第五章 第九幕:明智
揺らぐことなく語り継がれる名
政の裏切り者として
聡明な最高の知将として
誰もが一目置く戦場の危険因子
その血は違えることなく――。
暫らくすると、床を強く擦る音が近付いてきた。
本来ならば叱りを受けるところだが、緊急時である今は咎める者はいない。
その男は滑るように部屋の前に留まると、片膝を付いて深く礼を取った。
「殿、失礼致します!大事に御座います!」
荒くなった呼吸を整えながら、現れたのは体格の良い武官の男だった。
ただし、とてもではないが正装とは言えない服装だった。
その見た目から、余程急ぎで駆り出されて来たのだと窺えた。
「貴様っ!殿の御前で何という格好だ!」
「否、今は構わん。それよりこの騒ぎは一体何事だ!」
重鎮の集結した場所に一人でいる上に、荒げられた声に武官は怯えを見せる。
だが震えを叱咤して、詰まらせながらもそれを声にした。
「と、鳶爪に御座います!」
思わぬその名に部屋がざわつく。
それは知らぬ者はいないと言えるほど、今最も話題となっている狂人の名だった。
襲われた相手は今のところ男のみだが無差別。盗られた物もなく、ただ殺しを愉しんでいるようなやり口。其処から殺人鬼かと思いきや、気紛れで生かされている者もいた。
己がまるで神であるかのように、生死の裁きを下しているのだ。
本来ならば赦し難い行為。だが、この乱世では在り得る狂人の一人としか言えなかった。
「鳶爪……?」
そんな中、一人だけ理解していない殿が訝しげに聞き返した。
義政は政に対してあまり興味を持たず、民がどうなろうと知ったことではない。
興味があるのは金と権力と戦だけ。
そう公言しているために誰も伝えておらず、義政は知らなかったのだ。
「殿。鳶爪とは近日城下に現れた辻斬りに御座います」
義政に対し、一人が極めて冷静な口調でそう教えた。
あまり重鎮が騒ぎ立てては、部下への示しもつかず、殿に不安を与える事になる。
それが解っているからこそ、重鎮達が落ち着くのは早かった。
「報告の続きを」
「はっ!突然門を破り、現在城内の石庭にて乱闘騒ぎをしております!」
報告に来た武官は、未だ興奮と恐怖が醒め止まないのか息が荒い。
冷静さを欠いたまま声を張り上げて宣言していく。
今口走っている内容の危うさにも気付かずに。
「被害は?」
「庭にいた武官と門番が負傷!未だ交戦中で」
「侵入を許した挙句に、たった一人相手に負傷だと……?」
ふいに地を這うような低い声が報告を遮る。
発信源は紛れもなく際奥に座する殿、義政のもの。
声音の硬さに、武官はびくりと肩を硬直させて思わず顔を上げる。
其処にあったのは、睨むように厳しい目だった。
一気に自分の口にした言葉を思い返し、さぁっと血の気が引いて青褪めた。
「っ!も、申し訳御座いません!」
「余を護るのが貴様等の役目であろう!……弱者はいらぬ。斬り捨てよ」
残酷な最後の台詞に、部屋が一瞬のうちに凍り付いた。
だがこの場にはその命に逆らうような者はいない。
絶対忠実を示しているからこその重鎮なのだ。
武将の重鎮である男が、率先してゆっくりと刀を抜く。
手入れの行き届いた光り輝く刃を見た武官は尻餅をつき、恐怖で更に顔を白くさせた。
「ひっ!お、お待ち下さい!殿っ!」
「言い訳は無用だ!この者を討て!」
慈悲のない叱責が飛び、武将の刀が無情にも振り上げられる。
武官はどうにか逃れようと必死に懇願した。
「どうかお許しを!今より必……!?」
空と肉を裁つ音の後、男の言葉が途切れる。
赤い鮮血が飛び散り周囲を汚す。
武官は袈裟懸けに大きく斬り裂かれ、既に絶命していた。
「安心せい。余は慈悲深い。家族も、同じく失態を犯した弱者らも、後に送ってやろう」
義政は死骸を見下ろしてそう言うと、無邪気な笑みを浮かべた。
本当にそれが正しい事なのだとでも言うように。
彼にとって人は殺して当然のもので、自分以外はどうでも良いのだ。
自らに危険の及ばない殿という立場が、子供のようなその性格を生み出していた。
そして意に逆らおうものなら、即刻文字通りに首が飛ぶ。
「義政様、恐れながら……」
生きるために誰もが口を挟めない中、一人が批判する声を上げた。
振り向いた其処にいたのは、重鎮の中で最も歳若い軍師だった。
「何だ。余に歯向かうか、明智よ」
苛立たしく義政が口を開く。
だがそれを何とも思っていないかのように、明智はいつもの笑みを湛えたままだった。
明智は否と短く答え、ただと進言した理由を述べ始めた。
「弱輩とて武士を殺めれば戦力が落ち、民を殺めれば供物が入らなくなるかと……」
確かに、紡がれたのは尤もな事だった。
全員が反論できない完璧な訳だ。
だがこれで殿の機嫌を下げてはならないと、思いつく反論を弱々しく口にした。
「だ、だが謀反の恐れがあろう」
「不安要素は根絶やしにすべきだ。そうだろう、明智殿?」
誰もが何としても殿の意に沿った答えに戻そうと躍起になる。
だが、明智はふと笑声を漏らした。
「不安が何処に御有りですか?謀反の輩などに殺られる殿ではありますまい。何より貴殿ら東国最強の重鎮が就いているのですから」
合わされた視線が、自信がないのかと言っているかのように射抜かれる。
己の実績を信じているなら、不安がることも動揺する必要もない。
下手に奔るのは弱いと言っている証拠だと、明智は言っているのだ。
「明智よ、それはお前も含めてか?」
「勿論に御座います」
ふいに義政がそう静かに問い、明智はすぐさま是と返した。
そして暫し間を置き、鷹揚に頷いた。
「いいだろう。では此度の斬り捨て采配はお前に任せる」
「殿……!」
「それから侵入者の件もお前が収拾をつけよ」
非難の声を義政は手で制し、言を続けた。
その言葉に含まれる意味は二つ。
一つは、騒ぎを抑えて部下の采配をする事。
もう一つは、鳶爪を捕らえて義政の前に連れて来る事。
明智はそれを汲み取り、頭を垂れた。
「御意。では私はこれにて。一旦、御前失礼致します」
一度礼を取ると明智は立ち上がり、喧騒のする方へと身を翻す。
そして颯爽とした足取りで、その場を後にした。
残されたのは一人の武官の死骸と、重鎮たちと義政。
彼の背を見送って、重鎮達は剣幕を強めて一気に捲くし立てた。
「殿っ!明智をあまり信用なされますな」
「分家と言えど、明智光秀の号を継ぐ者。立派に裏切りの血を引いているのですぞ?」
本物の明智光秀は歴史に名を残す名軍師だ。
戦いの際に、本来の主を裏切って謀反を起こしたという経歴がある。
だが逆に討たれて一族は皆滅びたとされていた。
そんな中に現れたのが、現在の明智家だ。
分家と言われるほどに薄い繋がりだが、確かに信念とその血だけは継いでいる。
そして現在の明智光秀が生まれたのだ。
その名を襲名できるほどに賢く聡明で、一族にしてみれば誇らしく、他家からしてみれば簡単に危険因子と言える、ある意味異端な男児が。
実際に若くしてその才能を見せ、畏怖を感じさせた。
「それに終始笑みを絶やさずに……。腹の内では一体何を考えておるのか」
唯一、この東国に仕えていることが幸いと言える。
若くに殿の左腕にまで上り詰め、重鎮へと加わったほどの男だ。
光秀の号からも力量は確か。
加えて、残忍で冷酷。そして常に冷静さを失わない。
動揺をまるで見せずに右腕の存在を容易に切り捨てた彼の様子からもそれが窺える。
だが危惧をする配下に対し、義政はふと笑みを漏らした。
「何、心配ない。此方には人質がいるのだから。のう?」
「人質?……ああ、奴の事ですか」
初めはわからなかった重鎮も、思い出してにたりと嫌な笑みを浮かべた。
もう大分過去のこととなっていて彼らは忘れていた。
ただ一人、明智が心を乱した親友と呼ぶ人物がいたことを。
珍しくも気を乱す彼を見て、これは使えると人質のように取っていたのだ。
彼は未だ覚えていて、これより先もきっと忠実に働くだろう。
最早、その人質が死骸と化しているとも知らずに……。