第四章 第十一幕:狐黒
理解できない
彼の行動が
言葉が
まだ此処にいるのに
掴めるほど近くにいるのに――。
「お前……狐黒か?」
それを尋ねた瞬間、少年は大きな反応を示した。
驚きの表情は、暗に何故分かったのかと言っている。
嘉月自身、彼がその人であると確信があったわけではなかった。
真新しい話だったからこそ、すぐに状況が似ていると思い出しただけのこと。
だが少年の反応は、質問の答えを是と言っているようなものだった。
「狐黒ぅ? 何だ、それ」
事を知らない紳月は怪訝そうな顔で言った。
安易に東国へ立ち入れない翠月も知らないらしく、首を傾げる。
本人へと目を向けるが、自身の事を話すつもりはないようで、代わりに嘉月が口を開いた。
「浅間家に仕える忍の中でも、任務成功率が群を抜いて高いことで有名な人物の呼称だ。任務の折に狐面を被って忍の黒装束を纏い、闇色の腰布を纏っていることから付いた字が狐黒」
そうだろう? と視線を投げ掛けるも、少年からの返答はない。
この場合の無言は、即ち肯定を表す。
だが紳月は信じられないと、驚きを顕わにした。
「こいつがそんな凄い奴だっていうのか!? まだ餓鬼だぞ!?」
「餓鬼は失礼だ。俺もこんなに年若いとは知らなかったがな」
嘉月は改めて少年を眺め見た。
小柄だという証言はあったものの、目の前の少年だとは誰も思わないだろう。
忍びは身軽さや暗躍する際の動き易さを求められ、重宝されるのは普通より小柄な者が大半を占める。
その上狐の面を被り、長布で身体を覆っていれば、外見で年齢を判断することは出来ないだろう。
相当腕が立つとのことから、大人に見られていたに違いない。
実際に狐黒の姿を見た者達にも。
そして、噂を聞きつけた自分のような者達にも。
「それにしても、よく其処まで調べられたのぅ」
翠月は嘉月の諜報力に目を丸くして、感嘆の言葉を漏らした。
どうやってそのような情報を得ているのか、皆目検討も付かない。
何せ自分達は追われ人なのだ。
そう大っぴらに姿を現して、情報を得ることは叶わないというのに。
だが、その疑問はすぐに判ることとなった。
嘉月は悲痛な面持ちで、少しの間を置いてぽつりと言葉を紡いだ。
「今、東国で飛び交っている最大の話題だ。狐黒が失態を犯し、本日……処刑されると」
「何!?」
嘉月の台詞に、紳月と嘉月は少年に目を向ける。
少年の眼に、もう涙は溜まっていなかった。
それは本当なのかという視線を投げ掛けると、少年は其処まで御存知とは、と諦めたように溜息を漏らした。
「今、嘉月様の仰られた事は全て真実。私は今日が最後の生に御座います」
少年の声音は酷く冷静で、悲しさや苦しさは一切感じられない。
顔にも覇気が見受けられず、無表情でただ単調に事実だと語った。
それからはもう生きる事を諦めているようにも見える。
少年はまた一歩進み、障子に手を掛けて今一度振り返った。
「ある方の助けで牢から抜け出して参りました。なれど……もう戻らなくては」
その言葉には三人とも目を剥いた。
中でも紳月がありえない台詞に瞬時に取っ掛り、少年の袖の袂を掴んで握り締めた。
「待てよ! 行ったら殺されるって分かってるのに帰る奴があるか!」
「判っているから帰るんだ。それが俺に残された最後の仕事だ」
淡々と感情のないままに、狐黒は紳月に言い放つ。
その言葉に紳月はより強く握り、歯を噛み締めた。
「何が仕事! 何が忍びだ! 死ぬのが仕事なんてあるわけねぇだろ!?」
紳月は何を馬鹿な事をと声を荒げた。
だが、対する狐黒は掴まれた袖を乱暴に振り払って、冷静な声音で言葉を吐き出した。
「甘いな。戦では死にに行く事が名誉とされているのに」
「なっ!」
「それに……俺が行かなければ、俺を逃がした方に被害が及ぶ」
その発言に、ついに紳月は言葉が紡げなくなった。
誰が逃がしたのか発見された場合、その者に及ぶのは打首だ。
確かに逃走した本人が帰って、一人の力で抜け出したのだと告げれば、相手に損傷はない。
紳月は二の句が継げず、一瞬部屋は静まり返る。
翠月は事の成り行きを傍観するばかりで、嘉月も狐黒を見据えたまま何も言わない。
誰も語ろうとしない中、狐黒がその沈黙を破って話を切り出した。
「御理解頂けたようですので、これにて失礼致します」
「待て」
今度こそ出て行こうとする狐黒を、今度は翠月が引き止めた。
それに対し、まだ何か? と若干面倒そうに返される。
「生きたいとは思わぬのか? 生きている目的すらないのか?」
「私が今まで生きてきたのは、唯一その文を届けるという使命のみでした」
「ならば、まだ終わってはおらぬじゃろう?」
そう言って翠月は視線を文へと投げ掛けた。
本人に未だ渡ることなく、その大切な文がまだ此処にある。
だが意に反して、狐黒は戸惑うことなく静かに否と口を開いた。
「彼を知り、月を探し求める貴方方は、絶対に本人へと渡して下さります」
会ったばかりだというのに、口調に妙な信用を含んでいた。
確かに頼まれたからにはやり遂げるつもりでいる。
しかし、そうは言っても彼の経緯を聞いてしまえば話は別だ。
翠月は口を挟もうとするも、その前に狐黒は言葉を発した。
「それに嘉月様に至っては、越前家御子息の知人。何より信頼に値します」
「確かにそうじゃが」
「ならば……それを預けた今、私の生きる意味はもうありませぬ」
「っ! ふざけ……!」
紳月が声を荒げて行動に出ようとする前に、嘉月が初めて動きを見せた。
ぱんっという乾いた小気味いい音が室内に響鳴する。
狐黒は赤くなった頬を驚きに目を見開いて押えた。
紳月と翠月もその思ってもいなかった行動に目を瞠った。
常に冷静でいる嘉月が、少年の頬を叩いたのだ。
「嘉月……」
思わず翠月が名前を呟くように呼ぶ。
だが嘉月はその名に振り返ることはなく、ただ一人を見つめ漸く言葉を吐き出した。
「お前は自分を……自分の命を何だと思っているんだ!」
低く唸るように出されたのは、狐黒に対する怒鳴り声だった。
震える声音には、怒りだけでなく悲痛さも入り混じる。
剣幕を露わにし、感情を剥き出しにして射抜くような鋭い視線を少年へと向ける。
その初めて見る光景に、他二人もただ呆けて黙って見つめた。