第一章 第一幕:嘉月
自分には力が足りない
生きよう
名に込められた思いを実現する
その日まで――。
倭八十年。
東国治める者の名を浅間義政という。
齢四十三になろうかというその男は、評判が頗る悪かった。
民を貧困で苦しめ、自分の意にそぐわなかった者は容赦なく殺された。
十三年前には本当かどうかは判らないが、裏切ったとして寵愛していた自分の第一妃をもその手にかけたと言う。
東全領土を治めるまでに規模を多大にし、統括していたのは前旗頭である彼の父、浅間国義で武の才に優れ、闘神とまで呼ばれるほどだった。
民にとっても彼は優れた軍頭だと言われていたほどに。
だが、十八年前に急な病で仏となった。
その息子が義政であったが、彼には父のような偉大な力は受け継がれていなかった。
まるで癇癪を起こす子供のような性格と行動が、東の地をどん底に叩き落していた。
そんな東の国でまた彼の標的とされた家が出た。
既にその立派な屋敷は火矢によって火達磨と化し、轟々と燃えていた。
「父上……、母上……」
燃え盛る炎の中に、一人の少年の声があった。
その場には他に二人の大人の姿も揺らめいている。
少年は炎で目が乾き、煙も合わさって涙が滲んだ。
目を擦りながらけほけほと咳をすると、母親が優しく抱き締め、背を軽く叩いた。
「貴方はお逃げなさい……。生き延びるのです」
「一人でなど行けませぬ!共に行きましょう!」
着物の袂を引いて、少年は必死に訴えた。
だが母親はふわりと笑うと、我が子を思い切り突き放した。
その勢いで一瞬炎に呑まれ、障子を突き破り、新鮮な空気のある外へと弾き出される。
咽た咳を数度し、少年は今し方自分がいた部屋を見た。
其処には二つの黒い人影だけが浮かんで見える。
「父上!母上!」
少年は呼び叫んだ。
今ならまだ間に合う。
そう思い、もう一度中に飛び込もうと少年は一歩踏み出した。
「嘉月!来るでない!」
父親の一喝が響く。
それを合図とするかのように、梁が崩れ落ちた。
道を塞がれ、願ってももう屋敷へ入ることは叶わない。
「父上……。私は……どうすれば良いのでしょうか」
悔しさでぐっと歯を噛み締めながら、震える声で父に尋ねる。
本当にどうすればいいのか分からない。
この先何をしていけばいいのか。
血の繋がりを持った大切な、愛する家族ともう会えなくなるのに。
涙を零しそうになったその時、炎の中から何かが投げ出された。
少年は自分に向かってきたそれを慌てて抱き留めた。
見下ろした手の中にあったのは、一本の刀。
家宝である菖蒲の刻印が柄に彫られた、名刀『狭霧』。
「お前は生きろ。そして……強くなり、多くの民を救う光の一端となれ」
顔が見えないのに、父が笑った気がした。
剛情で滅多に笑わぬ強面のために、何かと周囲に反感を買うような勘違いをされがちだが、家族を何よりも大切にして政では正義を貫く、誰よりも尊敬する名のある武将を勤める父親。
少年はそんな父の言葉を胸に深く刻み込んだ。
これからの生きる希望となるものだから。
「さぁ、お行きなさい。私達は手に届かぬ処にいても、貴方の傍にいることを忘れないで……」
遠くから大勢の声が近付いてくる。
火を放った者達の恨みがましい足音だ。
少年は刀を握り締めると、踵を返して走り出した。
「嘉月!その名の通り、陰の世を照らす月の光となって天下に咲き誇れ!」
少年は、嘉月はもう振り返らなかった。
ただ一筋の涙を静かに流して、虚空を見つめる。
足は決して止めない。
ある決意をもって懸命に走り、そして姿を消した。
その後、河原でボロボロの服を纏った一人の少年が遺体で発見された。
年の頃や、火傷の跡が残っていることから、火事のあった屋敷『伊佐美』の名を継ぐはずだった一人息子『嘉月』であるとされた。