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胡蝶るり子の睡眠レッスン  作者: 浅野みづと
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バッドエンドの夢をみた

歳の差、大人のおねえさんに憧れて、こつこつ書いていたものです。

筒井康隆の『パプリカ』の影響もろに受けているけど悪しからず。

エピローグ含めてぜんぶで17話。

忘れなければ、火曜日に投稿していきたいと思います。

感想貰えたら嬉しいです。


1.バッドエンドの夢をみた


トーキョーの空がいつ曇ってしまったのかなんて知らない。僕が生まれたころにはすでにハイイロで、いつもしかっめ面の泣き暮らし。その向こう側からやってきた火星人のニチカは、当然宇宙のいろんなことを知っていた。

そのいろんなことを、ニチカはいつも僕に教えてくれた。

『ウチューの奥の奥には、リンゴの木があるんだよ。イチローもボクも、イチローのお父さんとお母さんも、みんなみんなあそこで生まれたんだ。そして死んだらあそこに戻るのさ』

曇り空を指さして、ニチカはえへへと、はにかんだ。僕とおなじ顔、おんなじ声なのに。彼は僕よりかわいらしい。どうしてだろう。笑顔だから? ジュンスイだから? 

『そのもっと奥。リンゴの木よりもずっと向こうにはね。ぴかぴかひかる海があるんだよ。ね。イチロー。いつか二人で、海をさがしにコウカイしようよ』

ニチカはなにげなく言った言葉なんだろうけど。

僕にとってその約束は、もっとずっと大きくて、忘れられなくて、大切なものになっていたんだ。

(アニメ『うちゅうじん!』 第十九話「冒険がしたい」より抜粋)



「僕」は座っていた。絢爛豪華な気味の悪い椅子に。背筋を伸ばし、ぼんやりと虚空を見つめて座っていた。

辺りは一面闇に囲われていた。その闇にはどんよりとした重みがあり、黒く染めた綿と一緒に、瓶詰にされている気分だった。

ふと視線を下にずらすと、西洋貴族の晩餐を思い出させるような食卓が並んでいた。大人数が掛けられる長方形のテーブルに、おそらく白かったであろう黄ばんだテーブルクロス。銀色に光る食器類は一人分しかなく、それは自分の目の前にある。ご丁寧にナイフとフォークが置かれているが、大きな皿の上には何もない。

突然、皿の割れる鋭い音が響いた。

それはナイフのように、辺りの停滞した時間を切り裂いた。皿の音に続き、テーブルを囲むようにして、大勢の人間の談笑する声が響き渡った。

何の話をしているのか、何の言語で話しているのか、それすらも皆目見当がつかない。しかしその姿を視界に入れることは出来ず、声だけが飛び交っている。姿なき彼らが笑い声をあげるたびに、身体は返事をするように勝手に笑う。

やがて鶏肉を焼いたような香ばしい匂いが辺りに立ち込めた。何も無かった皿の上には、皿からはみ出る程大きな肉片が乗せられていた。肉片は細長く、一方の先は太く、もう一方の先は細かった。細い方の先端は、それぞれ長さが違うが五つに裂かれている。

「――…………」

紛れもない「僕」の腕だ。肉片が何の肉か気づいた時、誰かが耳元で「めしあがれ」と囁いた。しわがれた暗い女の声だった。

耳元で言われたのがこそばゆく、その声を発した誰かを振り払おうとして、僕は自分の右腕が、目の前の皿のうえに乗っていることを思い出した。

「これじゃあナイフが使えない」

冗談めかして呟くと、テーブルを囲む彼らが悲鳴のような笑い声をあげた。今までにないその嬉しげな歓声に、「僕」の心は満たされていく。

腹が減っているわけでもないのに、皿の上の自分の右手がおいしそうに見えていた。きっと爪は歯で砕くたびに、ビスケットのような甘みを溢れさせることだろう。調理済みの肉は舌の上で綿菓子のように溶けていくだろう。

しかし、慣れぬ左手でフォークを掴み、右手に突き刺そうとしたところで、恐怖心が戻ってくる。

「怖い――誰か助けてくれ。誰でもいいから」

声を出そうにも、口は縫い付けられたように動かない。

いつもの夢だ。いつも見ている夢。気付いた時にはもう遅く、声にならない叫び声を「僕」はあげ続けた。……いつもはそこで肉にフォークが刺さるのだが、今日は様子が違うようだった。


いつのまにか目の前の席に、一人の女が座っていたのである。


見ず知らずの知らない女だ。白いワンピースを着て、長い黒髪をそのままに背中に流している。そして少しうつむいた姿勢で、「僕」のことだけをじっと見ていた。

怪我をしているのか、額に包帯をぐるぐる巻いて、片目もガーゼで覆われている。肌の露出している部分はたいていガーゼか絆創膏が貼ってあって、痛々しい身なりだった。

そんな見た目とは裏腹に、彼女は天真爛漫な笑みを浮かべている。いささか奇妙で、気味が悪い。それでも「僕」は、彼女は「僕」を助けに来た天使だと思えた。

無理やり手を開いてフォークを落とす。そうして左手を女の方へと伸ばした。「たすけて」と口を動かすが、一度目は声が出なかった。

「お願いだから助けて!」

それでも叫ぶと、二度目は声になって辺りに響いた。期待を込めて女の方を見やると、彼女の笑みが消えていた。代わりに、驚いた表情でこちらを見つめていた。

――私に、私に言ったの?――

女の見開かれた片目から朝露のような雫がこぼれ落ち、白い頬を伝っていくのが見えた。きれいだな。と思ったのと同時に、泡沫がはじけるように眠りから覚めた。



雛見中ひなみあたるは、今年の四月に高校生になったばかりの、何の変哲もない一見真面目な少年である。

黒い学生服の襟元までしっかりとボタンで留め、短い黒髪は襟首に届かない場所でしっかりと揃えられている。悪目立ちしている訳でも影が薄い訳でもなく、クラスに程良く馴染み、教師受けも良い。そんな彼は現在とある現象に悩まされていた。

「お前最近どうしたんだ? 最初は真面目にやってたのに。六月に入ってから授業中に寝るわ。起きてると思ったらずっとぼんやりしてるわ……真面目なお前が珍しい」

腕を組みながら椅子に座る中の担任は、心底不思議といった口調でそう言い散らかした。中は思わず睨んでしまいそうになるのを抑え、小さく「すみません」と呟いた。

教卓の目の前の席に座り、背筋をしゃんと伸ばし、何度も黒板と白いノートを交互に見ては静かに板書していた中は、教師の間で頻繁に話題にあがるほど目立っていた。

アーモンド型の大きな目に、筋の良い鼻、思春期特有の肌の荒れが一切ない奇麗な顔が、余計にそれを助長していた。簡単にいえば「かわいいかわいい」と一部の教員に持て囃されていた。

そんな雛見中が、じめじめした季節を迎えた途端、頻繁に舟を漕ぐようになった。当然教員の間では事件のように扱われ、ついに中はずんぐりむっくりな担任の如月に呼び出されたのである。

 お湯を沸かすサイフォンの音や、点けっぱなしのパーソナルコンピューターのモーター音。担任の口から発せられるねとついた中年の声だけが、閑散とした職員室に響いていた。

校庭に面した大きな窓の向こうで、朝から降り続く雨が地面をどろどろに濡らしているのが見えた。空を覆う暗雲によって辺りは一面夕刻のように薄暗い。

「心配事か? 悩み事か? 相談ならいつでも乗るぞ?」

 ふんぞり返っていた身を乗り出して、担任は中に顔を寄せた。四十歳に差しかかろうとしている油ぎった彼の顔には幾つかのニキビと、肌の凹凸がある。中は胸中で嗚咽を洩らす。

「なんでもありませんよ」

作り笑いを浮かべながらも、担任がミリ単位で動くたびに中のなかで罵詈雑言が飛び交う。自分の担任が嫌いな訳ではない。しかし一刻も早く家に帰り、寝台の上に飛び込みたいという願望が、放課後に職員室に来いと呼びとめ、長々と説教をする担任への憎しみに変わっただけだ。

「もう帰ってもいいですか?」

中はそう言うと、担任の返事を聞かずに立ちあがった。

「まだ話は終わってないぞ」

「今日、塾の日なんですよ。これ以上話していたら間に合いません」

「……そうか。もう帰ってもいいぞ」

塾という言葉が決め手となった。嘘だけどね、と担任を見下ろしながら、中は口の端を上げた。

「心配してくださり、ありがとうございました。これから眠らないように気をつけますね。それでは失礼します。如月先生また明日」

「……気をつけて帰れよ」


雨のせいでグラウンドを使えない運動部が、渡り廊下で声を張り上げてトレーニングしているのだろう。職員室から出ると、居残りや部活などで残っている学生達の賑やかな声が反響して聞こえた。中は職員室の扉を最後まで閉め切ると、静かにため息を吐いた。

「あっ、中ちゃん」

下駄箱のある玄関口にまで来たところで、中は女子生徒に呼び止められた。

「六条さん」

立ち止まり女子生徒の名前を呼ぶと、彼女は口の両端を上げてはにかむように笑った。同じクラスの六条澪である。長い髪をおさげに結び、真一文字に切り揃えられた前髪のすぐ下には黒縁の眼鏡が光っている。セーラー服のスカートを、規定の長さである膝下まで下ろし、学校指定の白ソックスを履いた彼女は、中と似たような存在だった。

学級委員長を教室から男女一人ずつ選出する決まりによって、同じ役職を持つ二人が存在することになる。そのうち女委員長を六条澪、男委員長を雛見中が務めている。どちらも真面目な制服の着こなしによる弊害によって、委員長に推薦された身である。当然話す機会は増え、雛見中と六条澪は自然と仲良くなっていった。

「いま帰り? 先生の話終わったんだ」

「うん。それにしても参ったよ。居眠りなんて、僕以外にもやっているヤツなんて大勢いるのに」

皮肉めいたように中が笑うと、澪の唇はつられるように弧を描いた。

「今日も寝てたでしょう? 目立ってたよ」

「目立っているつもりはないんだけどね」

「自然と目立っちゃうんだよ……夜更かしでもしてるの?」

「まあね。睡眠時間削ってゲームやってるから、そのつけが回ってきてるって感じだよ」

「なんだか……心配して損した気分」

 心底呆れたとばかりに顔を歪めた澪は、大げさに息を吐いた。ころころと表情の変わる澪に、中が声を出して笑うと、先ほどと同じように澪も微笑んだ。

 肩を揺らし笑いあっていると、地響きのような雷鳴が突然空気を揺らした。雨音の激しさが増した気配を感じ取り、二人は顔を見合わせた。

「中ちゃん、ちゃんと傘もってきた?」

「折りたたみ傘だけど持ってるよ」

中は鞄につまったプリントの合間から折りたたみ傘を取りだした。その様子を静かに眺めていた澪だったが、下駄箱に向かって歩き出しそうとしている中に、意を決したように声をかけた。

――一緒に帰らない?――

雨にかき消されそうなくらい弱弱しい小さな声だったが、中の耳にははっきりと聞こえていた。ついでに伸ばされた手を気づかれない程度に避けると、中はそっと息を吐いた。

胸中で面倒くさいなと唱えつつも、中は実際に声を出すことはしなかった。普段の「雛見中」であったら、彼女の誘いに乗っていたかもしれない。だが中は普段通りとは言えない状況である。

「一緒には帰れない。これから塾なんだ」

 申し訳なさそうに両手を合わせて言った中に、澪は案外簡単に身を引いた。


ようやく学校の外に出ると、雨の激しさは更に増した。大粒の雫はグラウンドの土をめくり、茶色い濁流のような水の流れは、泥を下方へと押し流している。そんななか、泥が跳ねて制服が汚れるのも厭わずに、中は足早に進んで行った。

四方を薄暗い森で囲まれたアメノモリ町は、夏は蒸すように暑く、冬は凍えるように寒い。梅雨の時期の湿度は異常で、濡れた空気と生暖かい風は人を不快にさせるには十分すぎる程のものだった。それに加えて睡眠不足による苛々で、中の心情は荒れに荒れていた。

中の寝不足は、日常生活において多大なる損害をもたらしていた。過度な苛々や集中力の散漫。記憶力の低下。それらは客観的に見ても明らかなようで、今日に至るまで幾人もの人に「寝てないの?」という質問を受けていた。

不眠の原因は他人に教えるにはあまりにも幼稚すぎるもので、心配している母親のリョウコにも相談できずにいる(母子家庭であるが故に、あまり心配させたくないというのもあるが)。

「それにしても、すごい雨だな」

 立ち止まって傘の下から空を見上げると、鼠色の暗雲から雨粒が降ってくるのが見えた。

傘の先から滴り落ちた一粒が鼻先に落ちて思わず「冷たい」と呟くが、町を行き交う人々は誰一人して立ち止まらない。自分のことで精一杯で、他人のことなど構っている暇はないのだ。歩き出そうと足を踏み出した中は、視界の隅に映った「それ」に驚き、再び足を止めることになった。

 女がいた。

アメノモリ印刷所と書かれた古びたビルの屋上に、だ。四方を囲む緑色のフェンスに腰かけて、ぼんやりと空を眺めているようだった。女の長い黒髪が頬や首筋にぴったりと張り付いている。傘もささずに、ひたすら雨に打たれる様は異様だった。

「――……ジサツ」

ぼそりと呟くがやはり立ち止まる者はいない。屋上の女が何を見て何を考えているのか分からない。ふらりと女の身体がかたむいたのを見て、中の心臓はどくりと脈打った。

気づけば女の落下地点であろう場所に駆け出していた。自分でも自分がなにをしようとしているのか分からなかった。それでも足は止まらない。

 ここだ! という場所で足を止め、再び屋上を見上げるが、そこに女はいなかった。もちろん下にもいない。女の姿はすっかり消えていた。

「……なんだったんだ」

 中は道に転がる石を一つ蹴とばすと、心臓の高鳴りが静まるのを待った。


数分の距離を足早に進んだため、その後はすぐに帰宅することが出来た。玄関先で傘に着いた水滴を乱暴に振り落とすと、扉に鍵を差し込んで乱暴に開けた。

自室に入ると鞄を床に投げ捨てた。開けっぱなしの鞄の口からプリントが溢れるが、気にせずにベッドに仰向けに寝転んだ。鼻で深呼吸をすると自分の匂いと布団の匂いが入り混じったものが鼻孔をくすぐった。匂いは、心地よい眠りの世界へと中を誘う。

……ここまでは良いんだ。水に絵の具を垂らしたような、世界が滲んでいく眠りへの感触はある。眠りに落ちる瞬間の快感もあるのだ。そんなことを考えながら目を閉じた中だったが、数分後にはいつものように飛び起きることになる。


跳ね起きるように身体を起こした中は、乱れた息を落ち着かせるために何度も深呼吸を繰りかえした。全身に冷えた汗をかき、心臓は早鐘を打っていた。

――また夢をみた。悪趣味な夢。怖い夢。悪夢――たかが夢だが、それは連日の不眠の原因だった。毎晩ゲームをしているからでも、勉強に精を出しているからでもない。同じ内容の悪夢が、眠りについた中をたたき起こすのだ。

もはや毎晩どころではない。悪夢は場所や時間に関係なく、中を眠りの世界から締め出してしまう。今日だってそうだ。学校で居眠りをしている時にも同じ夢をみた(いつもと様子が違うようだったが)。このままでは不眠で死ぬかもしれない、という恐怖が、ついて回るようになった。

窓の外は真っ暗だ。雨はいまだ止まず、心の欝憤を具現化したかのようだった。もう一度眠りにつけば夢の続きを見てしまいそうで、瞼を閉じる気にはなれない。仕方なく天井の木目を見つめていると、階下から母親のリョウコの呼ぶ声が聞こえた。


階段を下りると、玄関でリョウコが客人にタオルを渡していた。リョウコも多少雨に濡れていたが、客人はその比ではなかった。白いワイシャツやらスカートやらが、水に濡れて色が変わっている。

「中。ありったけのタオル持ってきて」

脱衣所の棚に詰まれたタオルをすべて持ってきて渡すと、客人は小さな声で「ありがとう」と呟いた。寒さに震えた低い声だった。

髪を一つにまとめた客人は、タオルで水分を飛ばしていた。長い黒髪とOL風の制服に、ふと帰り道で見た屋上の女を思い出した。しかし「先程の自殺志願者ですか?」などと聞くわけにもいかない。身体を拭いている客人を見つめていると、風呂を沸かしに行ったリョウコが戻ってきた。

「大丈夫? お風呂沸かしたから入って。着替えも置いとくから」

リョウコに手を引かれ、靴を脱いだ客人はそのまま風呂場に連れて行かれた。女が通った道は、雫によってもれなく濡れていた。

「あいつはナメクジか」

 文句を言いながらも濡れた廊下を拭いていると、脱衣所からリョウコが出て来た。

「なんであの人びしょぬれなの?」

「あの子を迎えに行ったときにはもうああだったのよ。傘でも壊したんじゃない? それより、私は夕飯を作るから、中はあの子の服を乾かして」

そう言うとリョウコはさっさと台所へ行ってしまった。中はため息をつくと、客人が湯船に浸かっている間、服を乾燥機にかけたり靴をドライヤーで乾かしたりと、そこそこ忙しくしていた。

しばらくすると夕飯の良い匂いが鼻腔をくすぐった。

ダイニングの扉を開けると、風呂からあがった客人が椅子に座っていた。青白かった頬が桃色に染まっていて、幽霊のようだった姿は人間じみたものになっている。乾かされた髪はところどころカールがあり、純粋なストレートではなかった。

「服、ありがとう」

客人は中を見ずに、小さな声で言った。キッチンにいるリョウコはカレー皿にご飯をよそっている最中で、こちらのことを気に掛ける様子はなかった。

「いえいえ」

そっけない口調で返し、中は客人のななめ向かいの椅子に座った。それから会話はふっつりと途絶えた。胃の辺りが痛むのを感じ、中は無言でリモコンに手を伸ばした。

「見たい番組があるんだけど。いいかな?」

 目まぐるしくチャンネルを変える中に、客人は思い切ったように呟いた。

「いいですよ。なんの番組ですか?」

「『うちゅうじん!』ってやつ。いつも見ているの」

 あの子ども向けのアニメか、と中は苦笑いを零し、チャンネルを変えた。

アニメ『うちゅうじん!』は、宇宙人との出会いを描いた子ども向けの番組だった。中も一度だけ見たことがあるが、子供だましの内容に視聴を断念した。二十代前半であろう客人が、無言でそのアニメを眺めている様子は、なんとも言い難いものである。

「――ずいぶんと、気味の悪い夢を見ていたね」

しばらくして客人は不意に言葉を吐いた。客人に目を向けると視線が絡んだ。二つの黒い瞳が、中を静かに見つめていた。客人の言った言葉を聞き返そうとしたところで、カレーが乗ったお盆を持って、リョウコがリビングに入ってきた。

「はーい、おまたせ!」

 食卓にカレーが並ぶと、リョウコと客人の間に会話が始まり、中は先ほどの言葉の真意を聞く機会を失ってしまった。


リョウコと客人の会話を聞きながらも、中は瞼が重くなるのを感じた。スプーンを口に運び、咀嚼する。その繰り返しを機械のように行っていると、ななめ向かいに座る客人と再び目があった。

「あたる」

リョウコに名を呼ばれ、中はさっと目をそらした。

「紹介が遅れたね。この子は胡蝶るり子ちゃん。私の同級生の娘さんなの」

紹介されたるり子は、小さく頭を下げた。つられて中も頭を下げる。

「中のために呼んだのよ」

「僕のため?」

「るり子ちゃんは魔法が使えるの」

「はあ? 何言ってるの母さん」

突拍子のない言葉に、中は身を乗り出して声をあげた。

「魔法と言ってもいいし超能力って言ってもいい。とにかくるり子ちゃんはね、すごい力があるのよ」

「へえ……一応聞くけどどんな力なんですか?」

 笑いそうになるのを堪えながら、中は話を合わせた。問われたるり子は頼りなくぱちぱちと二回ほど瞬いた。その姿が昼間の悪夢のなかに現れた傷だらけの女の姿と重なり、中は唇を歪めた。

 私は――と言葉を発したるり子を遮るようにして、中は大きな声で「ごちそうさまでした」と言った。すぐに席を立つと皿をキッチンに運び、呼び止めるリョウコの声を無視して二階の自室へと向かった。そして寝床に寝転がると、すぐに目をつぶった。



「僕」は夢を見ている。

目の前の銀の皿。千切れた腕。その腕を乱暴に掴んで口に運ぶ自分。それが義務であるかのような躊躇いのない動作。

本当ならここで覚めるはずが、今日は覚めなかった。「いつもと同じ夢」と思っていたが、少し違うようである。二度目の変化だ。

食卓を囲んでいた人々の気配や嫌な匂いが少しずつ消えていった。さらさらと新しい空気が循環を始めていた。辺りは相変わらず暗闇に包まれているが、どんよりと濁った黒ではなかった。どちらかといえば晴れ晴れした、いまにも朝日が昇りそうな明け方の色である。目を凝らすと、テーブルの上で「誰か」があぐらをかいて座っているのが見えた。

「――きみ」

 そいつは「僕」に声をかけて、テーブルのうえで立ち上がった。ほっそりした足は女の脚の形だ。

「きょうのお夕飯はなんだった?」

はっきりとした女の声が耳の奥で響く。「僕」はぼんやりと女の問いに答えて、カレーと呟いた。


「僕」が答えを口にした瞬間、ガラスが砕けるようにして闇が崩れ落ちていった。

次に目に入ったのは、写真などで何度か目にしたような月面の原風景だった。白い砂のざらざらした感触を尻の下に感じた。「僕」はでこぼこの月のうえに正座をしていた。

宇宙は静寂に包まれているが、時々流れ星の通り過ぎる音が聞こえてくる。目の前にあった豪華なテーブルは庶民的なちゃぶ台に変わっていた。ちゃぶ台の向こう側には一人の女がいた。

おかしな夢だと、「僕」はけらけらと笑った。白いタートルネックに黒のズボンを履き、行儀よく座っている女は、首から先が狂っていた。本来なら顔にあたる部分に、電子レンジが嵌められているのだ。電子レンジ越しに見える青い地球が、この状況をより陳腐なものにしている。

「カレー食べる? このなかにあるよ。食べるときは温めて」

女が喋った。女は自らレンジの扉を開けて、ラップをしたカレーが入っているのを見せた。

「食べようかな。お腹が空いているんだ」

「僕」は扉を閉め、温めボタンを押した。機械音とともに四角形の箱は橙色に光り、なかのカレー皿がくるくると回りだす。やがて甲高い電子音が鳴って温めが終わった。温めなおされたカレーは白い蒸気を出し、米粒は美味しそうに一粒一粒輝いていた。

手を合わせてカレーを口に運んだ。黙々と食べていると、女が話し始めた。

――君、このままじゃあ殺されちゃうよ――

レンジ頭だというのに、女の微笑む気配がした。

――君が私を呼んだんだ。だから私はここにいる。君の血の一滴のなかにも君のみる夢のなかにも私はいて、君が助けを求める限りいつでも君のそばにいる。君を守るヒーローになるよ……そうだな、君に夢の見方を教えてあげる。健全で快適な眠りを得るための授業だよ――

黙々と米粒を口に放りこみながら、「僕」は女の言葉に耳を澄ませていた。

「どう? 授業を受けてみる?」

身を乗り出して聞いてくる女に、靄のかかった頭で「受ける」と答えていた。空いた腹さえ満たされれば「僕」は何でも良かったのだ。そんなことは露知らず、女は嬉しそうに声をあげた。

「さっそく始めようよ!」

意気揚々と女は背筋を伸ばし、はりきったようにそう言った。

「私は、いったい誰でしょう?」

女の問いに、またも「僕」はぼんやりと答えていた。口を開き、ゆっくりと女の名前を紡いでいく。

いつのまにか電子レンジ頭は消え失せ、目の前には本来の女の顔があった。地球から昇る太陽の光を背中で受けとめ、彼女の髪が薄い水色に輝いた。きらきら光る海のような色だった。

「――……るりこ」

逆光のなかで、柔らかく微笑む女の顔が見えた。



 中が目を覚ますと、開けっ放しにしていたカーテンから鋭い刃のような朝の光がさしこんでいた。朝まで寝たのは久しぶりだった。

「おはよう。良く眠れたでしょう」

突然響いた声に、中はベッドから飛び起きた。

ベッドのうえで足を組んで座っていたのは、昨晩お客だった胡蝶るり子だった。会社の制服であろうブラウスとスカートだけを着て、たおやかに目を細めていた。

――こんなに眠ったのは久しぶりでしょう。気持ちがいいでしょう? たくさん眠るのは――

中の文句を遮るように優しい声が響いた。雨はいつの間にか止んでいた。久しぶりの、気持ちの良い朝の目覚めだった。


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