−29 スーパーフォートレス」は日本本土への航続距離を得たことになる。それは、本土空襲への第一の足がかりが整ったことを意味していた。

 アメリカ軍がどのような手段をとってきたとしても、本土に住む民間人を巻き込むわけには行かない。それが、レイテへ出撃する兵士たちの共通の観念だった。

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