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§メリー
「まさか」とマダムが呟いた時、メリーは覚悟を固めた。
リトル・パールに付き添うと決めた時点で、覚悟はした。でも、検問所が締まっている可能性にも、賭けていた。
自分は賭けに負けたのだ。
――願わくば、マダムがお咎めなしになって、できるだけ早くこの場を去ることができますように。
ここでごたごたして、リトル・パールまで助からなかったら、自分が命をかけた意味がなくなる。
そして、できれば、自分が撃たれるところをマダムには見せないでほしい。
きっと、とても悲しんでくれるから。
自分のせいだと、気に病んでしまうだろうから。
マダムはそういう人だ。
マダムは、使用人がスターチを持って帰っていることに気づいていた。のに、何も言わなかった。たいていの白人のように、罰を与えることもなかった。
それどころか、ミセス・ピースは使用人全員が持ち帰るスターチの分を増やして、注文するようになったのだ。
使用人達も気づいていた。
彼らもバカではない。扱いが残酷な主人の家ほど、多くの物が盗られる。貴金属など、盗らない。そんな物では、命をつなげない。
どうせ何をしようとしなかろうと、ムチ打たれたり足蹴にされたりするのだ。
ギリギリのラインをかいくぐってその家の食糧を盗るのは、黒人のせめてもの反抗であり、仲間への伝言でもある。
多く食料をくすねられる家ほど、酷い白人だというアピールなのだ。
中長期的には、その家は良質な使用人を雇えなくなる。
黙って見逃してくれる主人は、いる。黒人に同情している場合もあるが、そもそも金持ちすぎて、パントリーの在庫に無関心な家も多いのだ。
だが、きっちり使用人の分量を増やしてくれたのは、マダムが初めてだった。
その優しさにあたし達がどれほど感謝しているか、マダムには想像もつかないだろうけれど。
あたし達は、受けた恩は必ず返す。
教育も満足に受けられず、親兄弟と引き離されて遠い黒人居留地に移された。バラックの崩れかけた建物で寒さ暑さとひもじさと闘う。病気にかかったら諦める。就労していないと罰せられるのに、就職先が見つかる可能性はほとんどない。
そんななかで残っているのは、部族に伝わる教えと、信仰だ。
餓死か凍死の危機を何度もすり抜けて、43年も生きられた。だが、子どもを亡くすという経験を何度もした。
最後に、プリンセス・パールに会えた。
――もう充分だと言いたいけれど、それはリトル・パールが助かってこそ、だ。
メリーは最後に、お包みをぎゅっと抱きしめた。
腕の中の、熱く、柔らかく、愛しい幼な子。
――できればもう一度だけ、あの笑顔と明るい笑い声を聞きたかった。
§テオドール
テオドールは激高していた。
目を疑うとか、非常識とかいう言葉では追いつかない。
ありうべからざる、前代未聞の犯罪行為だ。
フラウ・タイラは気がふれたとしか、思えない。
「汚れた体で白人の車に乗るな! フラウ・タイラに運転させて、自分が上座だと?! 恥を知れ! さっさと車から降りて、ここに跪け!」
激しく降る雨で、テオドールはずぶ濡れだったが、それも気にならないほど、頭が沸騰していた。
肩にかけていた、ライフルをつかむ。
――この場で射殺する。それが警官の権利であり、白人の義務だ。
白人の劣等亜種である黒人は、白人とは隔絶して教育せねばならない。同じように教育しても白人のようには成長できないからだ。
黒人は生来的に怠け者で、犯罪者気質を備えている。だからこそ、高等教育を受けた白人が彼らを統治し、厳罰を以て管理しなければならないのだ。
テオドールにとってそれは、物心ついたときからあらゆる機会に教えられた、いわば世界の常識だった。
「テオ、待って!」
フラウ・タイラが必死な声で話しかけてくる。
テオドールは、彼女にも冷たい目を向けた。
「残念です。母から、フラウ・タイラは白人女性として見込みがあると聞いていたのですが。しょせん名誉白人は名前だけということですね」
フラウ・タイラが、豪雨に負けじと叫ぶ。
「珠己は一刻を争うの! お願い、罰なら後できちんと受ける! 約束する、戻ってくるから、ドクターの元に行かせて!!」
テオドールは少し怯んだ。
この天候のなか、車を出したことで、パールがどれほど危険な状態かは想像がつく。
彼とて、パールを死なせたいわけではない。助かる方法があるなら、手伝いたい。
フラウ・タイラには失望したが、パールはいわば生粋の白人だ。あんなにいい子なら、きっと立派な白人女性に成長するだろう。
「……医者は、どこの誰です」
テオドールは少し、譲歩した。
「プルメリアタウンのドクター、リブレヒト・デ・ラーセン。以前はヨハネスバーグにいらしたそうね。つい最近引越したと聞いたの」
「知っています。僕も子どもの頃、診てもらっていました。ドクトル・デラーセンなら間違いない。立派な医師です」
「珠己の容態を話したら、日曜なのに診察してくださると。でも、できるだけ早く連れてくるように言われたの」
フラウ・タイラから、すがるように言葉が流れてくる。
その奔流は、テオドールを少し冷静にさせた。
つまるところ、フラウ・タイラは母親なのだ。母親が、我が子の命の危機に取り乱しても当然ではないか?
そのために、非常識な行いを犯したとしても。
情状酌量の余地があると思う。
テオドールにも、時間が問題だということは理解できた。
後から戻って来て罰を受ける、というフラウ・タイラの言葉に嘘はないだろう。
ここで自分の権限で、タイラ夫人をドクトル・デラーセンの元に行かせても、それほど問題はないと思う。むしろ、乳児の命を救ったことで、褒められるだろう。
「分かりました。フラウ・タイラ、お車を出してください。でも必ず後日、届け出にいらしてくださいね。罰金で済むとは思いますが、ご自分から申し出ていただいた方が軽くなりますから」
タイラ夫人は、安堵で顔をくしゃくしゃにした。白人のレディはそんな顔を人に見せるべきではないと思うが、これもまた、母親の愛情なのだ。
テオドールはむしろ、タイラ夫人の素の表情を、好ましく感じた。
――この母親に育てられているから、パールはあんなに素直な子になったのだな。
「ありがとう、ありがとう、テオ! 必ず、届け出に伺うわ!」
後部ドアも開いたまま、タイラ夫人がエンジンをかけたので、テオドールはぎょっとして止める。
「フラウ・タイラ、この黒人は別です。置いて行ってください」
§優子
テオドールの言葉は、冷たい音の塊だった。
一瞬、意味をつかみかね、その内容がゆっくりと脳を黒く染める。
優子はハンドルに顔を突っ伏した。
――ああ、ミュラー家の人間だ。
優子と珠己がこの国に来てすぐに、隣のミュラー家から歓迎のディナーに招待された。
そこでのミュラー家の使用人の扱いは、酷薄そのものだった。
ディナールームに大勢の使用人が壁際で整列している光景は、その後ほかの家庭でも見かけた。彼らが存在しないかのようにふるまうのも、十九世紀帝国主義に憧れている家庭ではよくあることだ。
だが、ヘル・ミュラーは食卓に猛獣用のムチを持ってきていた。優子から見て特にミスがあったとは思えない使用人に、度々そのムチをふるう。
コースが進んでミュラー氏が酔ってくると手元が怪しくなり、ムチが目や額に当たることも多くなった。引き裂かれた皮膚から、血がテーブルクロスに落ちる。そうすると「主人の食卓を穢れた血で汚すとは!」と激高して、相手が立っていられなくなるほど激しく、連打した。
いたたまれない気持ちのまま、メインの肉料理が終わった頃。
骨付きチキンの煮込みを平らげた後、ミュラー氏も奥様も、食べ終わった骨を、ぽーんと床に投げた。
「ほら、お食べ」
適当に近くの使用人を指さす。
指名された者は、執事でも給仕でもメイドでも、床に這いつくばって、ほとんど肉のついていない骨をしゃぶる。この時に手を使った者には、ミュラー氏は容赦なくムチ打った。
ミュラー家の子どもは、一男一女。長男のテオドールも親と同じく、骨を投げた。中学生のヘレナも自分のメイドに骨を投げつけ、わざと顔に当てて手を叩いて喜ぶ。はしゃぎすぎて、スプーンも落とした。
すかさず、ミュラー夫人が叱る。
「ヘレナ、お食事の時にカトラリーを落とすのはとても不作法なのですよ。絶対にやってはいけません」
そして優子を見て、勝ち誇った顔をした。
「ウチでは立派な白人になるために、厳しく教育しているんですの」
優子は、これ以上耐え難かった。
額に冷や汗だか脂汗だかが浮かび、自分の顔が青ざめていくのがはっきりと分かった。吐き気を堪えてコースの最後までいたが、この場面以降の記憶がほとんどない。
隣の我が家に帰ったとき、夫が一言、「あれはひどかったな」とぼそっと呟いた。
実際、その後のさまざまな社交のなかで、ミュラー家ほどあからさまな家庭はなかったものの、似たような光景は当然のように存在した。
総じて、ドイツ系住民の黒人の扱いがもっとも酷かった。
彼らの行動は、「人種差別」というよりは「虐待」に近い。
多くの外国駐在員家庭のなかで、ドイツ人はこの国への滞在期間が長い。ミュラー家もすでに10年以上、駐在している。
英国人やフランス人に云わせると、
「ドイツは第二次大戦の敗戦国だから、コンプレックスがあるのね。自分達より下の生き物は黒人だけですもの。自国ではこんなに贅沢な生活ができないから、舞い上がってるのよ」
とのことで、その後必ず、「あら、ごめんなさい。ミセス・タイラも敗戦国からいらした名誉白人でしたわね」と白々しく付け加えた。
けれど、優子から見れば、そういうイギリスやフランスといった「戦勝国」の家庭も、黒人の扱いは似たり寄ったりだった。ムチの代わりに靴ベラで殴っていたイギリス人家庭もある。
それでも、自分達の食べかすの骨を床でかじらせる家は、ミュラー家だけだった。
テオドールは、あの家庭で人生のほとんどを過ごしてきた。その後、警察に入り、この国特有の価値観はいっそう根強くなっただろう。むしろ、この国の秩序と正義を守る、と誇っていてもおかしくない。
――メリーは、殺させない。絶対に。
真上に居座る嵐のように、荒々しい気持ちが巻き起こる。
黒人は怠けるから、管理体制が必要だという意見は根強い。
けれど、「現場射殺許可」は、管理ではない。
人命軽視、虐殺だ。世界中からそう非難されているのに、なぜ、白人の誰も、これがおかしい法律だと思わないのか。
「テオ」
「いけません、マダム」
雷に負けないように声を張り上げようとした瞬間、後部座先から静かな声が遮った。
「警察を相手にモメてはいけません。時間がなくなります」
§メリー
強張り、ぴんと伸びていたマダムの背中が、崩れ落ちた。
ポリスボーイに呼びかける切迫した声で、マダムが彼を止めようとしていることが分かった。
ありがたいとは思うけれど、ムダだ。
隣のミュラー家は、リンデンの街で悪名高い。このボーイのことも、庭で初めて立ちあがった頃から見知っている。
あの家で育ち、職業にポリスを選んだような子が、マダムの言葉くらいで易々と説得されるはずがない。
「何を言っても、マダムがここを離れる時間が遅くなるだけです。このまま行ってください」
「メリーを置いて、行けるわけないでしょ?!」
マダムが悲鳴をあげる。
メリーは、この女主人の優しさと甘さを愛していた。黒人のなかには、日本人の甘さを嗤う者もいる。
だが、メリーは、マダムの向こうに、楽園の幻想を見ていた。
ぼんやり歩いていても命の危険を感じずに済む街。
凍死や炎熱症、マラリアの心配をせず80年以上も生きられる先進医療。
生まれてこのかた一度も肌の色のことなど考えなくてもいい国。
黒人への「射殺許可」を、言葉で止められると信じられる純真さ、甘さが通用する世界。
ツツ大司教が説いた、「夢の国」「非暴力の国」は、日本ではないかとすら思う。
黒光りする自分の顔を見た瞬間、満面の笑みで抱きついてきたプリンセス。
ポリスを相手に、自分を助けようとするマダム。
この二つの光景だけで、じゅうぶん銃口の前で穏やかに跪ける。
「さようならです、プリンセス・パール。あなたの乳母のこと、覚えていてください」
まだ熱い小さな体を抱きしめた。
「メリー、だめ、よ……」
運転席から振り向いて涙を流すマダムに、プリンセスを手渡そうとして。
腕が止まった。
――白人のベビーを胸に抱いていたら、あのポリスボーイは銃を撃てるだろうか。
新人ポリスだ。訓練はしていても、実際に人間を撃った経験はないだろう。彼にとって自分は人間ではない。
が。白人の赤ちゃんなら?
テオドールの持っている銃は、連発式のライフル。散弾銃よりは狙いをつけやすいが、弾道が跳ねる。
だてにこの国で40年以上も生きてきたわけではない。メリーは白人の撃つ銃に詳しかった。そうでなければ、身を守れなかった。
稲妻が激しく空を切り裂く。
ほぼ同時に轟音が響き、大地が揺れた。
メリーの呪縛が解ける。
――あたしは。何を。赤ん坊を、盾にしようと……っ。
キリスト教徒として、神の御前に出て恥ずかしくない一生を送ってきた。それはメリーの誇りだった。
――この命の土壇場で、しかもプリンセス・パールを盾に考えるなんて。あたしは最低だ。神よ、お許しください。
メリーは束の間、すべての状況を忘れて、胸の前で十字を切り、祈りを捧げた。
§テオドール
パールを胸に抱いた黒人の姿が、閃光の下に浮かびあがった。
その後、真剣に祈りを捧げている。
――殊勝なことだな。
自分は決して冷酷非道な人間ではない。クリスチャンの黒人は、そうでない黒人よりは、多少マシな生き物だと評価している。
命の最期に、懺悔か感謝か、祈りを捧げる姿までジャマする気はなかった。
ふ、と手をほどき、顔をあげた黒人と、テオドールの目が合う。
見たことのある顔だった。隣のタイラ家に来る前も、リンデンのアフリカーンス(オランダ系移民)の家に勤めていて、やはり乳母だった。
――ああ、今も、パールの乳母か。
テオドールは、やっと、この黒人を認識した。
「黒人」でなく「隣の子の乳母」として。
それはテオドールにとって、人生で初めて、「黒人」を固まりではなく、個別に認知した瞬間だった。
十年以上も見ていたはずの顔だが、それほど記憶はない。そもそも黒人一人一人を見分ける必要などなかった。
名前も知らない。
だが、顔を認識したとたん、この一年の光景があふれ出す。
ベビーカーでご機嫌に散歩するパール。
庭の芝生で転がって笑うパール。
うつ伏せになりお尻を高く上げて、今にも這い這いをしそうで、崩れ落ちるパール。
ポリッジ(おかゆ)をぐちゃぐちゃに握りしめて振りまわすパール。
泣いているパール。
眠っているパール。
その傍には、必ずフラウ・タイラと、この黒人の姿があった。
――少なくとも、この黒人の乳母は、パールを慈しんでいた。パールも、懐いていた。
ぎゅっと目をつぶる。
そうでなければ、重罪と知りつつ、主人の運転する後部座席に同席などするはずがない。
この嵐の夜、フラウ・タイラが車を運転するなら、高熱のパールを支える者が必要だ。
この黒人の乳母は、ポリスに見つかれば撃たれると覚悟のうえで、パールを抱いていたのだ。
ポリス。
自分のことだ。
ライフルを持つテオドールの手が、初めて細かく震えた。
§優子
優子は完全に気を呑まれていた。
もう雷の音さえ耳に入らない。
白い光の中で珠己を抱いて祈るメリーの姿は、言葉を寄せつけなかった。
テオドールは無表情にライフルをつかんで立っている。
――わたしは、無力だ。
力が抜けて、その場に倒れ伏してしまいたかった。
大声で泣き叫びたかった。
珠己は大切だ。
たった一人の我が子。夫がほとんど家にいない現状、唯一の家族。
この国で眠れない夜、理不尽な社交の昼間、どれほど珠己が自分の救いになっているか。
温かくふわふわした小さな体、無垢な笑顔を見るたびに、自分も強くなれると思えた。
けれど。
なぜ、その珠己とメリーの命を引き換えにしなければならないのか。
珠己は、何物にも代えがたい。
だからといって、珠己を救うためにほかの人間の命を差し出すなんて、ひどすぎる。
――なんで、わたしがこんな残酷な決断をしなきゃいけないの!
一神教は感覚的に、合わない、と思う。
だが、神に祈るメリーに迷いは見えなかった。
優子の体は強張って動かない。
十字を切る習慣が体に染みついているクリスチャンを、初めてうらやましく思った。
指一本でも、どこでもいいから体を動かせたら、少しは気持ちもラクになる気がした。
――どこの、誰の神様でも、いい。珠己と、メリーを助けて。どうか、どうか。
八百万の神とキリストとアフリカのすべての土俗の神に、優子は祈った。
優子は、テオドールと同時に、固く目をつぶった。
§メリー
――もう大丈夫。あたしは最期まで穏やかでいられる。
メリーは、マダムにプリンセス・パールを手渡した。
もう腕が固まることも、悪魔のささやきが聞こえることもない。
プリンセスに笑顔を見せられた自分を、誇らしく感じる。
後部座席を降りようとして、ふと気づいた。
「マダム。あたしの名前は、メアリ・ンキレイといいます。メリーは洗礼名です。執事のセバスチャンは、従兄弟なんです。お互い違うソウェト(黒人居留地)に振り分けられて、それっきり。20年ぶりに再会できました。ンキレイの一族は、彼で最後になります。セバスチャンは、本当はライケケという名前です。彼は、あたしの気持ちをちゃんと分かってます。大丈夫です」
目を真っ赤にしながら、暗幕をくれたライケケ。
彼なら、この後もタイラ夫妻とプリンセス・パールを大切にしてくれるだろう。
ずっと熱の塊のようなプリンセスを抱いていたので、手放した瞬間から、寒い。
胸が、お腹が、腕が、冷えていく。
――あの柔らかな温かさに、ずっと触れていられたらよかったのに。
メリーは首をひと振りして、車を降りるべく、体をずらした。