第五章 第三幕:呼出
自身が辛い時も省みずに
いつも生きる道を繋いでくれる
その優しさを知っているから
だから救いたいんだ
僕の中で親友である君を――。
返す言葉なく口元を押さえた明智に、雅は目を眇めた。
「ほら、ちゃんと知ってるだろ?僕達下人はそれが一等顕著なんだ。明智光秀が自身で此処へ足を運んでる。それだけで皆分かってるんだよ。権力に囚われていない事を……」
雅は腕を組んで、当然だというように自分の言葉に頻りに頷く。
彼は知らないだろうが、下人の中には明智に救われて其処にいる者も、明智がいるから危険だと言われる東のこの地に留まっている者も少なくないのだ。
明智は他人事なのに誇らしげに頷く雅を見やり、一つ息を吐いた。
「私が異質な上官であることは分かりました。ですが、それと聖人は関係ないでしょう」
聖人とは、智慧が広大で慈悲深い人、また高い学識・人徳や深い信仰をもつ理想的な人を指し示す。
高い学識はあると自負しているが、その他は当て嵌まらないように思う。
明智は一つ息をつき、重い腰を上げた。
「聖人は物に凝滞せず、と言うでしょう。自分は物にとことん拘りますよ」
そう言うと明智は背を向けてゆっくりと歩き出し、雅もその数歩後を追った。
全てを見通して組み立てているのは、人を殺す為の策。
完全なる冷徹さがあれば良かったのだが、何分自責の念が強い。
故に何事も捨てきれずに、今もなお引き摺っている。
自分にとってどんなに不利な状況となろうとも、それを変えることは出来なかった。
だが雅はそんな哀愁を浮かべる明智を見て、ふと笑った。
「知ってるさ。でもそれだからこそ、皆が付いてくる」
「……矛盾してません?」
「それはただの楚辞ってこと!そのうち分かるさ」
明智が立ち止まって訝しげに聞くと、一人納得したような返答が返された。
雅にとっての聖人は、数々の作品が齎した虚言の寄せ集めだということだろうか。
神を信じている者ならば冒涜しているように聞こえる言葉だ。
そのように虚を唱えるならば、例として挙げなくても良いだろうにと思ってしまったのは致し方のない事だろう。
だが彼にそれを言うのは無意味だと分かっている為、明智は諦めの息を吐き出した。
「あ、明智様っ!」
ふと遠くから名を呼ばれて、二人同時に顔を上げる。
此方に向かって、息を切らせて走ってくる一人の文官が見えた。
焦っている様子から、かなりの時間探していたことが窺える。
近くまで来た文官は滑り込むように礼をとった。
「どうしました?」
「殿がお呼びでございます。至急参るようにと……」
逸るように紡がれたその言葉に、雅は目を見開き、明智を仰ぎ見た。
だが、当の本人は動じることなく、その表情も変わらない。
「わかりました。早急に向かう旨を伝えて下さい」
言伝を聞くと、文官は御意と深く礼をとって、また城内へと駆けていった。
文官の背を見送りながらも沈鬱な空気がその場に流れる。
雅は隣で何かを考えている己の自称友に、静かに名を呼びかけた。
「……光秀殿。僕も、行こうか?」
共に、殿の下まで。
何の話があって呼び出されたのか容易に想像が付いた。
紛れもなく狐黒の裏切りについて、明智にそれを促した容疑が掛かっているのだろう。
任務は殿の命に従っていても、狐黒が在籍しているのは明智の配下であることは、周知に知れた事柄である。
無実だとしても尋問や、何らかの処罰が下されるかもしれない。
下手をすれば拷問、最悪処刑も考えられる。
義政は簡単に噂に左右され、一度信じればどんな弁解も聞こうとはしない男だ。
それを心配しての事だったが、笑い声によってその重い空気は霧散された。
「雅、子供じゃないんですから」
明智はくすくすと笑い、雅は心配しているのにと顔を赤らめて頬を膨らませた。
明智は一頻り笑った後、いつもの余裕のある笑みを見せた。
「心配は御無用。私を誰だとお思いですか?」
本当の名前は知らないが、今は明智光秀と名乗れる程の頭脳の実績者。
名前負けすることなく、彼の口八丁に対抗できる者はいないに等しい。
それだけ頭の回転も速く、多くの勝利を弾き出した戦略の功績が信用を築き上げ、自力で殿の右腕にまで上り詰めた男だ。
そんな優秀株を切り捨てるなんて勿体無いことは、どんな奴でもしないだろう。
雅は其処まで考えていらぬ心配だったと頷き、人差し指を立てて明智に突き出した。
明智は怪訝そうにそれを凝視し、雅は真剣な面差しで口を開いた。
「なら一つだけ……。忘れるなよ。君には天才が背後に付いてるって事を」
「何ですか、それ……」
明智は少し呆れたように目を細める。
そんな明智を見て、雅はにやりと笑った。
「この天才がいれば怖いものはないって事さ! 君は君らしくいれば良いんだからね!」
自信満々で胸を張って言い切った雅に、明智は目を見開く。
どうすれば此処まで自意識過剰になれるのかと。それに……。
明智はくすりと一度笑って、踵を返すと足を踏み出した。
「すみません。もう忘れました」
「なっ!ちょっ、こらー!!」
背後から罵倒が聞こえるが、手を一つ振るだけで振り返りもせずに足を進めた。
明智は角を曲がったところで足を一旦止め、空を仰ぐ。
「君は君らしく、ですか。それが一番難しいんですよ……」
雅の言葉が心に温かく染み渡る。
だが逆に辛く、締め付けるような感覚に見舞われた。
明智は胸元を押さえて、深く息をついた。
これ以上、自分の近くに踏み込ませてはいけない。
明智はそう言い聞かせて、これから起こる一つの修羅場に向けてまた歩き出した。
雅は去っていく明智の背を見送り、姿が見えなくなっても其処に留まっていた。
次第に色々なものが込み上げてきて、深い溜息を吐いた。
明智には何を言っても、ああやっていつもはぐらかされる。
此方が幾ら心からの本心を伝えても、壁を作り、拒絶されるのだ。
今まで何度も救ってくれた、その恩を返したいというのに。
『不器用でいいじゃないですか。完璧な人なんていないんですから』
初めて会った時も、僕の言うことを受けていれてくれた。
本当は自分の方が辛いくせに。
裏にひた隠して、一人で何でも解決させようとするのだ。
それが分かっているから、何も出来ない自分がもどかしい。
雅は哀愁を浮かべ、拳を密かに握り締めた。
「君にも、誰も完璧なんて望んでないんだよ?」
その呟きは誰に聞かれることもなく、乾いた風に流された。
彼との距離は虚しくも出会い当初から変わらないまま。
雅は昔を想いながら柱に寄り掛かり、瞳を閉じた。
唐を大事そうにその胸に抱きながら――。