第五章 第七幕:覚悟
認めて欲しい
僕が君の傍にあることを
君の本質を知ってしまったから
共にいられるのなら
僕は――。
突然のことに雅は目を見開いた。
眼前には片手に持った扇を此方に伸ばし、冷酷な目をした明智がいた。
先程とは打って変わって、空気が肌をぴりぴりと鋭く刺し、冷たさと重さを持つ。
初めて身に受けるが、これが殺気と言うものだろう。
そんな殺気を滲ませる彼から目を逸らせず、指先まで雪を触った時のように血の気を失っていく。
胸に宿るのは今や恐怖心だけだった。
顔面蒼白の雅を見て、明智はすっと目を剣呑に細めた。
「本来なら、これで貴方は一回死にました」
「……っ!」
淡々と述べられた明智の言に、雅は息を呑む。
顎の下にあるのは冷たい鉄の感触。
見えてはいないが首がちりりと熱く、僅かに斬れたことを主張していた。
殺気に萎縮し、痺れたように身体が動かない。
明智の言うように後もう少し踏み込んで払われていたら、雅の首と胴体は今頃離ればなれになっていただろう。
明智は鉄扇で雅の顎を押し上げ、顔を上に向かせた。
「生は難く死は易し、とはよく言ったものだと思いませんか?」
よく知れた故事に雅ははっとした。
死を眼の前にしたことで、その言葉がより身に沁みる。
苦しさに耐えて生き抜くことは辛く難しいことであり、苦しさに負けて死を選ぶことは簡単なこと。その言葉通りの現状が今の雅だと明智は述べたのだ。
彼の動きすら見えず、死は本当に一瞬のこと。次こそは殺される。
そう思っていたが、明智はふと殺気を納めると鉄扇を退けた。
「……殺さ、ないの?」
更に数歩下がるという思わぬ動作に、雅は目を瞬かせた。
無礼の数々に、死を望む自分。
あのまま首を斬られるものとばかり思っていたのだが。
そんな思考を巡らせていると、閉じた鉄線を口元に宛がって悪戯な笑みを浮かべた。
「言ったでしょう? 死ぬのは簡単だと。そんな楽はさせてあげません」
罪を感じているのなら、辛く生きる道を行け。
彼から突き付けられたのは、心に苦痛を伴う茨道だった。
だが、彼に対して怒りや死なせてくれないという恨みを感じることはなかった。
明智は更にこれだけは訂正させて頂きますが、と前置きをして口を開いた。
「自分も殺しは嫌いですし、慣れてなどいませんので悪しからず」
そう言いながら彼が浮かべたのは、少し痛みに耐えるような苦笑だった。
其処で漸く自分の言った暴言を思い出した。
一番初めに、噂で聞く印象とまるで違うと思ったはずなのに、自分は彼に何を言ったのか。
もういつもの笑みで隠されてしまったが、先ほど見た表情は悲しさを物語っていた。
「なら、どうして……」
そう問わずにはいられなかった。
先に見せた表情こそが本物だと、何故か胸中で確信していたから。
人を殺したくないなら、何故殺す道を選んで此処にいるのかと。
雅の問いに気ぶる様子も見せず、明智は少しの逡巡の後に静かに呟いた。
「端的にいうなら、生きたいから……ですかね」
その答えは本当に簡潔なもので、雅は目を丸くした。
そんな反応に明智はくすりと笑った。
「先程言いましたよね? 罪悪が解っているなら大丈夫だと」
「ああ。でもそれが何を」
「この城内で罪の意識を持つ者は少ない。大半が愉しむか、気付かないふりをしています」
遮るようにして、被された言葉に雅は瞠目した。
そんな奴がいるものかと思いたいが、此処にいる奴らから否応なしに肯定させられる。
一心不乱に皆が命に従って人を殺して行くのが日常なこの地。
殿は例外として、彼らが刃を抜くのは――。
「何故か、わかりますね?」
「死ぬのが……怖いから」
その言葉はすんなりと口を突いて出てきた。
それが人を殺める武士達の実態。
まるで機械のように動く彼らは、その心の内で死を恐れているのだ。
止まれば殿に殺され、出陣しても相手に討たれれば死ぬ。
生きる方法はただ一つ。
相手を殺すことだけ……。
「皆生きたいんですよ。家族もいる。殺さねば殺されるから仕方ないと刃を抜く」
勿論自分も、と明智は鉄扇で己を差した。
ただそれも全員がというわけではない。
中には殿に賛同して、心の底から人殺しを愉しんでる不逞の輩もいる。
だが、それは少数だというのが隠された現状だ。
「でも僕は、傷付けたくもない」
今のように悔しさに握り締めた拳で、己が傷ついたとしても。
つい俯くと手に暖かな温もりを感じて、目をやるとそれは明智の手だった。
「ならば前を向きなさい。貴方はきちんと受け止められる人です。本当に悔やんでいるのなら、貴方が殺したという人達に胸を張れる生き方して責任をとって下さい」
「責任……? 生きることで?」
少し顔を上げて相手を伺い見つつ、掠れる声を絞り出した。
彼はそうですと頷き、雅の拳をゆっくりと開いていく。
そして、開いた掌の上に件の着火装置を置いた。
「これを作ったのは貴方です。新たに手を加えて改良できるのも、消滅させられるのも、貴方だけなんですよ?」
「どっちも誰にでも出来るじゃないか」
何を言うのかと思ったら、と雅は少し落胆した。
設計図さえあれば、誰の手で何度でも複製することが出来るではないか。
だがそれでも明智は笑顔を崩すことなく、話を続けた。
「貴方の言うことも尤もです。ですが、それは基盤通りに作るだけ。奇抜な発明で有名な雅の作品を正確に理解している人なんて居やしません」
それは褒めているのか、貶しているのか。
笑顔が標準装備の明智は、嘘も誠もその裏に隠してしまうため、本音が分からない。
雅には貶しているように感じられて、彼の発言に少しむっとした。
その様子を見た明智は、わざとらしくおやっと呟き鉄扇で口元を隠した。
「自分の認識違いですかね?雅殿の作品は、他人が簡単に理解できるほどちゃちな造りをしているんですか?」
「そんなわけがない!」
問われた事に対し、雅は考える間も置かずに答えていた。
後になって考えてみれば、あれは明智の安い挑発だった。
しかしこの時は感情の赴くままに、手にした着火装置を突き出していた。
「そんなすぐに理解できて堪るか!僕がこれにどんなに時間を費やしたか!」
「なら大量普及は難しいはずです。貴方は今度から欠陥品を作ればいい。天才なら?」
「可能だ!って、は?……欠陥、品?」
乗せられて答えてしまったが、聞いてはならない言葉に雅は思考を止めた。
彼は確かに欠陥品を作れと言った。
無意識に問い返したが、彼が頷いたのがいい証拠。
唐繰師たるもの完璧でなければ意味がないし、それが認められることが誇りでもある。
彼はそんなこと分かっているだろうに何故と思っていると、彼はにこやかに笑った。
「自分が言っているのは、完全なる欠陥品です」
「完全な欠陥って、それはどういう……」
ますます分からずに、雅は怪訝そうに眉間に皺を寄せる。
明智は面白そうに片目を眇めた。
「ただの頓智ですよ。一見すると完璧な成功品。なれど、すぐに壊れる欠陥品」
さて、それは何でしょうね?
雅は漸くその意図に気付いて、眉を顰めた。
「気付かれないような細工をしろってこと……?」
信じられないと思いながら言葉にすれば、無言の笑顔で肯定を返された。
完璧な中に誰にも気付かれない、雅にだけ解ける欠陥を。
一つある手を加えれば破壊できる仕掛けを施せと明智は言っているのだ。
若しくは、打ち破れる術を自ら考案して妨げろ、と。
傷付けたくないと思うなら、自分で編み出してしまった殺戮兵器の打開策を考える。
それは製作者である雅にしか出来ないことだ。それも。
「生きている時の僕にしか出来ない……」
もう同じ過ちを繰り返さないための布石を、生けるこの腕で。
死んだ人達の命も無駄にはしない。
犠牲者から知恵を汲み取って、これからの被害者を少なくするために。
雅は決意を示すように、手にある元凶の唐繰を握り締めた。
「唐繰師、雅。心痛解るは優しき証拠。未来を見据えよ。過去を台にして高みへ」
「明智殿……」
「それが現段階で貴方に出来る、唯一の供養です」
視線を投じれば、微笑みを向けられた。
彼はとても不思議な存在だ。
挑発するような台詞もあったが、彼の本意はその裏に隠されている。
噂など所詮噂でしかないのだと感じざるを得なかった。
事実、自分の心を今その言葉で救い上げてくれたのだから。
皆は話そうともせずに上辺だけを見るから気付かない彼の本質。
雅は本当の一面を知れたことに、初めてくすりと彼の前で笑みを漏らした。
「どうかしました?」
「いや、僕って不器用だなって思って」
勿論、からくりを作ることがではない。
人間と接することにおいてだ。
少し悲観した言い方をすると、静かな柔らかい声音が流れた。
「自分は、人間らしいと思いますけどね」
思いにも寄らなかった台詞に、雅は驚きで目を見開く。
すると明智はふわりとした自然な笑みを浮かべた。
「不器用でいいじゃないですか。完璧な人なんていないんですから」
「……うん、そうだね……。そうだ……」
明智の言葉は難なく心に浸透していき、雅は何度も頷いた。
城に来てから自分だけを信じ、誰とも相容れることなく過ごしてきた。
話を聞いてくれる人も、諭してくれる人も、理解してくれる人も、居るはずがないと決め込んでいたから。
不安な時は、自分は完璧なのだと自身に言い聞かせていた。
それが奇人変人やら自信過剰やらと言われる所以だ。
「有難う、光秀殿。僕は……生きるよ」
生きて救える唐繰を生み出す。
たとえまたそれが人を殺すことに繋がったとしても。
意外な所に支えとなってくれる人を、また支えたいと思える人を見つけたから。
僕はもう大丈夫、そう決めた。だから……。
「だから……生きる為に、僕に身を護る術を教えてくれないか?」
強く望んで雅はその言葉を口にした。
この戦乱の世を生きるには、それくらいの術は必要だと思ったから。
周りに目を向けていなかった事と今まで運が良かっただけで、此処に留まるのなら城内も戦乱。
本当はいつ殺されるかわからない。
一つの失敗や、生活での油断が死を招くこととなる。
此処は、最も死に近い地なのだ。
明智は予想打にしていなかったのか驚きを見せたが、すぐにすっと表情を引き締めた。
「容易な事ではありませんよ? それこそ己の血を流すことも、直接その手を染めることにも繋がるかもしれません」
寧ろ、自らそれに近付くことになる。
誰も傷付けなくないと思っていても、武の力を有するとはそういうことだ。
明智は緊張感を張り巡らせ、真っ直ぐな視線で雅を射た。
「自分は命で葬ってしまった方々の分、生き抜いて行こうと日々思っています。貴方にはその覚悟がありますか? これ以上多くの亡き魂を背負って生きていく覚悟が……」
下を向かずに上を、未来だけを見据えて。
死んだ、もしくは殺した人達の怨恨を受け止めて、生き抜く覚悟があるのかと。
そう聞かれ、あると答えればそれは嘘になるだろう。
実際心は定めていても、体は怖くて震えているのだから。
それでもと、雅は自分の体に叱咤して明智を強く見つめた。
力が欲しい。
己が生き延びるために。
そして……、明智光秀と居るために――。
暫らく無言での拮抗が続き、やがてそれを崩したのは明智の方だった。
「はぁ……。意志は固いみたいですね」
少々呆れたような溜息と共に、緊迫した空気は霧散される。
彼の顔に浮かべられた表情は、仕方ないと言っているかのようだった。
それにぱっと顔を明るくし、それじゃあと身を乗り出すと、明智はくすりと苦笑した。
「その願い、聞き受けましょう。但し、自分の教えは厳しいですよ?」
「っ!ありがとう!光秀殿!」
此処での唐繰師のあり方を、遅ばせながら理解した。
これからが本当の第一歩目だと、雅は決意を改めた。
その様子を静かに眺めていた明智だったが、ふとあることを思い至って、にやりと一瞬意地の悪い笑みを浮かべた。
雅はそれに気付かず、見たのは少々わざとらしい哀愁の笑みだった。
「まったく……初対面で自分に素を出させた挙句、上官に対して気安く戦いの教えを乞うなど貴方が始めてですよ」
溜息と共に吐き出されたそれに、雅の中で時が止まった。
頭に残ったのは“上官に”からの言葉のみ。
何度も反芻し、やがて血の気がさっと引いた。
今までの無礼としか言いようのない振る舞いや発言が、走馬灯のように駆け巡る。
その後、すぐさま謝り倒したのは言うまでもない。
雅が明智に遊ばれたのだと知るのは、もう少し先のことだった。