序章:前編
この愛が叶うなら
全てを投げ打っても良かった。
そう、命さえも。
それなのに――。
倭六十七年。
秋薫り、鈴虫が涼やかな音色で唄い出す。
赤々と色付いた紅葉が月明かりで照らされ、一層幻想的に存在感を示していた。
樹齢の長いと思われるそれが在るのは市井ではなく、国で頂点に君臨する者の座所。
普段は一目その光景を見ようと静かな真夜中の宮中で、紅葉狩りをする士官が後を絶たない。
だが今日に限っては、人っ子一人現れなかった。
その間、皆は一様に主である城主に呼ばれ、密やかに薄暗がりの一室に集められていた。
広間の上座で傍若無人に座した者は、東国を統括する旗頭・浅間義政。
浅間は怒り任せて手の中の扇を床に叩きつけた。
「何!計画が漏れただと!?」
「はっ!左様で。もう春日翠昂の暗殺は出来ませぬっ」
悪い報告に声を荒げた浅間に、家臣は怯えながらも言葉を返した。
明日の早朝に暗殺する計画であった春日翠昂は、西の一部を統括する人物である。
今はまだ小さな軍勢だが、いずれ西全てを統括するであろう力と技量を備えていた。
自分のとって厄介な存在となる前にと、今回の暗殺計画が持ち出されたのだ。
しかし、どういう経路でかそのことが伝わり、厳戒態勢を布いたらしい。
人の往来が激しく、多くの灯籠が燈されて夜なのに明るい屋敷。
其処には奇襲を掛ける隙などまるでなかったという。
「おのれ……。一体誰が外部に漏らしたのだ」
浅間は怒りを顕わに爪を噛んだ。
どんな理由だろうとも、己の計画にそぐわぬ事をした者は許せない。
そんな中、怯えるように一人が平伏した。
「お、畏れながら義政様に申し上げたきことが御座いますっ」
「なんだ……」
「ほ、本日の正午。文様が翠昂めに書を認め、使いを出したという報告が…」
「何?文が?」
その言葉に浅間は眉を顰めた。
ふと思考を凝らせば思い当たる節はある。
文は浅間の第一の妃で、しなやかで美しい黒髪と綺麗に整った顔をもった、国では随一とされる美貌の姫である。
昔名は春日 文。
暗殺の標的である翠昂とは、真実血の繋がった兄妹であった。
「しかし、文様は義政様の第一妃であらせられるぞ?己の主を裏切るなどと」
「否……、きっと阿奴に違いない。翠昂は文の実兄。何処からか計画を耳にして、助けるために送ったのだ!」
そうに違いないと言ってのけ、浅間は徐に立ち上がった。
家臣からお待ち下さい。という声が次々に上がるも、浅間は聞き入れなかった。
頭に完璧に血が上り、下手人の言葉など耳には入ってなどいない。
浅間は怒りを曝け出して叫んだ。
「文を即刻捕らえよ!私を裏切ったこと、後悔させてくれるわ!」
その頃、文は床に横になっていた。
だがまだ眠りについてはいなかった。
一通の文を何度も読み返し、喜びに浸り、すっかり目が冴えていた。
今朝、久方ぶりに西の都に住む兄から文が届いた。
どうやら昨年召しいれた桂姫との子が生まれたらしい。
その報せが我が事のように嬉しくて堪らなかった。
大好きで尊敬する兄に第一子が出来たのだ。
自分にもまだ生まれてはいないが、その腹の中に小さな命を宿している。
その子には男児であれば兄の名から取って、昴と名付けるつもりだ。
兄からの報告の文には、更にこんな嬉しいことが記されていた。
生まれたのは男児。春日の跡取りであるこの子に、名を付けて欲しい。桂姫もそれを望んでいる、と。
大方名前が決まらず揉めているのだろう。
兄はそういう事においては人と少しずれている。
変な名前を付けられないようにと、桂姫も自分に託したのだと容易に想像できた。
考えた末に、文にはこう書いて送り届けた。
《お兄様から一文字とって、『翠月』というのは如何でしょう?草木の新芽というように、新たな世で正しき道に進めるように。そして月のように全てを照らし、人を魅せる力を持った、人々に希望を与える人物になるように》
文は思い返してくすりと笑った。
本当にこの願いが叶えば良いと思いながら、文を折畳んで懐にそっとしまった。
そろそろ眠ろうと思い至ったその時、外が妙に騒がしくなった。
――いったい何事……?
足早な足音が近付いてくる。
摩るような小刻みな音であることから、女房であるとわかった。
一度ほっと胸を撫で下ろしたが、この騒がしさはおかしい。
訝んで身を起こすと、女房が御簾を撥ね退けて顔を出した。
「綾野……?一体どうしたのです?」
走り込んで来たのは最も信頼する側近の女房、綾野だった。
普段礼儀や規律に厳しい彼女が、自ら破って廊下を駆けるなど余程の事だ。
急いで来たのか息が上がり、肩を弾ませる。
しかし本来なら紅潮してもおかしくというのに、顔は逆に青ざめていた。
それらの様子から、尋常でないことはわかる。
綾野は懐から小刀を出すと文を守るように立つと、刃に震えることなく身構えた。
「文様!お逃げ下さい!此処は私が何とか致しますゆえ!」
「お待ちなさい。一体何があったというのです!」
文には全く状況が飲み込めない。
騒がしいのは中だけのようなので、宮内の問題のようだということしか把握できなかった。
女房は視線だけを文に向けて叫んだ。
「殿が!義政様が文様を、裏切り者を捕らえよと!」
文は目を大きく見開いた。
殿が自分のことを裏切り者と言い、捕らえようとしている。
一体自分が何をしたというのだろうか。
元から短気な方ではあったが、言動には細心の注意を払っていたつもりだ。
そして何より、本当に心から愛する人を怒らせるようなことなどしようとは思わない。
中々動かない文に焦れたのか、完璧に綾野は振り返って文の腕を掴んだ。
「殿は大きな勘違いをなさっておられます!気持ちが昂ぶり過ぎて、正当な判断が出来ていないのです!殿が落ち着かれるまで何処かへお離れ下さっ」
途中で綾野の言葉は途切れた。
赤い霧と鉄の臭いが部屋中に広がる。
目を見開いて首を仰け反らせると、膝を付き、ゆっくりとくず折れた。
「綾野っ!」
文は名を叫んだが、綾野はぴくりとも動かず、既に息絶えていた。
彼女に力強く掴まれた腕に、僅かな温もりだけを残して。
呆然と眺め見ていると、ふいに影がかかった。
ゆるりと顔を上げると、そこには三人の武官の姿があった。
「庇う者は同罪と見做す。文様、我等と共に来て頂きます」
なんの感情も含んでいない声音で淡々と語られる。
そう言った男の手に握られた刀からは、鮮血が滴っていた。
今まで生きていた綾野の血が――。