第四章 第一幕:脱獄
必ず戻ってくる
貴方を縛りたくないから
すぐに恩返しとして差し出そう
この命と引き換えに
自由という開けた道を
だから一時だけ
さようなら――。
東の都に静寂な時間が通り過ぎる。
暗く染め上げられた空に、満月という明かりが灯っていた。
虫の鳴き声が木魂し、風流さを掻き立てる。
だというのに、とある大きな屋敷の敷地内にある小屋では罵声が飛んでいた。
「さっさと言わぬか!この裏切り者が!」
言葉と同時に、ばしりという乾いた音が響く。
それは紛れもなく、人を叩く音。
その音と、多数の人の呻き声・叫び声は、今の東国では日々耐えることがない。
だが現在聞こえる音に悲鳴はなく、叩いている者の罵倒と行為の音だけ。
打たれている者にも痛覚はある。
自分が何をされているのかも分かっている。
でも決して秘密を答えるという職事に反したことは決してしない。
それが主を裏切る行為だとしてもだ。
だから何をされても感情を押し殺し、無言を通した。
裏切ったのは己の意思で、彼らとの約束を護りたかったから。
何も反応しないことに怒りを覚えたのか、更なる仕打ちをしようという時に、彼の背後から静止が掛かった。
「義政様、それ以上の事は…。聞き出す前に死んでしまいますよ」
その言葉に浅間義政は、言葉を詰まらせた。
言を紡いだその者は、知識・策略において郡を抜く存在。
彼の言葉に逆らえる者は少なく、主たる浅間とて例外ではない。
「義政様、後は私に御任せ願えませんか?成る丈努力致しますので…」
「むぅ…。仕方ない、任せるぞ。何が何でも吐かせろ」
「御意…」
浅間は言では幾ら言っても適わないと分かっている為、あっさりと引き下がった。
部屋から出て行き、戸が閉まるまで礼を取る。
気配が去るのを確かめてから彼は顔を上げ、向き直った。
彼は何も語らない“俺”を見て、深い溜息を漏らした。
「顔を上げなさい。この私にも逆らうつもりですか?」
硬く強気な口調でそう言われて、俺は重い頭を持ち上げた。
といっても漸く顔が垣間見れる程度が限界だった。
浅間であったならば、もう命令を聞かなかったかもしれない。
ただその相手が、俺の唯一気を許す相手であったから命に従った。
俺にその名を付けたのも、拾って育ててくれたのも目の前のお人だ。
俺以外にも何人の者がこの方に救われただろうか。
命じた者は人差し指を自分の口元で立て、背後に視線を送る。
それは見張りがいるから声は出すなという合図だ。
「まだ、話す気になりませんか?」
声の硬さとは裏腹に、その人の表情は優しい。
今の言葉は外の者を欺く為だけの常套句。
次いで声を出さずに、口だけが動かされた。
『逃げなさい』
確かにその口はそう語っていた。
それに驚いて声を上げそうになるが何とか押さえ、此方も口を動かすだけで返す。
『何を仰っておられるのです。そのような事は無理です』
今この状態で抜け出せるはずがない。
それにもう何時殺されても構わないと思い始めている自分がいる。
今まで死ねない理由があったが、死した後きっと目の前の彼が引き継いでくれるだろうという確信があるから。
その内容は伝えていないが、彼ならば絶対に気付く。
否、彼以外に気付く者など此処にはいないと言える。
諦めた顔でぎこちなく微笑むと、相手は複雑そうに眉根を寄せた。
彼が近付いてくる気配がする。
目の前まで来ると彼は俺の顎に手を置き、顔を上げさせられた。
些か息苦しいが、その手つきは優しいものだ。
目を真っ直ぐに向けられ、また静かに口を動かした。
今度は長く。諭すようにゆっくりと……。
言葉の数々に困惑していると、彼は俺の胸にそっと手を当てた。
その動作に思い当たる節があり、驚きに目を見開く。
それは本来、俺しか知らないはずの事。
他の知り得るはずの人達は皆、既に死んでいるから。
やはりこの人は侮れないと再度認識した。
本当に彼には何を隠していても、すぐに見透かされてしまう。
冷静な判断の出来ない、“あること”に絡んでいなければ…。
俺が隠している秘密を彼が知っているのであれば、自分がやらなくとも彼が成してくれるだろう。
それに脱獄したとて、俺には行く場所など在りはしないのだから。
そう伝えると顔を近付け、耳元でぼそりと呟いた。
「西へ渡れ」
いつもと違う硬い言葉。
命令形で低く告げ、手に何かを持たされた。
すると目を伏せ、彼は薄く口を開くと、今度は大胆に音のある声を発した。
「月明けに 闇覆いける 朝山の 天より降り行く 藁をも掴めば」
他者が聞いたら、字余りの下手な歌だ。
それでも彼が言うことには必ず何か意味がある。
長い付き合いの者でなくては分からない、裏が…。
意味を解釈し、半信半疑で上を見上げる。
すると彼はくすりと一つ笑った。
「貴方は賢いし、まだ歳若く、先がある。昔言いましたよね、最後まで自分でと……。地から槍に突かれない事を願ってますよ」
そう言うと何処か辛そうに微笑み、振り返って足を踏み出した。
その言葉を最後に、彼は牢から出て行った。
出た直後に扉は閉められ、鍵が掛けられる。
その音を静寂な闇の中で聞き、目を閉じて、しばし瞑想をする。
先程の彼の表情と、言葉の数々を胸に刻む。
その昔、彼に一度引き受けたことは最後まで責任を持って行動しろと言われた。
過去を反芻し、自分の胸に託された想いを思い起こし、覚悟を決めて手の中の硬い物を握り締めた。
明朝までに天井の紐が垂れ下がる箇所から抜け出し、山を越えよ。
でなければ、「死」あるのみ…―。