第四章 第十幕:教訓
辛くはない
それが唯一の誇りであり
自身の誇りでもあったから
ただ――。
感慨深げに文を見つめる嘉月を一度見やり、紳月は零れ入る光に目を細めた。
障子の僅かに開いた隙間から、太陽の陽射しが射し込んでいた。
其処から外へと目をやると、日はもう真上まで高く昇っている。
その位置から換算して、丁度正午くらいだろう。
いつの間にか長い時が過ぎていたようだ。
思いに耽っていると、ふと誰かが動く気配がして、視線を元に戻した。
「では、その文確かにお預けしました。後は宜しくお願い致します」
長居を致しました、と丁寧に断りを入れて立ち上がったのは少年だった。
手紙を其処に置き去りに、その場を去ろうとする。
「……待て」
嘉月と紳月の間を通ろうとした時、嘉月が静止の声を掛けた。
言葉を受け、少年は律儀に振り返る。
「何処へ行く? これはお前に託された文だろう?」
嘉月は少年へと文を差し出す。
確かに塁月と陽太に会いに行こうとは思っているが、文を託されたのは少年である。
勝手に引き継がされて良いものかと迷ったのだ。
しかし、少年はそれに手を出そうともせずに、目礼した。
「勝手だとは思いますが、どうかお願い致します。私にはもう刻限がありませぬ故、主の下へ。御安心下さりませ。此処の事は一切他言致しませぬ」
「その事もじゃが……。それより屋敷を抜け出したこと、如何様に言い含めるつもりじゃ」
勝手に抜け出したとあらばあの浅間のことだ。ただでは済まないだろう。
それが判っている為、翠月はそう言葉を掛けた。
だが、少年はあまり間を空けずに、当然だとでも言うように口を開いた。
「ただ、率直に私用だと申し上げます」
「それではお前が罰を受けよう? その怪我、見せ掛けではあるまい。浅間にやられたのではないのか?」
嘉月は少年の身体の彼方此方に巻かれた包帯を指し示す。
指摘された少年は、その片腕を庇うように握り締めた。
「否……。これは任務でついた栄誉の傷に御座いま」
「嘘だな」
言葉を遮って、紳月は少年の腕を掴んだ。
その瞬間、少年は眉を寄せ、顔を歪めて苦痛の表情を見せた。
決して強く握ったわけではない。
だというのに、この反応はおかしい。
少年は触るなと言って、すぐさま紳月の手を振り切る。
だが、その弾みで包帯が解け、痛々しい傷が顕わになった。
「っ! それが栄誉だと? 馬鹿言うな! 戦闘でそんな傷が付くはずがねぇだろ!?」
少年はすぐに傷を隠すが、三人にはばっちり見えていた。
三人はその酷さに思わず顔を顰め、一番気の早い紳月を怒らせるには十分だった。
其処にあったのは痣や蚯蚓腫れ、爛れた火傷の痕ばかり。
戦で付く切り傷など一つも見受けられなかった。
それは拷問や体罰に因るものだということは誰が見ても明らかだった。
もう隠しても無駄だと思ったのか、少年は傷付いた自身の手を見つめて真実を呟いた。
「……私が、いけないのです。罰を受けるに値することを、したのですから」
「それがお前の正義だったんじゃろう?」
翠月は床に滑り落ちた包帯を拾って、少年に手渡しながらそう言った。
東国に仕えながら、其処の領主である浅間が正しいと言ったことを誤りだと主張するには、己の命を懸けるほどの覚悟が必要である。
少年の表情からはその覚悟が伺えた。
ばつの悪そうな顔は、とても口で言っている通りに思っているようには見えなかった。
きっと自分を卑下する発言は心配させまいと、迷惑は掛けまいとの考慮の上でのことなのだろう。
そのぎこちない優しさに嘉月は優しく微笑んだ。
「帰ったらこう言うが良い。殿を脅かす反逆者を見つけた故、偵察に出向いていたと」
「っ! そんな事!」
嘉月の台詞に少年はがばりと顔を上げる。
動揺を隠せない少年を余所に、嘉月は翠月に良いよな、と確認を取る。
対し、翠月もあまり考えず、すぐに首肯した。
「構わぬ。いずれ公にすることじゃ。シンも良いかの?」
「二人が言うなら従うさ。俺は頭を使うことは向かないんでね」
紳月も良しとし、三人側の意見は固まる。
だが、少年は訳がわからないといったように、困惑で瞳を揺らした。
「何故……。何故敵でもあり、事を偽った私にそのような情けを……?」
本当ならば、彼は倒そうと考えている第一者浅間に組する者。云わば敵である。
私事ではあれど、騙して交わった以上、死は免れない。それが現世の厳しさだ。
その当然の疑問に行き当たっている少年に、翠月は苦笑しながら返した。
「あまり深く考えるでない。ただの自己満足じゃよ。我らのような者をこれ以上増やしたくないだけじゃ」
「俺達はそれを胸に結託したからな」
そう。全ては浅間から出来る限り多くの人を救う為に。
自分達の身を危険に曝してでも、それを第一に考えたいと願う。
それにこの少年は違う。
嘉月は傷付いた少年の手を取り、痛くない程度に軽く握った。
「それに……人を思う心を忘れず、闇に呑まれていない者をどうして斬れようか」
嘉月は少年の受けてきた仕打ちを想い、淡く微笑した。
その一つ一つの言動に驚き、少年は息を呑むのが伝わってきた。
この小さな身体でどれだけのことに耐えてきたのだろう。
少年は優しい心を持っていると三人は知ることが出来たが、現在彼の周りでどれ程の者がその事実を知っているのだろうか。
嘉月は驚きを見せている少年の眼を、諭すように真っ直ぐ見据えた。
「お前はまだ光だ。辛かったら此処へ来ると良い。愚痴くらいなら聞いてやれるし、シンを苛めることで精神的心傷を発散できて一石二鳥だぞ」
「おおっ! それは名案じゃな!」
「って、おいこら! ちっとも名案じゃないだろが! カズも特典みたいに言うな……って、何泣いてんだよ!?」
最後に冗談を踏まえる嘉月の言葉に、翠月が手を打って便乗する。
遅ばせながら反論を返した紳月だったが、突然の事態に言葉が急転した。
決して頬に雫が流れていたわけではない。
だが、少年の眼には今にも溢れそうなほどの涙が溜まり、その瞳が大きく揺れていた。
溢れ出ないように瞬かずにいるその様子が、より辛さを誘う。
「シンちゃんが泣かせたぁ。駄目じゃないのぉ」
「俺かよ!? あーもう、泣くな!」
先程まで少年が気丈であったため、その変化に余計聴牌する。
そんな最中、少年の口が僅かに動いた。
耳を傾けるもその声は小さ過ぎてよく聞き取れない。
嘉月がもう一度言ってくれるように頼むと、今度は聞こえる音量で、しかし掠れた声で途切れ途切れに答えた。
「泣いて、ませんっ」
「ああ? 何言って……」
「泣いてません。……泣いては、いけない。それは、決して許されない」
少年の言葉に一同は目を見開く。
決して強がっているわけではなく、何かに縛られた強制的であるような言葉。
そのような台詞が吐かれた意味が解らず、翠月は首を傾げた。
「何故じゃ? 泣くことも感情の一つじゃよ」
だから、何かあれば泣いても別に構うことはない。
しかし少年は首を横に振り、また声を絞り出した。
「涙、は情け。忍びは、感情に左右されてはならない。任務に支障を、きたすから」
それは忍びであるが故の教訓。
否、戦線に出れば武力となる兵、全てに言われることだ。
まだ成人していないというのに戦線を知り、この覚悟は天晴れに思う。
武士としては鑑だが、この歳でと悲しくもなる。
「辛くはないか?」
そう聞かずにはいられなかった。
眼の前にいる少年は今にも崩れ、壊れてしまいそうなほど儚くて脆い。
「辛くは、ありませぬ。それが、一族の誇り故に……」
少年はしっかりと顔を上げ、胸を張ってそう言い切った。
そして、それにと誰かが言葉を放つ前に繋いだ。
「それに……もうすぐ私の人生も終えますから」
その発言に、三人が目を見張った。
人生を終える。
其処から汲み取れることは一つしかない。
宛らそれは、少年の死――。
その言葉から嘉月は頭の中に一つだけ思い当たる節があった。
もう一度少年を見るが、決してありえない事ではない。
思った時には考えるよりも先に、言葉に追出ていた。
「まさか……。お前……狐黒か?」
その途端、少年が平静を装えない程にびくりと大きな反応を示す。
嘉月はその反応に驚くしかなかった。
言葉には出していないものの、その無言は肯定を意味する。
まさかと思っていたことが、明らかになった瞬間だった。