第一章 第二幕:冬山
もう少し…。
もう少しで自分という存在が
全ての人の記憶から完璧に
消える――。
倭八十四年。
東と西の国境である山を一人の少年が登っていた。
荷の詰まった籠を背負い、重たいのか肩からずれ落ちそうになる度に背負い直しては、足を強く踏みしめて歩いていく。
山には深々と雪が降り積もり、今またその厚さを増すように降り始めた。
少年は慣れた足取りで雪をものともせずに進んでいく。
そんな折に少年は眉根を寄せた。
さくさくと雪を踏み進める音が二つ聞こえる。
一つは勿論自分のもの。
では、もう一つは…。
冬には毎年深く雪が積もるため、この山を徘徊しているのは自分しかいないはずだった。
(…探られたか?)
相手が己の敵ならば、このまま住処に向かうのは些か不味い。
少年は足を速め、木陰へと跳んだ。
距離があったために気付かれてはいないだろう。
暫らくすると、先ほど少年がいた場所に誰かが止まった。
やはり獣などではなく、人間である。
少年は正体を見極めようと、その者の背後に音もなく躍り出た。
「貴様、何者だ。何故俺をつけていた?」
相手の肩がぴくりと動く。
振り返るも全てを白布で覆っているため、男か女かの判別も付かない。
背格好は成長途中の自分より頭一つ分ほど高いように見受けられる。
白布はおそらく雪の中で姿を拐わかすためのものであろう。
その用意周到さから、突発的なことではないということが伺えた。
「答えよ。……浅間の家来か?」
少年は口にも出したくなかった名前を言い、顔を顰めた。
だが、その名前を聞くと相手にも変化が起こった。
その質問を聞くと同時に殺気が上がったのだ。
怒りと憎しみの合いまった激情の視線を向けられる。
少年は一瞬その気迫に呑まれた。
それを見計らっていたかのように、相手は地を蹴って踏み込んだ。
手にはきらりと光るものがしっかりと握られている。
少年はそれを見咎めると、深く息を吐き出し、態勢を低くした。
小刀が真っ直ぐ喉元に突き出される。
少年は少し身体を横にずらすと、相手の手を軽く押し退けただけで太刀の軌道を逸らせてかわした。
と同時に荷物がどさりとその場に落ちる。
「ふっ、面白い…。久々に受けて起とう」
相手はすぐさま立て直し、上段に振りかぶった。
だが先ほどと違い、隙だらけである。
一撃目を避けられるとは思っていなかったようだ。
動揺と焦りによる隙だらけの攻撃は、簡単にかわすことが出来てしまった。
少年は今度こそ本当の構えを取った。
殺すまではしなくとも、気絶でもさせなければ埒が飽かない。
だが、ぼすっと重いものが雪に沈む低い音で、均衡は崩された。
手を出す前に、相手は前に倒れこんだのだ。
一体何が起こったのだろうか。
暫らくしても起き上がる気配もない。
その場の空気から少年は謀っているわけでもないと判断して、相手へと近付いた。
「おい、どうした?」
返事がないため、状態を診ようと片膝を付く。
少し躊躇してから少年は邪魔な白布を剥ぎ取った。
だが相手の顔と姿を見た少年は、愕然と目を見開いた。
その間も雪は時を止めず、深々と降り続けていた。