第41話 桐の箱
チャイムが鳴って、今日の授業が終わった。
まだ学級会も始まらないバタバタしているところへ、事務の先生が電話がかかってきたと呼びに来た。
いつもなら子ども達はめいめいロッカーからランドセルをとってきて帰り支度をはじめ、春樹は、明日の連絡を黒板に書いたり、そのあとの終わりの学級会を子ども達が進めているのを見守って、教室から全員が出て行くのを見送る。
もうすぐ下校だから着信を入れておけばいいのに、それを待てずに学校に電話がかかってくるなんて、めずらしい・・。なんとなく嫌な感じがして、事務室の電話へと走った。
イズミさんからだ。
「今、マキノちゃんを病院に連れてきてるの。お店であんまり元気がないからどうなのかなと思ってたら、おなかが痛いって言いだして。すぐに走ったんだけど、ちょっとまずいことになってるかもしれない。春ちゃん、気持ちをしっかり持って。なるべく早く来てあげて。今、2階の産科病棟のナースセンターの隣の部屋にいる。」
「まずいことって・・・」
縁起でもないことを・・・と思った後、イズミさんはそんな非常識な冗談を言う人ではないと思い、一瞬で心臓が冷たい水を浴びたような感覚に陥った。
「わかった。なるべく早く行く。」
マキノ自身のことなのか、おなかの中のことなのか・・。
くっ・・・
妻が病院に運ばれたので、と校長にクラスの子ども達のことを任せて、自分は学校を飛び出した。
イズミさんに言われた病棟まで走り、ナースセンターのほうに向かっていると、その隣の部屋の開いた扉の中にイズミさんの姿が見えた。マキノは奥にいるのだろう。こちらからは見えない。
イズミさんはこちらに気づいて立ち上がって、看護師に「こちらがご主人で・・。」と説明している。自分が来るのを待っていたんだろう。軽く会釈すると、医師のいる部屋へと案内された。
医師は、おなかの中で胎児が死亡していたことと、それを早く取りださないと母体の今後に関わってくるということをを告げた。
何を言われても、受け入れるしかなかった。
不謹慎かもしれないが、マキノ自身が無事だったことに、ひとつホッとした。
しかしこれはこれで最悪の事態だ。・・マキノはどうしているんだろう・・。
「イズミさん、電話ありがとう。・・マキノはどうかな。」
「少し混乱してたけどね、今は静かにしてる。」
「・・・お世話になってすみませんでした。」
イズミさんは、心配そうな顔で、いいえ・・と言った。
「春ちゃん。寛菜と菜々が帰ってくる時間だから、悪いけど家に帰るわ。春ちゃんが帰るときは、うちに寄ってね。」
マキノのそばにいてくれたイズミさんに感謝しながら、春樹は黙ってうなずいた。
「入るよ。」
カーテンの中に声をかけて、返事を待たずにそっと開けた。
マキノは、上半身を少し持ち上げた状態のベッドに寝かされていて、窓の方を向いていた。
緩慢な動作でこちらを向いた。
自分を見つめるその目が、何もかもをあきらめたようにも、何かを怖れているようにも見えた。
「・・・ごめ・・んなさ・・」
そう言いかけたマキノは、最後まで言えずに顔を自分の手で覆った。
手が、小刻みに震えていた。
手で隠された目元から、あふれた涙が流れて落ちるのが見えた。
泣くのを我慢して、声にはならないが、ひくっとのどがゆれる。
・・・痛々しかった。
あやまることなどない。誰も悪くない。仕方ないんだよ。
そうは思っても、何も言ってやることができない。
どうしようもなかった。
守りたいものがあっても、守れないときがあると思い知る。
マキノも自分もこの痛みに向き合わなければいけない。
今、オレにできることは、なんだ?
マキノのそばにいることしかないのか。
ふいに、マキノが涙にぬれた顔を見せた。ベッド上から伸びている線についたボタンに手を伸ばそすそぶりを見せた。
「ナースコールを・・。」
春樹は、マキノの手が指したそのボタンを押した。
看護士が来ると、マキノが能面のような顔で「コボレソウ、デテシマウ。」と言った。
なんのことかわからなかったが、自分はカーテンの外へと追い出された。
しばらくすると、看護師が洗面器のようなものを持ってカーテンの中から出てきた。
ちらりと血の塊が見え、ギョッとした。
「これは、自然にはがれてきた子宮内のもので、この中に赤ちゃんはいないから。もうすぐドクターが処置しに来てくれるので、このままお待ちくださいね。」
と看護師が言った。
マキノが寝かされていたナースセンターの隣の部屋は、処置室も兼ねていて、分娩が複数重なった場合には分娩室にも変わるらしい。そのまま自分は部屋からも追い出された。
どれぐらい経っただろうか。自分が思っていたよりも早く「終わりましたよ。」と先に看護士が出てきて、その後からマキノも動くベッドに乗せられたまま出てきた。
普通の病室に移るらしい。
部屋に2人だけになると「ごめんなさい・・。」またマキノが言った。
春樹はマキノの手を取った。
が、マキノの手はいつもと違って力なくだらんとしていた。
「マキノがあやまらなくていいんだよ。・・おなかは、痛い?」
「うん・・ちょっと痛い。・・学校は?」
「イズミさんが電話くれたときちょうど授業は終わったんだ。学級会は校長に頼んできた。」
マキノはかすかに笑った。
「今何時?・・おなか減ってないの?」
「6時半。腹はちょっと減ったかな。」
「帰っていいよ。」
「・・・追い返すなよ。せっかく来たのに。」
「・・・。」
冗談を言ってみたが返事がなかった。
マキノはちゃんと元気になるのだろうか・・
いや、きっとすぐに元気になるだろう。表面は。
無理して笑うのだ。
忘れたような顔をして、元気に仕事をするようになるだろう。
マキノは、一人で痛みと後悔も抱えようとするだろう。
自分は、そんなマキノを支えきれるのか?
守ると決意したのに、一緒に幸せになると決意したばかりなのに。
コンコンとノックの音がして、看護士が病室へと入ってきた。
10cmほどの白い木の箱を持って。
マキノはそれを見てびくっとし、一度目をそらし、おどおどと視線を泳がせた。
看護士は、春樹が立ちあがったので、そっと箱を開けてその中を見せた。
春樹は、その中をしばらく見つめてから「はい・・」と静かに返事をした。
看護士は蓋を閉めて春樹にそれを手渡した。
「見せて・・。」
マキノは春樹の持つその箱へと手を伸ばした。
春樹はゆっくりと首を横に振った。
「マキノ。いいかい?」
「・・・?」
「オレは今、マキノはこの子の姿を見ないほうがいいと思っている。」
またマキノの目が力を失くして焦点が合わなくなった。
迷いがあるのだろう。
「本当は、自分の判断が正しいかどうかわからない・・。」
赤黒く小さい、形にもならないものの姿を、マキノの記憶に残したくないと自分が思うのは、本当は傲慢な事なのかもしれなかった。黙ったままのマキノが、迷わないように、もう一度言葉を固くした。
「マキノに一生恨まれるかもしれないけど、今は、オレが引き受ける。」




