第五章 第一幕:謙遜
夢を笑わないで聞いてくれる
殺戮兵器でなく自分を見てくれる
そして存在を受け入れてくれる
だから
大好きなんだ――。
明智はひやりとした廊下を踏み締めて、袴を軽やかに捌き、滑るように足を進める。
道を行けば途中立ち止まっては礼をする下位者が多々いるが、会釈を返すことはない。
この東国一の城内で己の高い階級からはそれが普通だった。
勿論、自分より上の者達には頭を下げるが、今居る兵舎になど来るはずもなかった。
彼等は権力という甘く裕福な檻に縋り、己の手を汚すということもしない。
護摩擦りにだけ力を注ぎ、下の現状を見ようともしないのだ。
それを思うと、こうして頻繁に訪れている明智は異端なのかもしれない。
たとえそれが仕事の為であったり、一人の場を探す為であったとしてもだ。
予測の出来ない来訪者に思わず礼が遅れて慌てふためく者も多々いるが、それでも咎めることなく我関せずで歩調を速め、明智は思考に耽った。
部下でもある忍、狐黒が捕まったという報告を先刻受けた。
逃げ遂せる事を願っていたというのにだ。
彼の足ならば、本来捕まるなどという失態は犯さなかっただろう。
予測のできない事態が起きたのか。はたまた、何か逃れられない事情があったのか。
何にせよ彼が裏切り者となり、処刑されることは免れない事実だ。
今の旗頭が軽い刑で済ませるわけがない。
「くそっ……!」
苛ついた気持ちに任せて、太く聳え立つ立派な木の幹に拳を打ちつける。
そうすることで何かが変わるわけではないと分かっているが、溢れ出る普段は隠し通している感情を抑え切れなかった。
その場所には他に誰もいないため、問題はない。
明智がやって来た場所は誰も近付かない、静かで考え込むには最適の場所だった。
報せを聞いてから足が勝手に此処へと向かっていた。
自分はまた護れずに大切な者を失うのか。
明智は苦渋の面持ちで、木に付いたままの手をきつく握り締めた。
「今日はまた随分と荒れてるじゃないか、光秀殿」
ふいに掛けられた若い男の声に、明智は眼を見開いた。
咄嗟に護身用の懐剣に手を宛がい、声ある方へ警戒心を持って振り返る。
先程の自分の姿は弱点になり得るものだ。
場合によっては、目撃者を滅しなければならない。
だが、明智は姿を認識した瞬間、その考えは消し飛んだ。
其処にいたのは、眼が隠れるほどに前髪を伸ばし、肩より少し長い癖のある髪を首の後ろで一つに螺旋で括り止め、肩に一体の人形を乗せ、近くの木にもう片方の肩を預ける姿勢で此方を見据える、かなり変わった井出達の青年だった。
「僕の気配に気付かないなんて、注意力散漫だよ? いつも慎重な君が珍しいね」
「雅……」
名を呟くと、そんなに驚くのも珍しいと唯一見える口元に笑みを浮かべた。
――雅。
彼は屋敷内で武器開発を行っている者の一人だ。
雅という名は本名ではなく“雅号”と呼ばれるもので、彼が格好良いからと勝手に付け、必ず自作に明記している名である。
それはある策略の下での行いでもあるが、その真実を知るのは本人の他に明智のみ。
今では筆名の方が広く伝わり、本名で呼ぶ者はいないほどだった。
「貴方のような奇人変人の所へ来る人なんて高が知れてますよ」
「ちょっ、失敬な! 僕が発明の邪魔だから来るなと言ってるんだ!」
溜息混じりに肩を竦めて言って見せると、雅は剥れて怒鳴り返した。
人が来ないことに対してだけで、奇人変人というところは否定しないのか。
そんな子供のような雅を見て、明智は思わず苦笑を漏らした。
雅と話すことは少なくはなかった。
この場を見つけてから数日後、彼に話しかけられたことから始まる。
明智が年上で、権力が上だと分かっている上で気さくに敬語も何もかも素っ飛ばして、ただ殿と敬称だけは付けて普通に接してくる彼に、興味と少しの好感を持った。
下位の奴等のように怯えるでも媚び諂うでもなく、上位の奴等のように威張り散らすでもない。
ただ変人の一方的且つ断片的な評価を貼られ、誰も彼に近付こうともしなかった。
この場所に他に誰もいないのも、余程の用がなければ人が来ない為だ。
礼儀知らずではあるが、珍しくも純粋で、自分の意志をしっかり通した男であると思う。
「ところで雅、その肩の人形は何です? 新しいですね」
「よくぞ訊いてくれた! これは茶を運ぶ絡繰人形で、唐と言う!」
肩に座るように居つく人形を差して、物珍しさに尋ねる。
すると雅は胸を張って、自慢するように言い放った。
その物言いにくすりと笑って近付き、人形を軽く突く。
「この子はどうやって動くんですか?」
明智が興味を持って問うと、雅の顔は見るからに嬉しそうに笑って華を散らす。
まぁ座れ、と言ってその場に座り込む雅に苦笑しつつも、それに倣って向かいに座り込む。
座ったのを見計らって、彼は嬉々として語り出した。
彼を機械にしか脳がない馬鹿だと蔑む者も多く居る。
だが、彼の腕と発想力はまさに天才と呼ぶに相応しいものだ。
時たま自分で己の事を天才と言い切る為に、逆にそう思われないだけで。
「で、これは重さに反応するようになっていてね。唐の手から荷を取ると」
「ほう、止まるわけですか……」
「薇式なんだ。また置けば動き出す。でも方向転換を自分で出来ないのが難点かな」
そう言いながらまた荷を手に置けば、からからと動き始める。
進む人形は両手の上で立てる程の大きさで、覚束ない動作もまた愛くるしい。
明智は唐を手に取って、その仕組みを垣間見た。
全てが理解できるわけではないが、雅に教わって少しの知識はついている。
「薇が一つですか。中の歯車を増やして、薇の切り替えが出来ればあるいは……」
「そうか! 同じ所に針を落とすんじゃなくてずらせれば良いのか!」
ぽつりと呟いた明智に対し、それがあったと雅は声を張り上げた。
そして徐に明智の手を取って力強く、上下に振った。
「さすが天下の明智光秀様! 考えが鋭い!」
「明智は関係ないでしょう。考えられるのは貴方の教えがあってこそですから」
眼を輝かせる雅に、明智は苦笑をしつつそう応える。
その答えが不満だったのか、雅はじとりと半眼で見据えた。
「謙遜な奴だな。あの自信に満ちた明智光秀とは別人じゃないか」
「おや、自分臆病ですよ? 群から逸れた小鹿ちゃんなんです。自分の専門分野以外では」
そう、戦や人を殺すための戦略を練ること以外では。
誰一人守れもしない。そういう頭も持たず、人を殺める前に一度は震える臆病者。
自分と同じ生きた人を殺すことは、何度やっても慣れるようなものではない。
そんなことに慣れるのも嫌だが、慣れればどんなに気持ちが楽なことか。
そんな矛盾した考えを思い、明智は自嘲した。
「うわぁ、小鹿って似合わなぁい」
ふいに呟かれたその言葉は妙に間延びをしていた。
そんな空気にそぐわない台詞に、明智は片目を眇めた。
「上官に向かって失礼ですねぇ。まぁ、言ってから自分でも思いましたけど」
そう言って明智が苦笑を漏らすと、雅もつられて笑みを漏らした。
明智が小鹿であるのを想像すると、明らかに可笑しい。
二人は互いにくすくすと一頻り笑った。
「光秀殿って優しいよなぁ」
「何です? 藪から棒に」
ふいに突拍子もないことを言い出す雅に、明智は怪訝そうに聞き返した。
自分は決して優しくなどない。
本当に優しい人間ならば、誰かを犠牲にしたり、殺めたりなどしないだろう。
雅は徐に人形を抱え上げて、慈しむように優しく撫でた。
「優しいんだ。……僕のこんな人形を褒めて、理解しようと話を聞いてくれる」
「別に本当の事を言っているまでです。技術面は自分の専門外なことですが、未来が尽きない話は聞いていて面白いんですよ」
明智は今まで聞いた話を思い出して、ふと笑った。
こんなに数々の物を作り出すことを、本当に凄いと思うのだ。
作品の大きさも用途も際限がなく、掌の人形から兵器となる大砲にまで及ぶ。
今まで彼に聞いたものは全てが想像もつかないものばかりだった。
人が夢物語で終らせる所を、彼は本当に成し遂げてしまうのだ。
自分が知らないことを知るのは、新たな自分に出会えるようで楽しい。
根っからの発明好きな雅に対し、明智は根っからの学問好きだった。
そう語ると、雅は人形を抱き締めて、顔は見えないが笑った気がした。
「それが優しいって言うんだよ。誰も僕の研究成果を見ようとしない。あいつらが求めるのはこんな人形じゃない。人を殺す兵器。ただ…それだけなんだ」
明智はその言葉にはっと息を呑んだ。
上の奴等に必要とされるのは、民を押さえつける為の絶対的な力。
財力。知力。武力。そして、殺人兵器――。
一瞬顔を伏せているのは泣いているからではないかと思う。
だが、彼が顔を上げるとそのような痕はなく、此方を向いて寂しそうに笑った。
「これが東国の政だって分かってるよ。此処へ仕官したのは僕の意思だからね。でも、人を殺して何になるんだ……っ」
雅の声は悲痛さを帯びて、叫んでいるかのようだった。
この屋敷では重圧に耐えられず、こうなる者が後を絶たない。
精神が崩れ、壊されていくのだ。
純粋であれば純粋であるほどに一層顕著に発現する。
明智は腕を伸ばして、自分から見れば未だ幼い雅の頭を撫ぜた。
「何にもなりませんよ。殺せばただ朽ちるだけ。人ではないただの肉塊と成り果て、土へ還る。人は生を貰い受け、五感と五体と心という感情を持って生きている。殺して良い人間なんていません。ただ……」
明智は其処で言葉を止める。
この先は此処で言ってはならない事だ。
だが、雅には先に何が続くのか伝わったのだろう。
明智を見ると、くすりと笑った。
「やっぱり優しいや。ねぇ、僕の秘密聞いてくれない?」
「自分なんかが聞いても良いのなら、どうぞ」
真剣な物言いに、明智は軽々とした口調で返す。
それは話し易いようにとの、自然に身についた口上の策だ。
秘密を話す時、あまりに重く聞かれると返って話し難くなるものなのだ。
雅も少し楽になったのか、ぽつりと話し出した。
「僕さ……、本当はもっとこういう人形を作りたいんだ。人の助けになる人形。殺す為じゃなくて生きる為に必要で、救いになる機械を……」
表情からそれが本心であると分かる程に溌溂としていた。
もう人殺しの道具は作りたくないのだと、暗にそう言っているのだ。
明智はその考えに、本当の意味での微笑みを浮かべた。
「良いですね、それ。全てが終わったら、いっそのこと店でも開きますか」
特に“唐”は子供達が喜びそうです。
唐を弄りながらそう言うと、雅は驚いたように目を見開いた。
次いで嬉しそうな笑みに変わる。
「ありがとう。光秀殿……」
そんな彼に明智は同じく笑みながら、どう致しまして、とだけ応えた。