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凪の海  作者: 雪宮鉄馬
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【三】

               【三】


 南洋の風は熱を纏っている。夜空に無数の星が、その神秘的な輝きを見せる時刻になっても、風は生暖かいままだった。「俺には南洋で生活できないな」と思う。寒い地方で生まれた小野寺にとって、この湿気を帯びた風は居心地が悪く、中々寝付けなかった。その度に、涼やかな夜風に当たろうと、むせ返る艦内から甲板に上がり、吹きぬける風の生暖かさにうんざりとするのだ。

「昨日までの台風の方が、まだマシだったかもな」

 小野寺は溜息をついて、軍服のポケットを探った。こつりと、指先が何かにぶつかる。取り出したそれは、洋物の缶であった。二年ほど前に、戦地で拾ったものだった。元々何が入っていたのかも良く分からない。色彩豊かな絵柄と異国の文字に引かれ、それ以来煙草入れとして、愛用している私物だ。

「なんだ、残りニ本しかないじゃないか」

 肩を落としながらぼやくと、そのうち一本を取り出して火をつけた。マッチの香りとタバコの煙が混じり合い、鼻腔をくすぐる。小野寺は舷側のロープに捕まりながら、夜のブルネイ泊地を一望した。泊地には、各地より集結した軍艦が列を成し、艦内灯が光の帯を連ねていた。そのどれもが、ある種の緊迫した空気と熱気に包まれているように、小野寺の瞳には映った。それは、小野寺の乗るこの艦も同じだろう。

 その名を古い日本の地名から取って「戦艦・山城」という。その仰々しい名前の通り、四十五口径の主砲塔を六基、十二門も備えており、天を貫くかのような艦橋は、城郭をおもわせるほど高く聳え立っていた。一九一七年、二十年以上も前に就航したこの艦は、当時各国の海軍が大型戦艦の建造し、その競争に出遅れた日本軍が急造した切り札であった。

 しかし、近距離での海戦能力を重視するあまり、その艦上の重量が嵩み、速力低下を招き、更にこれを解消するべく舷外装甲を削った結果、速力・防御に乏しい戦艦となってしまった。そのため、戦争が始まって以降も内地に留まり、「欠陥戦艦」と揶揄される始末であった。ところが、逼迫した戦況は、そんな「欠陥戦艦」に出撃の命令を下した。戦闘艦である「山城」にとって、此度の海戦は、待ち望んだ日なのだ。

「俺もお前も、南洋で果てるか、それともアメリカに一矢報いるか。どうだろうなあ?」

 小野寺は、物言わぬ鉄の船に向かって呟いた。勿論、返答が帰ってくるわけもない、そう思っていると、

「遠い南洋で果てるが何れか、それは御仏のみぞ知る」

 と、どこかから声が飛んできた。驚いた小野寺は、慌てて煙草を海へ投げ捨てようとした。別に休憩がてら煙草を吹かしていても、それを咎めるものはいない。特に今は、出撃前の静かなひと時なのだ。それでも、小野寺が煙草を捨てようとしたのは、声の主が誰であるか直ぐに分かったからだ。

「いやいや、そのまま。どうせ、俺しかいないんだ、堅苦しい敬礼は抜きだ」

 声の主はそう言って、小野寺に歩み寄ってきた。軍服には金糸のモール、胸には勲章が飾られており、それだけで相手の位がどれほどかを伺わせるには十分であった。

「に、西村司令っ」

 小野寺は声の主の名を呼んだ。海軍中将・西村祥治。それが彼の名前であった。人々から「海の侍」と呼ばれる厳格な軍人だが、そんな異名に不釣合いなほど、とても穏やかな笑みを湛えていた。それが、西村という人間であった。

「小野寺少尉……いや、今は少佐だったな。皆の前では気軽に話すことも出来なかったが、久しぶりだな」

 西村は、かしこまる小野寺の前で歩みを止めると、親しげにそう言った。

「はっ。しかし、司令の前では、自分はいつまで経ってもヒヨッコの少尉のままであります。配属のご挨拶も出来ず、失礼しました。」

「なに、そんなに固くなるな。あの頃より成長した君と、こうしてまた同じ戦地へ向かえるのが、俺は嬉しく思ってるんだ」

「わ、私の方こそ司令と共に戦えることを光栄に思っております」

 直立不動の構えで答える小野寺に、西村は少しだけ笑うと、小野寺と同じように舷側のロープに寄りかかった。

「小野寺君、俺にも一本煙草をくれないか?」

 と言われて、小野寺は慌ててポケットから煙草入れを取り出した。缶の蓋を開けて、残りが一本しかないことに気がついたが、迷わずそれを差し出した。

「ずいぶんと、洒落た煙草入れだな」

「はっ。以前、戦地の浜辺で拾ったものです。敵国のものかもしれないと思いつつ、気に入ってしまい、内緒で煙草入れに使っています」

「ふむ。いい趣味だ」

 そう言って、西村は煙草を吹かした。白い煙が、生暖かな微風にさらわれていく。

「明日は出撃です。お休みになられなくてもよろしいのですか?」

「なあに、夜風に当たろうと思ったんだが、どうにも熱くてやれんので、そこらを散歩していたところだ。……早いもので、もう十月か。秋田はそろそろ、冷え込んでくる時分だな」

 西村はなにやら感慨深げに言った。小野寺も懐かしい郷里の名を言われて、夜空を見上げた。

 秋田は、小野寺と西村共通の故郷であった。戦争が始まって、帰郷したのは数えるほどしかない。ふと目を閉じれば、ふるさとの父母の顔が思い浮かぶ。戦地へ向かう前、父母は嫁を取れと言ってくれたが、もしも、敵の凶弾で自分が死んでも、兄が家業は継いでくれる。それよりも、妙な里心がつくのを嫌って、小野寺は一人身のまま戦争へ赴いた。もう、三年以上も前の話だ。

「近頃、妙に秋田の山河の美しさを思い出す」

 西村が呟くように言った。小野寺と同じように、西村もまた郷里を思い出していたようだ。

「パリックパパンの頃、同郷のよしみで、司令にずいぶん目をかけて頂いたこと、今でも嬉しく思っています」

「そうさなあ、それさえも遠い昔のように思うよ」

「あの頃は、今よりも右も左も分からないままで、仲間たちが必死だったのに、私だけが、あたふたとして。まったくお恥ずかしい限りです」

 小野寺は苦笑いをしながら、タバコの煙を虚空へ吐き出した。その煙の向うに、その日の戦いが甦るような気がした。

 まだ小野寺が、海軍士官になりたてだった頃、日米の戦端が開かれた、西村の率いる第四水雷戦隊に配属された。大学出の新米士官は、緊迫の初陣は開戦の翌月、インドネシア・パリックパパン沖での海戦で初陣を迎えた。米国潜水艦の奇襲攻撃。立ち上る水柱と火柱。激しい轟音とともに沈没していく僚艦。第四水雷戦隊は、どうにか敵軍を押し返すことが出来たが、その損害は甚大であり、西村の顔にも悔しさがにじみ出ていた。

 目を閉じれば、あの日の光景がいやでも浮かんでくる。戦闘のイロハは士官学校で叩き込まれていたはずなのに、喧騒と怒号が飛び交う戦場で、小野寺は身動き一つ取れなかった。話に聞くと見るでは、何もかもが違う。そして、自らが如何に役に立たない海兵であるかを思い知らされた戦いだった。

「あの戦は、俺にとっても忘れられん。辛酸とはこういうことかと、思い知らされたよ」

 西村は声に出して笑いながらも、小野寺に向ける視線は笑っていなかった。

「ですが……、軍令部の体質はあの頃と何一つ変わってはいません。現に、司令ともあろうお方に、『山城』のような欠陥戦艦を与えるなど。我らは、この戦争に勝てるのでしょうか?」

 懐かしさに、口をついて出た言葉を小野寺は隠すことが出来なかった。これでは、日本軍のあり様に対して、一介の士官ごときが問責しているようなものだと分かっていながらも、訊いてみたかった。

 漠然とした不安は、ミッドウェーで黒煙に包まれた空を目の当たりにした日から、ずっと抱えていた。小野寺の乗っていた巡洋艦は難を逃れはしたものの、その日から日本軍は小規模な勝利を除いて、連戦連敗だ。状況が自分達にとって向かい風であることは、前線を肌で感じる軍人の自分が一番良く分かっている。

 それにも関わらず、西村は「欠陥戦艦」を与えられながらも、その任務を拝命した。西村には、自分に見えていない何かが見えているのではないか。そう思い、軍の陰口のような質問を口にした。西村はそれを咎めることはなかった。

「『山城』はいい艦だ。足は遅いし、打たれ弱いが、堅牢な威風は海軍を象徴しているようじゃないか」

 西村はそう言うと、ロープを背もたれにして「山城」の艦橋を見上げた。

「それにな、小野寺君。人にはそれぞれ役目がある。自らが選んだ役目は他の誰にも変わってもらえないと言う責任があると、俺は思っている」

「役目、ですか。では、軍人たる我々の役目とは何なのでしょう?」

「言ってみれば、俺たちは将棋の駒だ。将の駒も歩の駒も、指し手の思惑に動かされてはじめて力を発揮できる。だから、与えられた武器が何であれ、俺たちはそれで善処し、粛々と勝利を目指す」

「お言葉ですが、それでは日本は列強に勝てるとは到底思えません……」

「勝つか負けるかではない。祖国を守る意思が、俺たちにあるかどうかだ。戦争などと言う非生産的なことしか出来ない、俺たちに与えられた役目は、国を、人々を守ることだ。言い換えれば、それが出来るのは軍人の他にいないということだ」

 それならば、戦争などそもそも起こさなければ良いのではないか。小野寺は脳裡に過ぎった言葉を飲み込んだ。

「この戦が正しいものか否か。俺たち日本人が進んできた道は正しかったのか、それとも誤りだったのか。だが、その是非を問うのは、軍人の役目じゃあない。政治家や歴史家の仕事だ」

「では軍人は、正しかったと信じ、その障壁たる敵を討てばよいと?」

「いや、正直言うと、考えてしまう。自分がこうして戦争をしていることに、正義があるのか。特に、多くの守るべき命を失ったときはな。だがもしも、俺たちに迷いがあれば、その一瞬にいくつかの守るべき命が失われる。」

「守るべき命……」

「ああ、そうだ。俺は迷いを捨てて役目を全うしたい。海軍の制服にこの腕を通したときから、ずっとそう思っている。まあ、考えることを放棄した様に聞こえてしまうかも知れんがな」

 空笑いのような笑顔と共に、西村は強い言葉を連ね、小野寺に投げかけた。「寡黙な人」と呼ばれる西村が妙に饒舌であった。軍人は軍人であるべき。そして、祖国を守る強い意思を持つ。それこそが、西村を「海の侍」たらしめるものであり、彼の思いを初めて聞いたことに、小野寺は胸を熱くした。

 その時だった、頬を撫でる生温い風が止み、二人が吐き出したタバコの煙がその場で滞留した。凪だ……、二人はほぼ同時に思った。波立つ海面が静かになり、まるで鏡面の如く夜空を映しこむ。

「こんな夜遅く、凪が訪れるとは……何かの前触れなのでしょうか?」

 小野寺は、視界に凪の海を捉えながら、西村に尋ねた。西村はしばらく空を仰ぎ見た。

「憶えているか? パリックパパンに投錨した夜も、風が凪いだ」

 その問いに、小野寺は記憶を手繰ったが、良く覚えてはいない。ただ、アメリカ軍の砲火が止んだ時、確かに耳が痛いほどの静寂があったことは、定かでない記憶の隅にあった。

「昔、兵学校の先輩に不思議な人がいた……」

 唐突な西村の言葉は、小野寺に向けられていると言うより、昔を回顧しているようだった。

「詩歌を好む人で、その言動は夢の中に現れる人のようで捉えどころがない。同期からも後輩からも、気味悪がられて一線を置かれた人だった。俺も、その人のことはどこか苦手だったんだが、ある休日、兵学校の庭で居眠りをしていたら、その先輩に声をかけられた」


 君は、凪の海に咲く花をみたことはあるか?


「まったく、意味の分からぬことをいう人だと思ったが、俺は思わず『凪の海に咲く花とはなんですか?』と尋ねてしまった。すると、先輩は笑ってこういったんだ」


 魂の輝きだよ。海が凪いだとき、無念のうちに失われた魂が、天へ召されるための道が開く。現世をさまよう魂は、その道を昇っていく。それを凪の海に咲く花と言うんだ。船乗りだけが見ることの出来る、美しい花だよ。


「彼がなぜそんなことを俺に言ったのか、今となっては分からない。先輩はその後、兵学校を卒業する前に姿を消した。まるで、最初からそこには誰も居なかったかのようにな」

「不思議な話ですね……」

 小野寺が呟くと、西村は小さく笑った。

「だが、この話には続きがある。先輩の話も忘れかけた頃、俺は見たんだ。凪の海に咲く花を。それが、パリックパパンの時だ。他の誰もまったく見えていないのに、俺だけが沈み行く僚艦から天に昇る魂を見たんだ。幻か神秘か、それは筆舌しがたいほどだった」

 そう言って、西村は煙草の吸殻を海に放り投げた。吸殻は暗闇に吸い込まれるように、舷側を掠めて消えた。軍帽を目深に被りなおした西村の横顔に一瞬陰りが差した様に見える。

「いつか、俺も凪の海から天へ昇る日が来るだろう……その時、俺の凪の花を見るのは、小野寺君、君かもしれんな」

「司令?」

 小野寺は、西村の陰りに不安めいたものを感じずにはいられなかった。しかし、小野寺の不安を他所に、またすぐに西村の顔に穏やかな笑みが戻ってきた。

「なあに、冗談だ。さて、そろそろ部屋に戻るか」

 西村は踵を返した。小野寺はそんな西村の背中に、不穏なものを感じずにはいられなかった。出撃前の軍人がしかし、それを問う勇気はない。

「小野寺君、俺の家は貧乏だ。君が死んでも、君の遺族まで面倒見れんからな。死ぬなよ」

 振り返った西村は小野寺に言うと、敬礼した。慌てて、小野寺も敬礼を返した。



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