第三章 第三幕:契約
何故…
その言葉だけが頭に木魂する
…何故
……何故
二つの気配が奥の部屋へと近付いてくる。
一層近くなり、二人が足を止めたのを感じ取った。
「明智様、此方の方は…」
「っ!何者だ、貴様は!」
一人が少年に気付いて声を上げる。
その声にびくりと少年の頭が揺れる。
だが、彼の位置から少年の全貌は見えない。
目の前には床に膝を付き、少年を護るように抱いた明智がいた為だ。
動かない明智を疑問に思ったのか、何も見えない二人は抜刀した。
何時でも斬れるよう構えを取ると、大きな溜息が聞こえた。
「刀を納めて下さい。この子はまだ戦いの術を知らないんです」
その言葉に従者の二人は、何を言っているのかという顔をした。
刀を納めることはせず、そのまま切っ先を明智へと向ける。
「何故生かすのです?その者は藏木家の者で御座いましょう?」
「幾ら子供とて、それは義政様の思いに背く行為。出世頭である貴方とて許される事では御座いませぬぞ」
かちゃりと刀の鍔が冷たく音を奏でる。
従者達は邪魔な自分より上に立つ若者を体良く殺せるとでも思っているのだろう。
その顔には笑みすら浮かんでいた。
見える訳ではないが、少年にも気配でそれを感じ取れた。
仲間であるのにどうしてという疑問が包む。
現状に陥ってる理由も分からず、微動打にも出来ない。
だが空気を読んでいないかのように、明智からはくすりと笑声が漏らされた。
「何か勘違いをなさっていませんか?この子は私の小姓。藏木家の者ではありません」
明智から発せられた言葉に、門脇は怪訝そうに眉根を寄せ、少年は目を見開いた。
今この状況でそれが通じると思っているのだろうか。
「そのような戯言をっ…!」
頭に血を昇らせた従者二人は、明智に向かって本気で刀を構える。
いつその刀が振り下ろされるのか分からない、一触即発の空気。
それを打ち払うかのように、その空気を作り出した当事者は深い息を吐いた。
「仕方ありませんね…。この子の名は“倉本”。私の小姓であり、密偵です」
「何を…!」
「これは義政様も御存知の事。彼は幼さゆえに周囲から怪しまれることもなく、情報を難なく入手できます。今回彼は私が頼んでいた仕事を終わらせ、早急の報告をと此処まで来たようです」
すらすらと並べられる言葉の数々に付いてゆけず、口を挟む隙間も無い。
振り向いた彼の表情は真剣なもので、門脇と鳥羽は一瞬たじろぐ。
相手は知略で天下に名を轟かせた明智家。
その言葉の影響力は絶大だった。
「だが、そのような話を聞いたことは…」
「これは国に…義政様に関わる重大機密事項。知る者は上層階級の僅かな方々だけです。彼の存在が公になっていては、隠密にはならないでしょう?」
戸惑いながらも切り返す鳥羽に対し、明智は呆れたように言い放った。
門脇と鳥羽は言われた言葉に確かにと考え込んでいると、しかしと声が続いた。
「貴方達は彼の存在を知ってしまった…」
その声は先程とは異なり、低く威圧される声だった。
鋭い眼光を据える明智に、二人は竦み上がった。
参謀と言えども、戦う力を持ち合わせていないわけではない。
時として今のように現場に赴き、残党を断ち切る役割にも廻るのだ。
その力は知力と交わり、武将と同等と謳われており、その上彼の周りにいるのは自分達を軽く打ち首に出来る階級の者達ばかりだ。
とんでもない事を知ってしまったと、二人は明智の視線に冷汗を流して次の言葉を待った。
「貴方達には死んで頂きます!…と本当なら言うところですけどね」
「え…?」
「貴方達の義政様に対する忠誠の強さ、しかと見受けました。貴方達を信じます。彼のことは忘れ、他言はせぬと誓えるのであれば私も上に報告はしません。代わりに貴方達の忠誠の程を上に進言しておきましょう。…どうです?」
ぽかりと口を開ける従者二人に、明智は微笑してそう語った。
自分達にとって好条件にもなる数々に、疑問もなくなり、二人は感謝の礼を述べた。
決して言うことはない、と。
彼に進言して貰えれば、出世も考えられるのだから。
嬉しさに浮かれた彼らは知らなかった。
明智が俯いたその下で、卑下に笑んでいたのを。
「では、私はこの子と共に一度自邸へ戻ります。二人には任務の終了と、私は調べ事が終わり次第向かうと申していたと報告をお願いしたいのですが…」
「「御意。仰せのままに」」
明智の頼み事に一つ返事で頷くと、二人は足早に去っていった。
気配が遠退き、その場にいるのは藏木の少年と明智だけとなった。
明智は息をつくと、抱き寄せていた少年を緩やかに放して微笑んだ。
「もう大丈夫です。あの二人が簡単に騙されてくれて良かった」
少年は未だに訳が分からず、目を見開いて明智を見た。
何故自分に対して微笑むのだろうか。
何故味方を騙してまで自分を助けたのだろうか。
疑問が頭を渦巻く中、少年は明智が左の掌を布で押さえているのを見咎めた。
白布が赤く染め上げられていくのを見て、少年は自分の右手へと視線を落とす。
其処にあるのは血塗られた手と、しっかりと握られたクナイ。
そして、今もなお滴り落ちる鮮血…。
それは明智が一瞬見せた隙に付け入り、突き出した忍び特有の漆黒の武器。
「何で…!」
手を伝う暖かな赤い雫が、歓喜であるはずだった。
男の胸を突き刺し、命を貶めるつもりで仕掛けた。
だというのに、今自分の中に蠢く感情は何なのだろうか。
「どういうつもりだ!?おれは…っ!俺はお前が滅ぼそうとした藏木一族だぞ!?ただ一人家族に護られて、その上敵に助けられたなど一族の恥だ!」
少年の手が意思とは関係なしに震える。
今まで忍びであることに誇りを持って生きてきた。
その家族を殺され、首謀者である男に生かされるなど、死した親族に何と言えようか。
「私が…憎いですか?」
ぽつりと呟かれた言葉に、少年は思い出したように殺気を孕んだ。
そんな少年を見て、明智はふと苦笑を漏らした。
「私にも何故貴方を助けたのかは判りません。ですが聞いて貰いたい事があります」
聞いて頂けますか?と明智は少年に尋ねる。
少年は無言で通し、明智はそれを是と読み取って、口を開いた。
「先程の続きです。貴方に、許しを請うつもりはありません。貴方の一族を滅ぼす為の計画を練った私に、そんな資格は毛頭ないとも分かっていますから」
そういう言葉は先程も聞いた所だ。
ただ…と明智は続けて、俯いていた視線を上げる。
「ただ、貴方には生きて欲しかった。生きて…そして」
私を、殺して下さい…―。
渇いた空気に、その言葉は重く響く。
また少年は思いにも由らなかった言葉に、愕然と目を見開いた。