第37話 千尋さんのお掃除
千尋は、今日は少し早めに出勤することにした。
昨日早引けをして迷惑をかけたかもしれないという気持ちが手伝ったのだ。
主婦たちの出勤時間は、9時になっている。厨房に入る男の子たちよりも少し遅い。
「おはようございまーす。」
「おはようございます。昨日は何かあったんですか?」
玄関を開けて元気よく挨拶をすると、マキノがすかさず聞いてきた。
「いやいや、どうってことはないの。迷惑をおかけしてすみませんでした。」
「昨日はそんなに忙しくなかったですよ。だいじょうぶ。」
ヒロトが返事をした。
「わたしも遅刻に早引けですからね。」
とマキノも笑った。
「いやあのね、ちょっとおじいちゃんが粗相をしてしまって大変だったのよ・・。」
昨日、家から千尋にかかってきた電話は、舅からだった。
姑はソーイングの習い事で留守になるので、舅はテレビを見ておとなしくしているはずだった。ただ、普通にトイレで用を足そうとして、大きい方を失敗してしまったらしい。
情けない声で助けを求める舅をなだめて、千尋が慌てて家に戻ると、自分で何とかしようとした形跡か、トイレットペーパーを大量にほどいてあったり、雑巾をさがしたのか、あちこちの棚が開いていて、自分の気がつかない間に、いろんなところを汚していて、便器、下着、ズボン、ももひき、セーター、トイレの床とドア、そして廊下と電話の受話器にまで、あちこちに飛び火していた。
舅は自分で被害をどんどん拡大して収拾がつかなくなり、たまらず息子の嫁である自分に助けを求めてきたのだ。
妻である姑より、自分に電話してきたことが意外であったけれども、不思議と嫌な気はしなかった。
「それは大変でしたね・・。」
マキノが、同情ともなぐさめともつかない言葉をかけた。
しかし千尋にとって、掃除することはさほど大変なことではなかった。
「おじいちゃんね、千尋さんすまんなぁすまんなぁわるいなぁって、何度も謝るの。わたし、えらそうに怒られているよりずっと気分が良かったのよね。」
舅は、頑固で、いつも不機嫌で、ずっと煙たかった。
若い頃は、仕事でも生活でも甘えのない規則正しさがあり、どんなことにも責任感を持ってあたる人だったと言う。家族や子ども達に対しては、いいかげんなことをしていると怒られたと、夫や姑もこぼしていた。
きっと、かなりのプライドがあっただろうと思う。
年をとって自分の思うように体も動かなくなって、歯がゆいであろう。
「わたしのような出来のよくない嫁にこんな世話をかけてって、そりゃすごく情けなかったでしょうね。自分のできなさがショックだったろうなって思う。
今回はさすがにちゃんと認めたし、ごめんなさいが言える人だったんだなってわかった。
年を取るって、残酷だなって・・そう思ったら、わたし泣けてきちゃってね。やさしくしてあげなきゃいけないなって。いくらでも世話してあげようって思えた。だから汚いのも臭いのも、全然辛くなかったの。」
「千尋さん。尊敬します・・。」
「うん・・すごい。下の世話とか考えたら・・親でも引いてしまうと思う。」
「まぁヒロト君たら。あははは。」
あっちこっちを洗剤で拭いて、水で拭き取って、漂白剤とアルコールとで消毒して、消臭剤をスプレーして、トイレも床もピカピカになった。衣類も洗濯してきちんと干した。セーターはもともと少しくたびれていたから、それは捨てて新しいものを買ってあげると約束した。
家がきれいになって、舅は、ほっとしたようだった。
気分が良かったので、そのままの調子でキッチンやリビングも掃除をして、いつもは姑に任せている舅の部屋も掃除機をかけてきれいにした。
もちろん笑顔で。
舅とはあまり仲良く話したりしてこなかったけれども、部屋の掃除をしている時に世間話もした。今のカフェの仕事のことも教えてあげた。
「お義父さん。今わたしがやってるお仕事は、とても楽しいんですよ。そこでおいしいコーヒーの淹れ方も教わったんです。今日はお義父さんの電話がかかって来たから早く帰らせてもらったけど、もうしばらくこのまま続けさせてくださいね。」
「ああ。楽しいならよかった。近ごろ忙しそうにしているのに本当に悪かったね。」
「はい。家のこと疎かにならないようにがんばります。」
「千尋さんは、いつもがんばっているなと思っていたよ。」
「え・・」
ああ・・この人は。わたしが仕事をすることを尊重してくれていたんだ。
そういえば、仕事に出るようになって時間が限られてからのほうが、ずっと家にいた時よりもよほどてきぱきと家事をこなしているように思う。
そのこともちゃんと評価してくれてたんだっていうことが今の言葉で伝わってきた。
まったく言葉足らずだから、こちらにはどんな気持ちも伝わっては来なかったけれど、20年以上も、頑固じじいって思っていた私よりも、舅のほうが人に対して公平な気持ちを持っているんじゃないのかと見直してしまった。
ことが全部収束してから帰ってきた姑も夫も、舅の正直な申告により事実はちゃんと伝わり、さんざん恐縮しそして感謝してくれた。
年寄りなんだから世話をして当然だ。今までもずっとそう思ってはいた。
困ったことがあれば助けてあげなくちゃと思う。家族だから。
けれども、あたりまえの顔をされると、元気が削れてくる。
たった一言ありがとうと言ってもらえたら全然違うのに。
そんんことで、今日は気分よく出勤できたし、そのままの調子でお弁当を詰めている。
カランカラン
「いらっしゃいませー。」
お客様が来た。
「千尋さん、オーダーのほうお願いできますか~。」
「了解です~。」
かっこいいサイフォンでブレンドコーヒーを淹れる。
お湯がロートを上がっていって40秒。コーヒーの粉がフクフクしたところを、コーヒーのエキスが充分に出るようにヘラでくるくるとかき混ぜる。この動作がとても好き。今度こんなサイフォンを買おうかしら、そうしたら家でもこんなおいしいコーヒーが飲める。
白いシャツと、黒いパンツ。若い子達とおそろいのカフェエプロンをしている自分は、この中では一番年は取ってるけど、ちゃんと仲間に見えると思う。
こんな私を、夫や息子たちは、どう思うだろうか。
最近は、マキノちゃんや遊君から、サツマイモやリンゴを使った秋のスイーツの作り方を教えてもらっている。ヒロト君は和菓子も作れるらしい。
マスターしたら、家族に食べてもらおう。
そして、サイフォンを買おう。
夫と舅と姑に、おいしいコーヒーを私が淹れてあげようと思う。




