第34話 しあわせの、線
10月。
春樹さんの学校は運動会が終わったが、遠足やスポーツ大会等、行事が多くて忙しいようだった。
春樹さんは、日に焼けた顔で「公私とも充実した日々だ。」と笑った。
マキノは春樹さんの笑顔を見ればいつも安心できた。
結婚式の日が近づいてきたので、実家から母が来てくれた。
春樹さんとはすでに相談して段取りを考えてあったので、先月決めたばかりの定休日を利用して母さんと2人で行かねばならないところを回る。
案内だけは出したものの、必要なことを決めておらず、母さんには「どうして余裕を持ってしないのかしら。」と子どもの頃のように文句を言われていた。一緒にあーでもないこーでもないとドレスを選び、お料理を指定し、祝い返しの品を選んでと、考えなければならない細かなことが多すぎた。
ふと母さんが言った。
「マキノ、いつもの元気がないわね。」
「うーん・・。そうかな。」
実は、少し自覚があった。
今、幸せのてっぺんにいるはずなのに、なんとなく調子が悪かった。
意識にもやがかかったようにぼーっとして、やる気が出なくなる。
疲れているのかな。最近はセーブしているつもりなんだけど。
「明日、病院に行きなさい。」
母さんが、もう決まっているように言った。
「ううん。病院に行くほど悪いところなんてないよ。」
「あのねマキノ。かかるのは産婦人科よ。」
「あ・・・。」
そ、そういえば遅れてるかも・・・
「もしそうだったら、すぐに春樹さんにもお店の皆さんにも言うのよ。」
「はあい。」
「気分が悪いのは体を大事にしないといけないって言うサインだからね。自分を過信しないで、休養は充分に取りなさいよ。」
「はいはあい。」
母さんを駅まで送ってから、スーパーに寄って、その中の薬局へ行った。
妊娠検査チェックテストを買うつもりで行ったのに、それだけを買うのがなんとなく抵抗があって、日用品や余分なものと一緒に買ってきた。
それと。食材をいくつかと、ケーキを2個、買って帰った。
自宅に帰るとまだ5時。
春樹さんが帰って来るのは、もうすこし後だ。
一人でまず、試してみよう・・・。
検査スティックというものをトイレに持ち込んで、説明書を時間をかけて読む。
いざっ。・・封を開ける。
スティックの先に尿をかけるタイプだ。
・・・ドキドキドキ
待つこと1分…のはずだったが、それよりも早く線が浮かんでくるのが見えた。
うわあ・・・
陽性だ・・・。
うわあ・・・
うわあ、うわあ・・・。
トイレから飛び出て来て、スティックを持ったままくるくるとリビングを歩く。
叫び出したいような、言葉にならないような。
ええーーーーこのわたしが?ママに・・
うれしさと、不安と、主にとまどいが、からだ中をめぐる・・
なんて言おう・・。
春樹さんになんて言おう!
どんな顔するんだろう。
これ・・・これを見てもらわなくちゃ!!
検査スティックのフタをきちんと閉めて、きれいに手を洗って、清潔な透明のビニールの袋に入れ、小さいカゴの中に入れた。それを、リビングのテーブルに置いた。
下腹をそっと支えるように撫でてみる。
・・何もない。 昨日と変わらない。
でも・・。不思議だ。
ここに・・・ちいさな命が、あるの?
明日は午前中に病院へ行かなくちゃ。お店にも、休みの連絡を入れなくちゃ。
シフトを確認したら、イズミさんだった。
電話で産婦人科に行くと言うと、詳しく言わなくてもすぐに察してくれた。
「大事にするのよ。午前中と言わず一日お店休んでいいよ。」と言ってくれた。
明日は、遊もヒロトもいる。お店は全然大丈夫。心強い。
春樹さんが帰るまでに、食事の用意を整えた。
少し温かいものが欲しくて、最初にクラムチャウダーを煮込む。
ワカメともやしのナムル。タコをスライスしてドレッシングをかけて簡単カルパッチョ。
キャベツとパプリカの千切り野菜を山高にこんもりと盛って、手羽先の甘辛照り焼きを並べた。
それからフルーツは、メロン。うん。カラフルだ。
「ただいまー。」
春樹さん!
玄関まで行って、とびつきたい衝動を抑えながら「おかえり。」と意識して静かに言った。
「あれ。今日は随分食卓が華やかだね。」
「そうだよ。すぐ食べる?」
「うん。」
春樹さんは、カバンや荷物をどさっとリビングの隅に置いて、手を洗ってからテーブルについた。
「いただきまー・・」
「何か飲む?」
春樹さんはいつも、マキノが作ったお料理をおいしそうに食べてくれる。
「んー。じゃあビール。」
マキノが缶ビールをそのまま出した。春樹さんはぷしゅとプルトップをひっぱって、ぐいっと一口流し込み、最初に手羽先にかぶりついた。なんだか、子どもみたい・・。
「手羽先ってうまいね。」
「何でもおいしいって言うじゃない。」
「まあね。」
「もう少し何かおつまみいる?」
「いや充分だよ。やっぱ家のほうがゆっくりできていいな。マキノは飲まないの?」
「うん。今日は飲まない。」
マキノの含み笑顔に春樹さんは何も気づいていないようだ。
「ごはんのあと、ケーキ食べる?」
「え。なんで?もらった?買ってきたの?」
「買ってきた。」
「へえ。めずらしいね。今日はお母さんとドレス見てきたんだろ?」
「そうだよ。あれね、春樹さんも行かないとダメだよ。」
「え?そうか、そうだな。」
他愛のない話をしながら食事を終える。
「ごちそうさま。」
「コーヒーは?」
「欲しい。」
春樹さんが立ち上がって、リビングに移動した。
ソファにどさっと座ると、春樹さんはすぐにカゴに気がついた。
「これ、何?」
「開けちゃダメだよ。見るだけ。」
「・・開けちゃダメって・・」
「それに入ってるもの、何かわかる?」
春樹さんが、かごを覗き込んで黙った。
マキノはコーヒーを淹れてテーブルの上に置いて春樹さんの隣に座り、スティックの検査結果が見える窓を指さした。
「この線の意味、何かわかる?」
「・・・。 あ・・・。」
それをじっと見て春樹さんが固まっている。
マキノの顔を見た。
もういちどスティックを見て、またマキノの顔を見た。
「マキノ・・・。」
春樹さんの表情が泣きそうにくしゃっとなった。そしてすぐほわりとくずれて笑顔になった。
「オレの・・・こども?」
「ぶt。ぶはっ。」
マキノは思わず春樹さんの頬をぎゅううと両手でつねった。
「あいたたたた・・。」
「うはははは。なんてこと聞くの。それ一番ダメなやつだよ。」
「いや、ちがう。そういう意味じゃなくて・・」
春樹さんは、大笑いしだしたマキノに頬をつねらせたまま、マキノの背中に手を回した。
「だから、子どもできるの?って、言おうと思って・・。」
「ぷははは・・わかってるよ。」
頬をつねらせたままで随分痛いはずなのに春樹さんが自分の体を離さないので、マキノもようやく春樹さんの頬を離して抱きついた。
「マキノ・・。」
春樹さんが自分の名を耳元でささやくのを聞いて、自分は守られてる・・と思えた。
ベッドに入ると、春樹さんはマキノのおなかにおそるおそる手を伸ばしてきた。
「何もないね。」
「あるわけないよ。」
「大事なものが増えたなぁ。」
そう言って春樹さんはマキノの頭の下へ自分の腕を通した。
「うん。」
春樹さんの腕が自分の肩を包んでいるのを感じて、マキノは安心して眠りについた。
次の日、自分で車を運転して病院に行くことにした。
女性の医師だったので、なんとなくホッとした。
夫婦で来てる人が多いのか。へええ・・・。
診察を受けると、「おめでとうございます2か月ですよ。」・・とお医者様は言った。
心の準備ができていたので驚きはないが、覚悟が固まってくるのを感じる。
エコーの画像をプリントアウトしてプレゼントされたが、ちいさな空洞が見えるだけだった。
2週間後にもう一度来るようにとのことだった。
このあともうすぐ結婚式が控えているということを伝えると、不安なら式が終わってからももう一度検診に来るといいよと言ってもらった。
待ち時間が長かったので正午近くまでかかって無事診察は終わった。




