第三章 第六幕:桐靖
会いたい
……会いたい
直に必ず会える
否、二度と会えない――。
倉本が出て行ってから、明智は文台を力強く叩いた。
物に当たっても仕方のないことだと解っていながらも、止められない。
「くそっ…」
明智は小さく普段は吐かない暴言を吐いて頭を抱えた。
今にも叫んで暴れてしまいたいが、歯を食いしばって、その衝動に耐える。
感情全てを曝け出し、本能のまま動けたら、どんなに楽だろうか。
それこそ叫んで、暴れて……。
いつも笑顔の仮面の下に、感情をひた隠していることがこの上なく辛い。
明智は気持ちを落ち着かせる為に、肺が空になるまで息を吐き出した。
そのまま脱力して、文台に突っ伏す。
「自分が平静を失ってどうするんですかね……」
明智はそう言って自分自身を嘲笑った。
上体を起こして額を押さえ、明智は重い溜息をついた。
袖口から朱二色の珠のついた紐を取り出し台上に置き、片手で弄ぶ。
「貴方を救う術はまだありますよね?桐靖……」
珠を転がしながら、明智は一人の男の名を呟いた。
それは自分の同僚の名だ。
藤代桐靖。
同時期に参内し、かつては彼が武、明智が知で隊を組み出立した時もあった。
反りも合って、桐靖とはすぐに気を許せる仲になった。
倉本のことも唯一教え、二人も兄弟のようになっていた。
それが引き裂かれたのは、二年前のことだ。
桐靖と明智、またこの二人で組まされた時、初めて戦略をしくじった。
だがそれは誰の手かによって阻まれた策略的なものだと直ぐに割れた。
その飛び火が桐靖へと向けられたのだ。
『藤代。貴殿は確か毎度殿の意向に反発していたな』
『今回の失態、お前自身が故意に招いたのではないか?』
『なっ…!何を仰られます!』
反論するも、返されたのは冷ややかな目だけだった。
桐靖はそれを仕組んだ張本人として、疑いを掛けられた。
阻んだ首謀者にとっては、端からそれが狙いだったのかもしれない。
桐靖は浅間に対し、何かと反論を言うことが多かった。
それが彼の正義心であり、国の為にと決死に動く彼の思惑の上でもあった。
浅間派としてはそれが気に食わなかったのだろう。
結果、必死に無実を訴えるも桐靖は捕えられ、牢へと入れられた。
明智は彼の無実を主張し、ある条件の下に何とか死罪をなくした。
その条件は、本当の首謀者を見つけ出すこと。
妙な企てをしないよう、桐靖との面会は一切しないこと。
そして、確かなる証拠を出すこと。
明智は条件を呑み、これまで探り続けてきた。
首謀者はやはり浅間近衛に連れなる者達だとすぐに判ったが、幾人かの共謀である為に全員の証拠を集めるのは困難で、口裏合わせをされれば元も子もない。
何に対しても対抗できるようにと思うと、どうにも難しかった。
そして二年経った今でも、それは解決することなく、時は無情にも流れている。
長いこと拮抗していることなのに、気が急いて未だに名を聞くだけで冷静を保てない。
倉本も間者になる恐れ有りとして桐靖には近付けず、毎晩狐黒として忍び込んでは、彼の状況や言葉を知らせる役目をしてくれていた。
暫らく留守にしていた倉本も戻り、明日よりまた平行線の行動が始まる。
安否を早く知りたいところだが、焦っても良いようにはならない。
明智は弄んでいた紐を、力強く握り締めた。
「絶対に助けますからね。あと少し待っていて下さい…桐靖」
明智は気持ちを引き締め、文台に書物を積み上げた。
此処で気負いしてはいけない。
勝負の決め手は、精神の忍耐力だ。
明智は夜も更けたというのに、書文を漁り始めた。
友を救うのだという一心で。
その眼はもう沈んでおらず、微かな希望へと向けられていた。
暫らく室内には、紙を捲る音だけが響いた。
****************************************
主である明智の部屋を去ってから、暫らく経つ。
相変わらず足音は聞こえないくらい静かなものだ。
俯き加減で暗い廊下を戻っていく倉本に、ふと自然の光が指す。
倉本は顔を上げて光の正体を見ると、石庭へと降り立ち、勢いをつけて屋根へと跳んだ。
ほんの少し瓦の音を立てただけで、危なげなくふわりと着地する。
見上げた其処には欠けた月が姿を見せていた。
こんな御時世でもその輝きは荘厳で、綺麗な満月ではなく欠けており薄く雲が掛かっているところがまた妖艶に魅せた。
倉本は暫らく無言で、それを見つめる。
月を見ると嫌でも様々なことを思い出す。
自分が血を見るのは、決まって月が真上にある深夜だから。
月に友の面影を見て、倉本は眉を顰めた。
「お前の頼み事は酷だよ…、桐靖…」
倉本は友の幻影に、苦笑を漏らした。
初めて会った時、様をつけて呼んだら何故か怒られて、呼び捨てろと言った。
相手は年上の官僚、そんなことは出来ないと反論もした。
だが彼はならば、と笑いながら言ったのだ。
『よし、倉本!今日から俺のことは兄か友と思え!』
その場は呆れたが、その後彼は何かと倉本を気に掛け、本当の弟のように扱った。
からかわれたり、悪態を付いたりしながらも、それが嬉しく楽しかった。
過去の惨劇をものともしないほどに。
いつ間にか三人で居ることが当たり前のような気さえしていた。
だというのに、二年前の事件でそれは突如消えた。
三人で話すことも、逢うことも叶わなくなった。
倉本はふと先程まで共にいた三人目の表情を思い起こした。
「秀隆様のあんな顔、もう見たくない……」
倉本は呟いて、瞳を悲しげに揺らす。
明智本人は気付いていないだろう。
その笑みが無理に笑ったものでもなく、凍り付いているということを。
初めは一族を滅ぼされたことに対し、確かに憎悪を抱いていた。
でも今は、彼のことを良く知っている。
命令に従う中で密かに抗っていることを。
東国の復興を謀っているということを。
そして、笑顔の下に感情をひた隠し、誰もいない処で物に当たっていることを。
どれだけ辛い思いを抱えているかを知っているのに、恨めるはずがない。
長いこと近くに居過ぎたというのもあるが、彼の優しさを知ってしまった。
仕事の時は冷酷で、その実、人を手に掛けた日は一晩中後悔するほど臆病で。
今では生かし、育ててくれたことに感謝している。
その場の勢いで付けた為に単純だが、生き抜くためにと藏木から倉本という偽名と、狐黒という忍び名を付けてくれたのも明智だ。
今や自分よりも他人を思いやる彼を尊敬し慕ってさえいた。
過去に交わした殺すという契約を、今宵言われるまで忘却させていたほどに。
もうそんな気は微塵もなく、今はただ手助けをして支えたいという一心だった。
彼を城という暗い檻の中から救いたい。だけど…。
倉本は胸の前で、拳を強く握り締めた。
「俺は…どうしたら良い?なぁ、桐靖……!」
その悲痛な声は誰に聞かれることもなく、風に流された。
暫らく其処に佇む倉本を、怪しげに輝き惑わす月だけが見ていた。
俺は今もなお、お前の最後の願いを護っている。
でもあの人は日々身を肥し、弱っていく。
肉体が…、精神が…。
それは、もう見ていられないくらいで。
このままでは直きに、心が壊れてしまう。
藤代桐靖……。
お前は秀隆様を救いたいのではなかったのか?
今はただの枷にしかなっていない。
秀隆様を裏切らせず、城に繋ぎ止めておく為のただの籠だ。
お前の選択は誤りではなかったか?
なぁ……
今は亡き友よ――。