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§テオドール


「う、動くな! 抵抗すると撃つ!」


 乳母ナニーが身動きしたのを見て、テオドールは反射的にライフルを構えた。何度も訓練したセリフが口から出る。


「抵抗なんかしません。車を降りるので、マダムをドクターのところへ行かせてください」


 黒人の乳母ナニーは静かに答えた。

 テオドールを見返してくる瞳は穏やかで、憎しみも怒りもない。


「お、おまえがさっさと車を降りれば、パールが病院に行くのは問題ない」


 頷いて、乳母ナニーが車から出てくる。

 途端に、乳母ナニーもテオドールと同じように、ずぶ濡れになった。


「メリー!!」


 フラウ・タイラが叫んだ。

 ぼろぼろと涙を流している。


――この黒人のために?


 やはり日本人は変わっている。いや、フラウ・タイラが特に変なのか。


 同時に、


――この乳母ナニーは、メリーというのか。


頭の片隅に残った。


「フラウ・タイラ。もう結構です。ドクトル・リブレヒト・デラーセンのところへおいでください。後日、届け出を忘れずに」


 警官としてはここで、この黒人の乳母の遺体を引き取るかどうか、問わねばならない。

 けれど、どうしてもその質問を発することができない。


――引き取ると言うに決まってる。フラウ・タイラなら。


 そう。今、あえて質問しなくてもいい。

 テオドールはむりやり自分を納得させた。それがむりやりだということに、気づいていなかった。


「やっぱりだめ! メリー! わたし行けない!」


「行ってください、マダム」


 乳母ナニーはまったく動かずに答える。

 少しでも動けば即撃たれることを、この黒人はよく理解している。


――早く行ってくれ。何をぐずぐずしてるんだ。


 フラウ・タイラに怒りが湧きあがる。パールが心配ではないのか。黒人の心配などしている場合か。

 ライフルを構え続けるのがどれほどキツイか、知らないくせに。手間をかけさせないでほしい。


――早く。早く、この場から消えてくれ。


 フラウ・タイラがいなくなったら。


――俺は、撃つのか。目の前のこの乳母ナニーを。本当に?


 腕が震える。照準が、大きくブレた。


 抵抗も逃げもしない標的を撃つ。

 射撃訓練よりよほど簡単だ。

 的を外すなど、あり得ない。


――だが、それなら、なぜ、自分の腕はこれほど震えているのか。


 ガコン!!


 乳母ナニーだけを凝視していたテオドールの視界の片隅で、不意に何かが動く。

 ぎょっとして、思わず銃を向けた。


「きゃ……」


 フラウ・タイラが運転席を開け放して、外に出てこようとしていた。パールを抱きかかえたままだ。


「何をしているんです!」

「マダム、ダメです! 早くプリンセスをドクターに!」


 テオドールとメリーは同時に叫んだ。


――この黒人の方がよほど事態を理解している。


 道理を弁えない日本人にイライラする。

 パールを助けたいなら、一刻も早く立ち去るのが正解だ。

 心情は理解できないものの、フラウ・タイラはこの黒人の乳母ナニーに情を覚えているようだ。

それならば、なおさら、撃たれる場面など見なければいい。

 後日遺体を引き取り、気が済むまで泣けばいいのだ。

 そこまで惜しんでもらえば、法を犯した犯罪者の最期としては、上等の部類だろう。

 名誉白人枠とはいえ白人の娘、しかも我が子と、下等人類の黒人の雇い人の命など、比較の対象にもならない。


――あれもこれも欲しいと、ワガママな。どちらかを諦めるのなら、考えるまでもないだろうが。


 思わず舌打ちが出る。

 まさにそのとき、フラウ・タイラが、駄々としか思えない発言をした。


「メリー。あなたを置いて行けない。あなたを見殺しにして珠己を助けても、珠己だって悲しむ」


 ため息が出そうになったテオドールに、タイラ夫人はきっ、と向き直る。


「テオ。この国の法律に違反したことは重々分かってる。でもそれは主人であるわたしが、メリーに命令したことなの。珠己を助けるために。情状酌量の余地はないかしら。少なくとも、即射殺する必要はないと思うのだけど」


 そのまま片足を外に出す。

 テオドールが何か云う前に、メリーが叫んだ。


「マダム! プリンセスを濡らさないで。これ以上熱が上がったら危険です」


 そして。

 豪雨と雷鳴のなか、不思議なほどはっきりとその声は聞こえた。


「あたしは大丈夫です。しゅも言っておられます。弱い時にこそ強い、と」


――なぜ。なぜ、黒人がその言葉を。


 新約聖書「コリント人への手紙」。

『……だから今では、私は自分の弱さを喜んで誇ります。……なぜなら、弱い時にこそ、私は強いからです。無力であればあるほど、それだけキリストによりすがれるようになるからです。』 (新約聖書 コリント人への手紙二部12章より)


 黒人も、黒人専用の教会で主の教えを受けていることは知っていた。だが土着の異教と混じって、キリスト教とは呼べないモノに変質していると習ったのに。

 今、この黒人の乳母ナニーは、あり得ないほど的確に、主の言葉を引いた。

 しかも、理解も解釈も特に難解な新約聖書を。


 激しい雷鳴が轟く。

 白と黒の世界で、三人は固まっていた。






§優子


 生まれて初めて、銃口を向けられた。

 運転席のドアを開けた瞬間に、テオにぴたっと照準を当てられた。


 銃の所持が普通の欧米であっても、銃口と対面するような機会はめったにない。むしろ、銃を日常的に使うからこそ、その取扱いは厳重だ。

 犯罪者や不審者でもないかぎり、人に銃口を向けることは、逆に撃ち返されても文句が言えないほど無礼な行為なのだ。


――これがこの国の警察。

――これがこの国での、黒人の扱われ方。


 視界も頭も真っ白になりながらも、優子は本能的に動きを止めた。


「弱い時にこそ強い」


 メリーの言葉は、優子には分からない。

 けれど。

 わたしだって、弱い。この大事な瞬間に、何ひとつできない。

 それなら。


「わたしも強いの……? どこ、が……?」


 地面に着けた左足だけが、ずぶ濡れになっていく。

 激しい雷鳴が轟く。

 白と黒の世界で、三人は固まっていた。

 






§メリー


「弱い時にこそ私は強い」


 こういうことだったのだ。

 正直なところ、教会で説教を聞いたときにはピンとこなかった。

 黒人は弱い。ずっと弱いままだ。強くなることなどない。

 でも今、この場でもっとも落ち着いているのは、明らかに自分だ。


 目の前のボーイの手は、水煙の中でもそれと分かるほどに震えている。


――罪の意識?


 あり得ない。生粋の白人が黒人を撃つことに罪の意識など覚えるはずがない。


――初めて人間を撃つ恐怖?


 少しはあるかもしれない。訓練では、実射だとしても、せいぜいジャガー程度までだろう。けれどこのボーイが、自分を「人間」と認識するだろうか。可能性は低い。


――寒さと疲労?


 いちばんあり得る。予期せぬ事態に緊張もしているだろう。ライフルの重さは時間が経つごとに、腕にのしかかってくる。


――ずっと構えてなくても、べつに逃げやしないのに。


 ガチガチに緊張しているボーイに、同情すら覚える。

 だが、マダムに銃を向けたのは、いただけない。無礼だし、危険だ。

 つまり、ボーイは余裕をなくしつつある。

 銃を構えている人間に、緊張と動揺は大敵だ。

 遠からずボーイは、発砲するだろう。


「弱い時にこそあたしは強い。主よ、もうすぐお傍に参ります」


 静かに呟き、手は動かさずに祈った。


 激しい雷鳴が轟く。

 白と黒の世界で、三人は固まっていた。

 






§テオドール


 フラウ・タイラに銃を向けていたことに気づき、慌ててメリーに構えなおす。


 激しい雨風にあおられる中で、黒人の乳母ナニーだけが浮き上がるように一人、静謐だった。

 

 フラウ・タイラは大きな目を見開いて自分を見つめている。


――この人の目の前で、この黒人を撃つのか。……撃てるのか、俺に。


 腕はもう限界に近い。強く激しく身体を叩く雨は、確実に体温を奪っている。


――腕が震えているのは、ライフルの重さと寒さのせいだ。


 訓練ではいい成績だった。

 まったく動かない標的を撃ち損じることなど、あり得ない。


――まったく動かない?


 光を見出した気がした。

 警察はこの国の秩序を守る存在だ。そのために「社会を擾乱する黒人を管理・取り締まる権利」を持つ。

 それならば、抵抗どころか身動きすらしない黒人を射殺する必要性があるのか。

 警察に現場射殺許可ノータイム・ショット・ライセンスが与えられているのは、あくまで黒人の抵抗を迅速に効果的に処理するためだ。

 反省の念を見せている黒人なら、ただ逮捕すればいいのではないのか?


 これまでに習った知識が、頭を高速回転する。

 現場射殺許可は、あくまでも「許可」だ。

 転じて、黒人隔離政策を乱す違法な行いをした該当者は、即時逮捕が「義務」。撃たなくても逮捕できるのならば、警官の職責を放棄することにはならない。

 だが。

 どれだけ前例を思い返しても、まったく発砲せずに黒人を逮捕した案件を思い出せなかった。

 白人専用バスに乗り込んだ黒人の集団を逮捕したときでさえ、多くの死傷者が出た。

 今回は乗り合いバスどころではない。主人の自家用車に、主人に運転させて自分は後部座席、上座に乗っていたのだ。罪の重さは比べるべくもない。

 だが、乗り合いバスの事件では黒人が集団で抵抗した。白人の乗客達も、警官が到着するまで黒人を押さえつけていた。そのときにケガをしたり、つい力が余ったり弾の当たり所が悪かったりして死んだ者もいた、というだけだ。

 この乳母ナニーは、抵抗していないのに、発砲する必要があるのだろうか。


 ドーーーーーーーーン!!


 落雷が体に重く響く。


――必要? 俺は何を考えている?


 心の奥底では、分かっている。


――俺は、怯えている。


 目の前の落ち着き払った黒人の乳母ナニーと比べて、自分は無様だ。


 だが、これほど無抵抗の生き物を無造作に撃つのは難しい。目が合ってしまったのなら、なおさらだ。

 テオドールは、庭でウサギを狩ったときのことを思い出していた。

 30cmの距離で、野ウサギはまったく動かなかった。赤い目もぴくぴく動く鼻もつぶさに見えた。

 結局、テオドールは撃てなかった。

 野ウサギは木の根を枯らす。数を減らすのは主人の義務だと、父に厳しく叱られた。


――俺だって、ウサギが逃げれば、撃っていた。


 その時と同じ。

 いくら黒人が劣種だとしても、ウサギよりは人間だ。

 抵抗も反抗もしない人間を撃つことに、どうしてもためらってしまう。


 けれど、新人警官風情が、前例にない対応をしていいのか。

 黒人を逮捕するとき必ず発砲することには、きっと重要な意味があるのだ。

 フラウ・タイラは、「情状酌量の余地がある」とすがった。

 だがそれを決めるのは、自分の役割ではない。人権弁護士とやらが主張すればいいことだ。


 小学校に入った時から、この国で学んできた。

 両親からも厳しく教育されてきた。

 黒人という劣種を管理し、導かねばならない国。その国で、責任ある白人である以上、真正面から義務を果たすべきだと考えて、警官という職を選んだのだ。


――そうだ。今、試されている。俺が、白人の義務を果たせるように。甘さを捨てるように。


 テオドールは引き金を引いた。






§優子


 モノクロの世界の中で、銃口だけが一瞬、オレンジ色に光った。


 ズグッ。


 雷よりもずっと小さい音。

 あれが銃声だったのだと、遅れて理解する。


「メリー!!」


 悲鳴は、同時に炸裂した落雷にかき消された。

 世界はまた、白と黒に戻った。

 そして、反動の静寂が覆う。






§メリー


 スローモーションのように、銃口が火を噴くのを見た。


 ポリスボーイは、最後の最後で、瞳を揺らした。

 雨粒が目に入ったのかもしれない。

 手が冷えて、きちんと引き金を引けなかったのかもしれない。

 多少は、躊躇したのかもしれない。


 いずれにせよ、メリーの耳には銃声は届かなかった。近すぎると、聞こえないものなのだ。


 一瞬で火に包まれたような、灼けつく熱が体を襲った。


 とっくに死んだ夫、子供たち、孫たちの顔が浮かぶ。みんな笑顔だ。

 これまで働いてきたお屋敷の奥様と赤ちゃんたち。白い顔ばかり。でも、いい人も意地悪な人もいた。

 ミセス・タイラと、リトル・パール。喜怒哀楽すべての表情が見える。たった一年の間にどれほど深く豊かな時を過ごしたことだろう。


 恐ろしく熱い体と、全身に叩きつける冷たい雨。

 ゆっくりと、メリーの体は水たまりに倒れ込んだ。






§テオドール


「メリー!!」


 フラウ・タイラが水しぶきをたてて駆け寄ってくる。


「メリー、メリー!」


 呼びかけながら、暗幕で乳母ナニーの体を包むのを、テオドールはぼんやりと眺めていた。

 右手が重い。

 のろのろと目をやると、ライフルを持っている。


――ああ、これで、俺が、撃った、んだな。


 乳母ナニーの下の水たまりは黒ずんでいる。この色のない世界で、おそらくあれは、黒人の血だ。


 ボウッ!


 1mほど先の灌木が、いきなり燃えあがった。豪雨にも関わらず、激しい火勢だ。


――落雷か? いや……。


 違う。

 悟って、テオドールは青ざめた。


――あれは、ライフルの弾から、発火した。


 つまり、自分は、撃ち損じたのだ。これほどの至近距離を。


 引き金を引く瞬間。

 あの乳母ナニーの名前が頭に響いた。

 メリー。人間の名前。クリスチャンの名前。

 パールが懐いている。

 命をかけてパールを抱いてきた。

 コリント人の手紙を暗唱した。

 死を前にして、静寂を保っていた。


 野ウサギの赤い目。


 何が手元を狂わせたのか、分からない。

 テオドールの指先と視線は、最後の瞬間、わずかに標的を逸らしたのだ。


 カッ!!!!

 空に稲光が何本も走った。


 ドオーーーーーーーーン!!!!

 ほぼ同時に、雷が落ちる。


 真昼よりも明るくなったその時、テオドールの目に、赤い色が飛び込んでくる。

 黒人の乳母ナニーが倒れていた水たまりが、鮮やかな赤に染まっていた。


 この白と黒の世界で、そこだけが、真紅だった。

 黒人の血も、赤かった。


 テオドールは、ぐっと息を呑んだ。

 油断すると、笑い出してしまいそうだ。

 何に笑いたいのか、分からないけれど。

 今笑ってしまえば、テオドールは認めざるを得なくなる。


 撃ち損じて、ホッとしていることを。


 そんな自分が、それほどショックではないことを。


 この国の警官にとってあるまじき感情を。


 それはとりもなおさず、自分の人生のほとんどすべてを否定することだ。


 だからテオドールは、唇を噛みしめたまま、立ち尽くしていた。







§優子


 テオドールの様子がおかしい。

 話しかけても何の反応もないし、勝ち誇っているわけでも、後悔しているふうでもない。

 そもそも、目の前は火事だし、メリーは腕を撃たれて血だらけなのに、消火活動も逮捕のそぶりも見せない。

 激しく震えているけれど、自覚しているのか。


――もしかして、銃を撃ったのが、初めてだった? それでショックを受けている?


 だが、それなら好都合だ。

 メリーの出血はひどいが、見たところ傷は左の上腕部だけ。

 テオドールが呆然自失している今なら、逃げられる。

 優子は、渾身の力を振り絞って、メリーの体を抱き起こした。


「ぐっ」


 メリーのうめき声が聞こえて、かえって安心する。


――ああ、メリー。生きている。意識がある。よかった……!


 半分朦朧としながらも、メリーはなんとか足を前に出していた。

 ほんの15歩ほどの距離が、果てしなく遠く思われた。

 暗幕でメリーを隠しながら、なんとか後部座席に押し込む。

 優子の息も上がっていたし、メリーもうめいていた。暗幕もバサバサ音を立てていたのに、テオドールはまったく反応しなかった。


 ドアを閉め、エンジンをかけ、膝に珠己たまきを乗せる。それらすべてをほぼ同時にやり終え、一気にアクセルを踏み込んだ。


 あの場所にメリーがいなければ、どうとでも言い抜けられる。

 テオドールが自失状態から復活しても、しばらくは消火活動に時間を取られるだろう。あの灌木は、あまりに検問所に近すぎて危険だ。


 優子は、ひたすらアクセルを踏み続けた。

 乱舞する稲妻も雷も、もはやまったく気にならない。


 そのまま車はプルメリアタウンに入った。







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