二 別れ
§
二学期の終業式を翌日に控えた、朝。
先生から、上村が明日で転校する事が、伝えられた。
何でもお父さんの急な転勤が昨日決まったらしく、クリスマスイブの日には引っ越すと。
「短い間でしたが、仲良くしてくれて、本当に有難うござい、ました」
教壇の上で挨拶した彼女が、ぺこりと下げた頭を上げた時……目に涙を貯めているのがわかった。
他の皆も気がついたのか、教室のあちこちから、女子のすすり泣く声が聞こえた。
転校の手続きの関係で彼女が先生と職員室に行っている間、自習の指示が出た。
いつもの自習の時間はそんな事お構いなしで騒ぐ男子と、それを注意する女子の声とで教室内はやかましい事この上ないけれど……今日は、静かだった。
突然、
「皆、ちょっと聞いて!」
クラス委員の弓佳が教壇の上に立った。
「明日、菜香ちんに何かプレゼントしたいと思うんだけど、賛成してくれる人は手を挙げて下さい」
即座に手を上げながら見渡すと……全員が挙手していた。
物は無難な所で、クリスマスにちなんだポインセチアの鉢と決まった。
帰り道。
俺は上村を誘って、氏神様の神社へ上った。
明日は午前授業で昼前に下校だから、ゆっくり話せるのはもう、今日しかない。
御神木の楠の大きな根元に腰掛けて、いつものようにいろんな話をした。
転校とか、引っ越しの事はお互い、敢えて触れなかった。
日がすっかり傾いて、空がオレンジ色に染まる頃
「……暗くなる前に帰らないとな」
名残り惜しいけれど、そう言って立とうとすると、それまで普通にしゃべっていた上村がいきなり顔を両手で覆って……泣き出した。
「転校、なんて……やだ」
「上村……」
「せっかく慣れた……のに。友達もでき、て……ゆんちゃんとか……すごく仲良く、なれて……」
「……」
「タロー君と……離れたく、ない」
しゃくり上げながらの、その言葉を聞いた途端、頭の中が真っ白くなって。
俺は彼女をぎゅっと、抱きしめた。
「手紙、書くから。電話もするから」
「……っ……え、っう……」
「転校するからって、別れるってわけじゃないから」
「……ほん……とに?」
「いざとなったら、会いに行くから。船と電車と乗り継いで行くから」
上村の引っ越し先は、船で対岸に渡ってから、電車で更に三十分位かかる所だ。
俺はまだそこまで行った事はない。正直、行けるかどうかわからない。
でも、そう言わずにはいられなくて。
「……きっと、だよ?」
それまで俯いていた上村が、顔を上げた。
泣き腫らした目で、見上げられて。
思わず衝動的に、彼女の唇に、唇をぶつけるように、重ねていた。
ほんの、一瞬だけ。
好きな子を抱きしめたのも、キスをしたのも……それが、初めてだった。
§ §
翌日の終業式。
上村は転校の手続きに来たお父さんと一緒に帰って行った。
皆が帰った後、誰もいなくなった教室で。
上村がさっきまで座っていた席に座って、窓の外を眺めた。
山と山の間にみっしりと張り付いている家々の向こうに海が見えて、さらにその向こうには島々の稜線がいくつも重なって……まるで大小の山が陸続きで横に繋がっているようだ。
ここに座っていた彼女は、授業の合間によく、外を眺めていた。
少し後ろの席から、いつも俺はそれを見ていた。
宮江で育った俺にとっては、あるのが当たり前で普段は特に気にも留めなかった景色。
彼女はここからいつも、どんな気持ちで見ていたんだろう。
宮江に来る前は大きな街の中心部の、ビルに囲まれたマンションに住んでいたと言っていた彼女には、窓の向こうのあの海が、島々が、どんなにかきれいに映った事だろう――。
遠い海の水面が、真昼の陽の光を弾いてきらきらと光っている。
……不意に、その眺めが眩しく思えて。
目を開けているのが辛くなって。
机の上に、突っ伏した。
泣いている訳じゃない。
ただ……眩し過ぎて目が痛くなった、だけだ――。
次の日から、正月の元服式の準備や打ち合わせで俺はものすごく忙しくなり。
ついに引っ越し当日まで、上村とは会えずじまいだった。
見送りにすら、行けなかった。
クリスマスの朝。
枕元に、手紙とメモが挟まった、ポインセチアの鉢が置かれていた。
手紙は上村からのもの。
無造作に畳まれたメモにはたった一言
『お揃いの鉢です』
誰と、とも誰から、とも書いていなかったけれど。
見慣れた筆跡で書かれたその一言だけで、俺にはどちらも判った。
母さんに事情を聞くと
「ああ、ゆうべゆんちゃんに頼まれたのよ。クリスマスプレゼントだからよっちゃんに内緒で寝たら枕元に置いてくれって」
笑いながらあっさり答えてくれた。
「何考えてんだあいつは……サンタからなんて今更誰が思うかっての」
ぶつぶつ言いながら。
もしかしたら弓佳は昨日、上村を見送りに行ったのかもしれない、行って手紙を預かって来たのかも……という事に気がついて。
弓佳から直接事情を聞こうと、宮前の弓佳の家に行こうとしたら、母さんに止められた。
「ゆんちゃん、今日から潔斎だから、会えないわよ?」
「潔斎?何それ?」
「元服式の巫女さんの潔斎。今日からお正月まで男の人は一切宮前の家には入れないのよ」
「げ!マジかよ!」
「次郎さんとみっちゃんは流石に追い出されはしなかったみたいだけどね」
「……追い、出す……?」
のんびりとした口調に全く似合わない、母さんの物騒な発言に、俺は返す言葉を失った。
弓佳の父さん――次郎叔父さんや、弟の美道まで追い出す追い出さないなんて話になる程じゃ、相当厳しい潔斎なんだろうな。
昼間、外に出た時にたまたま美道と会った。
「おまえ、家追い出されそうになったってホントか?」
冗談半分に聞くと、美道は真面目な顔で少し口を尖らせて
「ホントだよ。何か最初はお父さんと俺は一週間本家に泊めてもらったらって話になりかけたらしいよ。結局そこまでしなくてもいいって、本家のおじいちゃんが言ってくれたんだけど」
……うわぁ、マジだったのか。
よっちゃんの元服式だから仕方ないけれど、こんな面倒臭い事早く終わって欲しいよ、と愚痴る美道に取りあえず謝って――俺が謝るような事でもないと思うけれど――なだめてから
「あ、そうだ美道!ゆんちゃんに『サンタサンクス』って伝えといて。話くらいは出来るんだろ?」
「『サンタサンクス』……何それ?それだけで姉ちゃんに解るのか?」
「解ると思う。頼むな」
弓佳への伝言を頼んで、俺は美道と別れた。
それからは、元服式の準備に段取りに予行演習と、冬休みの宿題もろくに出来ない位の忙しさに追いまくられる毎日だった。
夜は夜で、昼間の疲れがどっと出て、早い時間に眠くなって寝入ってしまう。
上村からの手紙に書かれていた住所宛てに、年賀状は何とか書いて出したけれど……ハガキだけに誰に見られるか分からなくて、当たり障りのない挨拶しか書けなかった。
本番前日の大晦日は俺も潔斎のためとかで、夕方からの絶食を言い渡された。
年越しソバが食べられないのは悔しいけれど、今年は仕方がない。
元服式が済んだら、落ち着いて上村にきちんと手紙を書こう。
お揃いのポインセチアをゆんちゃんからもらったから、上村だと思って大切にする、って。
……流石に手紙でもそんな寒い事は書けない、か。
そんな事を考えながら。
紅白も見ずに、俺は空腹を抱えて布団に入っていた。
明日は三時起き、だ――。
§ § §
暗く静かな、闇の中。
誰かをぎゅっと、抱きしめていた。
冷え冷えとした空気に包まれながら、お互いの温かさを分け合うように。
こんな風に触れられるのは、今日まで。
明日が来ればもう、お互いの温もりを確かめる事など、叶わなくなる。
離したくないのに。
一緒にいたいのに。
俺が、宮江を出ればいいのか。
そうすれば、ずっと一緒にいられるのか。
――いいえ。
宮江を出るなんて、言わないで。
柔らかな声が、胸の奥に染み透る。
――明日、元服して、総領になって……総領として、誰かと結婚して。
『もういい!それ以上言わなくていい!』
それ以上聞きたくなくて、遮ろうとして……だけど言葉が喉の奥に絡みついて、出てこない。
――でもいいの。
優しい響きが、あっけらかんとした口調に変わる。
いつも聞き慣れたような。
――誰と結婚しても、あなたの護り姫は一生、わたし。
……え?
頭の上で、雲が動いて。
辺りを月の光が、煌々と照らす。
胸元に埋められた頭から……肩を滑り落ちて長く長く伸びる、きれいな髪。
そっと、顔を上げて。
――わたしが、よっちゃんを、護ってあげる。
「よっちゃん!」
「うわああああっ!」
一瞬、自分がどこにいるのか、分からなかった。
見回すとそこは……俺の部屋。
目の前にいるのは……。
「……かあ、さん?」
「もう三時だよ?あ、あけましておめでとうございます、だね?よっちゃん早く寝ちゃったから」
あけましておめでとうございます、と。
ぼんやりと、母さんにそう返す。
「起こそうと思ったらいきなり叫ぶんだもの、びっくりした。なあに?変な夢でも見たの?」
そう言われて、さっきまで見ていた情景をうっすらと思い出した。
腕の中に居たのは……途中まで上村だと思っていた、のに。
月明かりの下で、俺を見上げたのは……あの顔は。
「何でそうなるんだよっ!」
思わず叫んだ俺に
「まあ何でもいいから、早く下にいらっしゃい。あ、着替えなくていいからそのままお風呂場ね。早くするのよ?」
一々構っていられないというふうに、母さんはあっさり言い捨てて、部屋を出て行った。
……風呂場で水でも浴びて、頭を冷やした方がいいかもしれない。
何で、あんな夢を見たんだ、俺。
――わたしが、よっちゃんを、護ってあげる。
何で――弓佳なんだ……。