第四章 第四幕:牽制
何故
そんな言葉が頭を支配する
見誤るな
その決断は
大きな損害を与えるのだから――。
町とは大分離れた場所に聳え立つ、寂れた一つの屋敷。
其処は西の権力を握るであろうとされていた春日の別邸である。
竹藪に囲まれた其処は、誰にも知られることなく、ひっそりと存在した。
今はただ一人の人物が住んでいる隠れ家だ。
「はぁ、我が家ながら広いわねぇ……」
その唯一の住人である春日翠月は、広い室内の大掃除を決行していた。
村娘の着るような衣を身に纏い、長い髪を風で遊ばれて邪魔にならないよう毛先の方で一つに縛っている。
掃除をする為に、着物が汚れないよう割烹着を着こみ、手拭いを頭に被る。
そんな格好ではあるが、その容貌はまさに絶世の美女と呼べるものだった。
肌理細やかな白い肌に、すらりと均等の取れた体躯、癖もなく真っ直ぐで濡れそぼった腰より長い漆黒の髪を持ち、長い睫の下では黒耀石のような瞳が輝く。柔和な笑みを口に携えると、僅かに切れ長な目と相俟って妖艶さを醸し出していた。道を歩けば男女問わずに振り返るだろうその容姿。
だが、本来の性別は女ではなく、男だった。
姿を隠す為に、自分の女顔な容姿を利用して、女装して外では女として生きていた。
「あとはこの部屋だけねぇ」
数えで五つの頃より女装して過ごしていた為に、仕草も女そのもので、演技も完璧。
掃除をしている現在でも動き難さなど微塵も感じさせることなく、機敏に動き回る。
不要な物を全て出し終え、部屋全体を見渡して一区切りの溜息を吐いた。
さすがに一人で広い屋敷全てを掃除するのは骨が折れるが、今日越してくるやっと見つけた同志達がもうじき来るので、少しは作業が楽になるだろう。
つまり、今は二人が入る部屋だけでも奇麗になっていれば良いのだ。
はたきで高い処の埃を落とし、次いで箒を取り出して部屋を隈なく掃いていく。
塵を纏めて廊下へと出した翠月は、ふと何かの気配を感じて動きを止めた。
「門前に人がいる……?」
複数ではなく、少数。あるいは一人。
長年身を潜める為に身についた気配を読む力は、外れることなく完璧とも言えるものだ。
気配の動きを探りつつ、翠月は思考を急速に回転させる。
嘉月達が来るにしては早過ぎるし、逆に静か過ぎる。
嘉月だけなら判るが、あの紳月がいて静かになることなどまずないだろう。
「うん。絶対に二人ではないわね」
付き合いが浅くともそれは確信できる。
嘉月に黙らされているのなら話は別だが。
あの巧みな言葉に対等に渡り合える者は、自分くらいのものだろう。
紳月がその台詞を聞いたら、自意識過剰だと言ったに違いない。
でもそういったことにおいては父譲りで得意な分野だと絶対の自信を持っていた。
「だとすれば……」
顎に手を置き、翠月は更に考えを巡らせる。
まだ日の昇らない朝方に一つの挑戦的な立札を故郷である村に置いてきた。
その為に、それ関係の者である可能性が今の所一番高いだろう。
翠月は漸く動きを見せて徐々に近付いてくる気配に、すぐさま懐へ小刀を忍ばせ、成る丈気配を消して戸口へと足を運んだ。
着くと同時に、遠慮がちに軽く木戸が叩かれる。
翠月は少しだけ間を置いて、慎ましやかに戸を開いた。
今の翠月は「女」だ。
見も知らぬ同志となっていない者に実の姿を曝し、ばれるようなことがあっては今までの苦労が水の泡である。
「はいはぁい。どちら様ぁ?」
注意深く戸を開けると、其処には一人の少年がいた。
翠月はまさか子供だとは思わず、目を見開いた。
歳は十四か十五そこら。
肩くらいになるであろう長さの髪を高い位置で一つに括り、左目を前髪で覆い隠し、その下や、手足の至る所に包帯を巻いているのが見えて痛々しい。
持っているのは一つの風呂敷と、髪を結っている白い布だけ。
衣から見ても、一見その辺の村の子供だ。
ただその着物はぼろぼろで、西の子供ではない、訳有りの者だと一目で認識できた。
東に政の諍いが絶えないのに対し、西は平和主義の開拓国。
まったく犯罪がないというわけではないが、旗本同士が結託し始めている。
傷つく人物が少しでも減っていくように、と。
諸外国との交流にも寛容で、文化も東より早いと言えた。
その為、こんなに傷ついた少年がこの地にいるということは、東国に大きく関わっていると言えるだろう。
翠月は一瞬で其処まで分析し、眼前の少年に微笑みかけた。
「こんな処までどうしたの?道に迷った?」
翠月は女声で思ってもいないことを尋ねた。
此処まで来れる者など限られている。
それに例え来れても、外見は古惚けてとても人がいそうな雰囲気の屋敷ではない。
人がいると知っている者でなければ、戸を叩くことなどしないだろう。
判っていながらもそう尋ねたのは、見るからに警戒心を持っている相手の気を緩ませる為だ。
だが、少年は淡々とした声音で真っ直ぐに見つめて返した。
「立札を見てきました」
その言葉に翠月は若干の驚きを見せたが、表には見せずに内に留めた。
子供だとて甘くは見れないということか。
翠月はそのまま口元に笑みを浮かべると、自然な動作で手を懐に忍ばせた。
「立札を?へぇ~……そうっ!」
「……っ!」
言葉と同時に、翠月は懐に忍ばせていた手を勢いよく引き抜く。
太陽の光が反射して、一瞬手元が輝く。
次の瞬間、金属音が二人の間に響いた。
翠月の手には小刀、少年の手にはもう少し長めの刃物がそれぞれ握られている。
互いが拮抗しあい奏でた音は一度きりで、翠が少年の刀を跳ね飛ばした。
勢いに乗って少年が距離を取り、翠月を敵とみなしたように構える。
その姿を見て翠月はふと殺気を取り払い、その場にそぐわない満面の笑みを浮かべた。
「うん、合格ね!」
「……はい?」
急に変わった雰囲気に、少年は訳がわからないと言った風に間の抜けた表情を浮かべた。
そんな少年の表情を見て、翠月は口元に手を当てて女らしく苦笑した。
「ふふ、御免なさいね?力を見たかったの。それと判別」
「判別、ですか?」
少年は怪訝な表情を浮かべ、首を傾げた。
その仕草は先程の反射神経の良さと違い、見た目の歳相応に感じる。
翠月は一度くつりと笑う。
「貴方が敵で殺されたら困るでしょう?全部私の責任になっちゃうもの」
口元に笑みを湛えたまま、無邪気な子供のように極めて明るくそう言った。
少年が此処まで辿り着けたというだけで侮れないのに、武器をも所有し、唐突の攻撃も避けられるだけの瞬発力ある反射神経を持っている。
それは実戦を経験した者しか成し得ない動きだった。
だが、ただそれだけで内情は掴みきれるものではない。
まずは様子見しかないだろう。
翠月はそう一人完結付けて、暫し呆気に取られている少年ににこりと微笑んだ。
「改めて、私の名前はスイ。貴方のお名前を聞いても良いかしら?」
例え敵であれ、はたまた念願の同志であれ、名を知ることが第一歩。
名無しでは何事も話し難い。
そう思い聞いたことであったが、翠月はすぐに驚愕と困惑に陥ることとなる。
先のことなど判るはずもなく、少年の口がゆっくりと開かれる。
そして迷うことなく、その名はしっかりと紡がれた。
「私の名は、伊佐美。……伊佐美嘉月と申します」