第1話
――はぁ、はぁ……よっ、ほっ!
(……?)
自分を運ぶ存在に、ようやく気付いた少年。視界が上下するにつれて、「ほっほっ」と気の抜ける掛け声が耳元に響く。
少年は首を動かすことも億劫なのか、目でそっと周囲を確認した。霧に包まれ遠くをうかがうことはできないが、どうやら山の中を、下へ下へと移動しているようである。肌を刺すような冷たい空気に体が震え、たまらず鼻をかげば、濃い緑の匂いがする。
どうやら犯人――いや件の女性に連れ去られている最中のようだ。天地の反転した世界で、少年はぼんやりと先ほど起きたことを思い出す。
(……いた、い)
縄で体をがっちりと縛られ、身動きは取れない。背負われ、乱暴に運ばれる少年は、いたるところを木や石で打ち据えられていく。
しばらく獣道を下り、藪の中を抜けると、急に開けた場所に出た。うっすらと周囲を覆う霧の向こうには、ひっそりと隠れるように建てられた家がある。素材は木。壁には穴が開き放題で、今にも朽ちそうな見た目をしている。だが不思議と力強く建つ、堅牢な城を想像させられる。
「はぁ……やっと着いたかい」
彼女は溜息を一つ吐くと、自分の城へと足を運ぶ。階段を上がり玄関につくと、扉がまるで主を迎え入れるように、内側から勝手に開いた。
そのまま中に入りまっすぐ進んでいくと、薄暗い、不気味な部屋へとたどり着いた。
「こら! いい加減に起きんかね!」
頭蓋よ割れろとばかりに、勢いよく少年を放る。未だに縛られ、受け身すら取れずに顔から落ちる。
(……い、た)
起き上がる少年の目に、うっすらと理性の光が点る。そのまま声のした方へと眼を向けると、部屋には一人の『老婆』がいた。
老婆は実に小気味よさそうに笑っている。所々に皺が浮き、憎たらしく、しかしどこか優しい笑顔で。背は少年の頭一つ分高い。生え際まで白く染まった髪は肩まで伸び、左右からぴんと尖った耳が出ている。体を覆う灰色のローブからは、いくつもの怪しげな瓶が顔を覗かせる。
ひとしきり笑った後、老婆はさてと一つ前置き、少年へと尋ねた。
「それじゃあ小僧、教えておくれ。あんなところに何の用があったんだい?」
無言。
「あの辺りは魔物の縄張りだ。あんたみたいな子供が、一人で入っていい場所じゃないんだよ。……それにその汚い格好、一体いつからあそこにいたのさ?」
再び無言。
「……はぁ……命の恩人にこの態度とは。これだから人間は……」
何も言わない少年に業を煮やす。老婆はもう一度、今度は頭から床に落とそうか過激なことを考え始めた。
「……や、ま?」
その時ようやく少年の口が開いた。たどたどしくも紡がれた、意味のある言葉。それに対し眉根を上げる老婆。
「……なんだい、その反応は? おい小僧――」
問いただそうと詰め寄る。その時、玄関から誰かをよぶ声がした。
――アウロさ~ん!
老婆はため息を一つ吐くと、腰を叩きながら出口へ向かう。ふと振り返り、少年を指さすと、先ほどまでとは違う声色で話しかけた。
「……小僧、ちょっと待ってな。少しそこで休んでいるといい」
そう言い残し足早に部屋を出ていく。一人残された少年は、動かぬ体で一度身じろぎすると、再び夢の中へと旅立った。聞こえてくるのは生き物のさえずりのみ。誰の声も、もはや聞こえない。
☆
「ア、ウ、ロさ~ん! 来~た~よ~!」
「……ウィキ、あんたかい……」
少女に対し、老婆は憮然たる面持ちで言い放つ。
ウィキと呼ばれた少女。歳は10歳ぐらいか? 茶色い頭に、よく見れば小さい角が一本生えている。顔は実に整った形をしており、将来はかなりの美人になるだろう。
間延びした声で陽気に話すウィキに対し、こめかみを抑える老婆。
(……女神よ、この上まだワシに働けとおっしゃいますか……)
「どうしたの、二日酔い? お酒はほどほどにって、ママが言ってたよ? この間もねパパがお友達と――」
「帰りなウィキ」
「私アウロさんに呼ばれたんだけど!?」
☆
「それで、あんた一人かい? 親父はどうしたんだね? ……人に面倒を押し付けたあの根性なしは」
徐々に語気の荒くなる老婆改めアウロ。その胸中ではただ一つの事を思っていた。すなわち……休みたいと。
朝早くから山に登り、重たい荷物を抱えて帰った。魔物と戦闘までした。面倒事は他人に押し付けて、二度寝でもしよう。
そんなアウロの心からの願い。だが現実はそう甘くない。
「パパなら今日は街道のほうで仕事してるよ。なんか山は怖いのが出たから、今日は来ないって」
「あの野郎……」
職場放棄も甚だしい。それでも狩人か。ウィキの手前口にはしなかったが、胸中でウィキの父親の顔を思い浮かべ、盛大になじる。
急に黙ったアウロを見て、下から窺うようにウィキが顔を覗く。
「なんかあったの?」
「何でもな…………あ~ちょっと待ってな。用件は薬だったね? 今取ってくるから、そこでおとなしく待ってな」
そういうと踵を返すアウロ。言外に動くなとウィキに命じると、さっさと扉を閉めようとする。しかしそれを小さな手が阻む。
ウィキは小首を傾げ、疑わしげにアウロを見る。その表情は心配ゆえか、それとも、抑えきれない好奇心ゆえか。
「……ホントにどうしたのアウロさん。いつもは『部屋においてあるから適当に持っていきな』って言うのに。今日は何か変だよ?」
「……なに、何でもないさね。いいから手を放してくれんかい?」
件の部屋は今、例の正体不明の子供が使用している。
さて、想像してみよう。深い山の中腹に、ポツンと建っている一軒家、そこには魔女の如き老婆が一人で住んでいる。奥には怪しい、薬品の匂いの漂う部屋が一つ。
……その中で薄汚れた少年が、床に寝ている姿を。
客観的に見れば、この現状がいかにまずいか、わかることだろう。
(……夜な夜な子供を攫って食べる老婆とかか? いくらなんでも冗談じゃないよ)
今の生活を気に入っているアウロからすれば、今ウィキを部屋に入れるのは、非常にまずい。最悪村から討伐隊を組まれかねない。
アウロは腕を組み、この窮地を脱するために考えを巡らせる。長年使いこんできた脳細胞が、一気に活性化していく。
(とにかくいつも通り振る舞いな……あの小僧はウィキを返した後、どこかに放り出そう。よし!)
……必死になって考え付いた方法は、実に単純なものであった。胸中で不穏当な言葉を吐き、アウロは少女に向きなお―――
「あれ!アウロさん、この子だれ?」
「なっ……馬鹿な、いつの間に?!」
まるで、隙を突かれた戦士のような言葉。実際は、急に黙り込んだアウロの脇を、普通にすり抜けただけだが。
部屋まで走るアウロ。そこにはウィキがいた。ベッドに横たわる少年を愕然とした面持ちで眺めている。
傍でウィキが、あんなに大声を出しているにも関わらず、少年は死んだように眠っている。
縛られ動かぬその姿が、少女にはあまりにも痛々しいく映った。
愕然とし、両手で体を抱き、寒そうに震えるウィキ。その表情は、ひどい裏切りにでもあったかのごとく、青ざめている。
振り返る。恐る恐る、しかしその小さな瞳には今、確固たる決意が宿っている。
歳離れた友人が及んだ蛮行、その間違いを正さんとして睨み、言い放つ。
「ア、アウロさん、ダメだよ! いくら子供を食べたって、アウロさんは若くなったりしないよ!!」
「誰が食うかい、人間なんて!」
「え?……じゃあもしかして私! 今日呼んだのも美味しくたべるつもりで?!」
「誰が食うかい、こんな臭いもん!」
「く、臭くなんてないもん! いつもちゃんと洗ってるもん! ひどいよアウロさん!」
……もんもんと喧しい少女と、それを無視して寝息を立てる正体不明の少年。魔物以上の困難を前に、どうしたものかと頭を痛めるアウロであった。
……えっ? そんな……もうお別れなんて……さみしいこと言わないで。
物語も、青春も、始まったばかり。まだまだ、ガンガン行こう!