序章:後編
縄紐で縛られた文は、庭に敷かれた御座の上に乱雑に座らされた。
罪人が処刑される折に座らされる場所である。
周りは武士に囲まれ、幾本か立てられた篝火から薪の弾ける音が木霊する。
幾度と処刑を見せられてきたが、自分が同じようになるとは思わなかった。
だが、まだ納得がいかない。
此処にいることも。
関係のない綾野が斬り殺されたことも。
「文よ。どういうことだ!お前を信じていたというのに!」
前方から声が掛けられ、文はきっと睨み付けた。
其処にいるのは他でもない、自分の愛する夫であった。
「義政様こそ、どういうおつもりです!?私が何をしたと申されるのですか!それに綾野までっ!」
文の目から今更ながら一筋の涙が零れた。
何故という言葉で頭が埋め尽くされる。
浅間はそんなものは見えんというように、捲くし立てた。
「しらを切るつもりか!正午、お前の兄に書を出しただろう!翠昂暗殺計画を阻止するべく、事の次第を報告したのであろう!?」
文はこれ以上ないというほど目を見開いた。
この人は今、何と言ったのだろうか。
殴られたかのような衝撃が奔り、一度全ての体の機能が硬直する。
敬愛する兄の暗殺計画と言った?
急激に乾く口を無理矢理に動かし、文は必死に言葉を紡ぎ出した。
「な、んなのですか…?私は、私は存じませぬ!どうしてお兄様を……!」
「芽が出る前に潰す!それが政であろうが!それを分かっておるくせに告げ口しおって!」
「私はそんなこと致しませぬ!愛する主の政の邪魔をするなど!」
そう。文は翠晃の妹であり、義政の妻だ。
政に口を出すことはしないが、貴族の姫であるからには様々な事に覚悟を決めている。
輿入れした以上、この身は嫁いだ家のもの。
政のために敵対するならば、愛した親族と離縁するのも仕方なし。
それだけの覚悟を持って、文も義政の下へ輿入れしたのだ。
己を納得させるまでさすがに時間を要するものの、決して邪魔をしたりはしない。
「必要ならば旧家を捨てます!夫を支えることも妻の役目に御座いまする!それにあの文は」
「ええい、今更妻などと申すな!所詮は春日の人間!家の為に輿入れし、いずれはこのように裏切るつもりだったのだろう!」
文は言葉も出ずに、下唇を噛み締めた。
浅間はまるで聞く耳を持たない。
話をまともに取り合わず、自分の言いたいことだけをぶちまけた。
今までもこんなふうに思っていたが、言えずにこの気に爆発した感じだ。
その事がわかった瞬間、文の心には哀しさと共に憎しみが湧いた。
本当に文は彼を愛していた。
確かに嫁いだ当初は政略結婚だったため、好きにはなれなかった。
何と言っても、相手は暴君で有名な浅間家。
少しでも機嫌を損ねれば斬り捨てられるという恐怖心しかなかった。
でも実際の彼は、自分に対してはとても優しくて、他では決して見せない顔を見せ、自分にだけ甘えて、そして共に微笑んでくれた。
それなのに、結局は信じてくれなかったのだ。
誰よりも主を思っていた自分より、家臣の言葉を信じて。
今までの態度は全て偽りだったのだ。
文は積もる気持ちを曝け出して叫んだ。
「どうして私を信じてくれぬ!私は今まで貴方を愛し、尽くしてきた!政の事も判る故、たとえ暗殺の事を知っていようとも絶対に洩らしたりせぬ!私の性を解っておられるであろう!?」
おそらくこれで聞く耳を持たなければ、僅かな希望は打ち砕かれるだろう。
一筋でも、自分を信じてくれることを願っていた。
黒い感情を抑えながらも、縋るように返答を待った。
だが浅間はそんな思いなど気付かずに叫んだ。
「黙れ、裏切り者が!お前のような者のいる家系は根絶やしにしてくれる!」
その怒鳴りで文の感情は恨みと憎しみのみとなった。
沸々と湧き上がる始めて抱く感情を抑えきれず、殺気の篭もる瞳で睨み付けた。
こんなに非情で物分りの悪い男だとは思わなかった。
この男が憎い…。
「私の言うことを聞きもせず、根絶やしにするなどと斯様な事を申すとは…。そなたの様な馬鹿には愛する気持ちも、それを裏切られた気持ちもわかるまい」
……憎い。
「何だと?余を愚弄するか!裏切ったのは貴様の方だろう!」
…この男が…憎い!!
文は憎しみに歪んだ顔で、にぃっと笑った。
周りの者は、見たこともない妃の顔に後ずさった。
美しいからこそ恐ろしく、いつもの彼女とは掛け離れ過ぎていた。
「根絶やしになるのはそなたの方ぞ、義政!この屈辱晴らす為、お前の一族を末代まで呪い殺してやるわ!」
文は壊れたかのように高々と笑い出した。
静寂な夜に、その声は響き渡る。
その声はまるで綾野も笑っているかのように、二重に聞こえた。
「は、早くこの者を斬り伏せよ!これは取り付かれた鬼女だ!」
「愚かなり、浅間義政!これは“私”の下した予言!この文を怒らせたこと、死ぬまで後悔するがいい!数多の月光が闇のお前を滅ぼすのだ!」
言葉を言い終わると同時に、文の首が切り落とされた。
その顔は未だにあの笑みを浮かべたままだった。
最後に残した言葉は、呪いのようにその場に居合わせた者達を恐慌とさせる。
だが、それが真実となることを今は誰も知る由もなかった。
この話は家臣の一人の日記によって残されることとなる。
後にそれはこう呼ばれた。
『春日美妃月伝』と――。