水底の島
錆ついたカンナの刃は堅いヤシの木をかろうじて削れている。
この島で作られる独特の三角帆船であるドーリーの制作工房に視察に来ていたオーストラリア人から「その道具では、とても効率が悪い」と言われて初めて、彼は自らのカンナが「不良品」なのだと知った。
しかし彼は気に留めない。効率が悪いことが彼にとってマイナスに作用するとは思えなかったし、たとえそうであったとしても、どちらでもいいことだ。
そのことについて一度も考えたことが無いし、この先も考える必要はない。ゆっくりとでもよいから、美しく海の上を滑る頑丈なドーリーを完成させ、いくばくかの賃金をもらえれば、それでいいのだ。
もしも納期が遅れてしまったために、このオージーが買い取らないというのなら、いっそ、それも良いと思う。ヤシの厚板をそぐのをやめて、実を割って食べて暮らせばいいだけのことなのだ。 カンナの刃は、釣り針にでも加工してしまえばいい。
ドーリーで沖に漕ぎ出せば、彼と彼の友人たちが食べるには十分なだけのカツオやマグロが釣れる。
しかし、彼は頭の片隅で知っている。
ラジオで先日流れていた言葉を、忘れてはいない。
観光の目玉としてドーリーでリゾートホテルの各客室を行き来できるようにして外国人観光客を盛り上げる。美しいサンゴ礁と海と星空を味方につけて多くの旅行者を誘致し、外貨を落としてもらう。そのお金を元に、我らの国の大統領は、外国に土地を買う。その土地は、いつか島民たちが移住するためのものだ。
この数年、海面がなんの前触れもなく上昇する現象が続いている。多くの人たちの家が水平線の向こう側へと流されていった。家畜も、人も、ヤシも、水の力の前では砂よりも軽いもののように、吸い込まれてゆく。
島々が、海底に沈んでしまうのだと言い出すものが増えてきたらしい。
「ともかく」と大統領は言っていた。
「最悪のケースを考え、備えるために行動することがわたしの務めなのです」
外貨獲得のためには、この地区でしか作られることの無い三角帆の船は必要だし、少しくらい効率が悪くて納期が遅れても待っている人がいる。そちらに売ればよいのだ。
上半身裸になった彼の黒い背中に、汗が滲む。玉のような汗は、太陽の光を吸収し、オレンジ色に輝いている。
彼は、日が沈む前に仕事を辞める。電力が不足しているこの島では、電気を使ってまでする作業などは皆無に等しい。
椰子の木に寄りかかり、寄せる波を見つめる。
この地を訪れた人たちは口を揃えて言う。
ここの海は綺麗だと。天国のようだと。
生れてからこの島からはほとんど出たことがない。せいぜい沖に釣りに出るくらいのものだ。ドーリー以外の乗り物に乗ったこともない。全世界は、半径3キロで形成されている。それを狭いとも思ったことはない。
彼は海を綺麗だと思ったことも無い。見慣れた珊瑚の白い砂浜は島をぐるりと囲み、四方からただ透明な海水が寄せては返す。ただ、その繰り返しだ。
逆に彼らの見たことのある汚い海とはどういうものなのだろうかと考える。住んでいる魚も違う色をしているのだろうか。しかし、聞いてみようとは思わない。
どうせ彼はその「汚い海」を見に行くことはないからだ。
恋人はいつも「海は世界中と繋がっている」と言っていた。水平線に目をやる。きれいな海と汚い海の境界線を探そうと目を細める。
小さく漁船が見えた。その漁船の先を、彼は想像することができない。
恋人は毎日毎日、大きな太い針を使って、ドーリーの帆を縫っている。
帆布は重たく、堅い。
この島の人たちは、ドーリーを作ることで、繋がっている。
わずかな賃金を、恋人は綺麗なものを集めることに使う。それは、読めない字の書かれた絵本だったり、見たこともない動物の絵ハガキだったり、きらきら輝くキーホルダーだったり、する。
綺麗なそれらは、親戚の住んでいる「観光ホテルの島」から届けられる。
恋人の親戚は、観光客のために、外国資本が作った海上コテージで掃除をしたり洗濯をしたりしながら暮らしている。そのコテージのスーベニアコーナーに、綺麗なものは売っているらしい。
彼は、その親戚が働いているコテージを「絵葉書」で見た。
海の上に、小さな家が幾つも連なり、アイアンウッドの長い回廊がそれらを結んでいる。コテージの脇にはドーリーがあり、観光客はいつでも好きな時にそれを利用し、海へ出ることができる。
部屋と部屋の移動にも、小さなドーリーが使われていると聞き、彼は少し得意になったものだった。
この共和国は、小さな島が2000も連なっている。それぞれの島に役割がある。
彼の住むここのようにドーリーを製造するための、ドーリーの島々。
犯罪者だけが住むという島もあるという。
観光ホテルで出たごみを埋め立てるための島々。
椰子の実製品を作るための島々。
恋人の親戚が住む、24時間停電することがないという、観光ホテルの島々。
大統領が住む、首都のある島。
どの島もサンゴ礁で成っており、薄平らな島ばかりで、高い山はない。海抜三メートルが最高地点なのだという。
この話を聞いたときに、彼は彼女を肩車してみた。
三メートル。
ぐっと彼女の両足を掴み、背筋を伸ばして、つま先立ちをした。それで少し足りないくらい。
それが三メートル。
恋人はこの島の向こうまで見渡せてしまいそうだと、大きな声で笑った。
グラリと姿勢を崩して二人で砂浜に倒れると、砂まみれになって、さらに大きな声で笑った。
その日彼は、ドーリー工房を休み、椰子にの木のもとで、恋人が海を渡り帰ってくるのを待っていた。
綺麗なものを送ってくれる親戚が体調を崩したために、観光の島へ一週間ほど手伝いに行っているのだった。
水平線と空の狭間に、高速ボートが見えた。彼は自然と笑みを浮かべて波打ち際へと走り寄り、大きく手を振った。
停泊した高速艇の船長にいくらかのお金を払い、彼女は両手にたくさんの荷物を抱えて降りてきた。
見たことの無い、美しい、ひらひらとした白いサマードレスを着ていた。
胸元の大きく開いたそのドレスは、色の浅黒い彼女にとても似合っていたが、同時に違和感を覚えさせた。
いつも裸足だった彼女の足は、ガラスの飾りのついたサンダルに包まれていた。
笑顔はいつもと変わらない。それだけが彼を安心させた。
「このサンダル、ビジューサンダルっていう「のよ。綺麗でしょ?宝石の靴よ」彼女はそういうと、彼の前を姿勢を伸ばして歩き始めた。ヒールが砂に埋まり、歩きにくそうだ」と彼がつぶやくと、彼女は「でも、素敵でしょう?」とスカートをひるがえした。
高いものなのではないかと、頭をかすめる。
帆布を縫ったお金で手に入るものなのだろうか。それとも観光島の手伝いの仕事はうんとお金がもらえるものなのだろうか。
荷物を椰子の木の脇に置き、二人で並んで座った。
いつもは肩に頭をもたれさせてくるのに、背筋を伸ばしたまま、彼女は沈む夕日の、その先を見つめている。
「観光の島は、どうだった?」恐る恐る聞くと、恋人は堰を切ったように語り出した。
あの島の夜は、電気が煌々していてこの島の昼よりも明るいくらいなのよ! それから、マグロやカツオを見たことも無いような綺麗な盛り付け方で、ナイフとフォークを使って食べていたの。お酒もいつも飲んでいるココナッツのお酒だけじゃないのよ。いろんなものと混ぜて、うんと綺麗な色に変わるの。それから…。
彼には話の意図が見えない。ただ分かったのはあの島には、この島にないものが溢れかえり、恋人はそれらに夢中になっていること。それだけだった。
「ドーリーは?」
「ドーリー? あぁ、そういえば、それぞれのお部屋についていたわね。でもね、もっと早くてカッコいい高速艇もあってね、島と島の移動があっという間なのよ?わたしがさっき乗ってきたのもそのホテルのものなのよ。働いている人が島に帰るときには、ぐるりと回ってくれるんですって!」
「だから?」
「だから、もしもあの島に働きに出たとしても、こうやって帰ってくることができるってことよ」
彼は強く恋人の肩を抱いたが、手をほどこうとする。
彼は恋人の頬を叩き、押し倒し、足を広げて白いドレスをまくりあげる。
首筋に舌を這わせながら、左手で胸を掴み、右手で自分の服を脱ぎ、下着を剥ぐ。
脱げた靴のガラスが、満月の光に鈍く輝いている。
恋人は声をあげることもなく、ただ、星空と彼の顔を交互に見つめる。彼は目を合わせることができない。ただ、怒りにも憎しみにも似た感情を、細い体にぶつけることしか、できない。
小さく喘ぎながら、こぼれそうになる涙をこらえる。
恋人の様子でわかる。もう、自分以外の男を知ってしまった。観光の島のその相手がどこの国のどんな男なのか、知ることはできない。
ただ分かるのは、体をゆだねてもらったた代償に、女性に対して綺麗な服や靴を与えることができる男ということだけだ。
見たことも無いような綺麗な色のお酒を注文し、ナイフとフォークを使って食事をさせて、真っ白いシーツの海へと上手にエスコートできるということだけだ。
砂にまみれた体の上からシャツをはおり、下着をつけた。
恋人は何も言わずにしわしわになったドレスを着て、三角座りで夜空を見上げている。
言葉をかけることができない。悪いことをしてしまったと思う反面、彼女の裏切りを許せそうにない。
ただ、彼女の隣に座り、何事もなかったかのようなふりをしながら一緒に夜空をみることしか、できない。
「南十字星」
彼女が細い指で南を指さす。
「うん」
小さな夜空のクロスが低い位置に瞬いている。
「あの一番下の星の先に何があるか知ってる?」
彼女は指を天から地へつーっと移動しながら、彼に尋ねる。
「分からない。海。海しかないよ」
「あのね。あの星の真下、ずーっとずーっと遠くには、南極」
「ふぅん」
「わたし、ペンギンって見てみたいな。南極に住んでる泳ぐ鳥」
「泳ぐ、鳥?」
「なんだか、わたしたちの世界って小さいわね」
そう言って小さく笑った。
小さな世界で……。いっそ、二人きりの世界でも構わない。彼女が小さくでも笑って隣にいてくれればそれでいい。
彼はそう思っていても、素直に口にすることができない。
築いてきた信頼関係が、崩れていくのがわかった。自分たちの未来のために獲得すべく外貨の代償が、こんなにも痛いものなら、いっそすべて海の底に沈んでしまえばいいのにと思う。そして、彼は想像する。沈んだ島々を、彼の作ったドーリーに乗り、恋人と二人で見下ろす。大きな魚の泳ぐそのうんと先に、ヤシの実がたわわに実って揺れている。手を伸ばしても、伸ばしても、届かない水の底の世界はきっと綺麗だろう。
帆を立てると、南風がそれを大きく膨らませ、ドーリーは納品される観光の島へ向けて海の上を滑り出した。
彼は、あの荒々しい夜以来、恋人と会っていない。具合が悪いと噂を耳にしたが、お見舞いにも行っていない。
同じ世界を見れば、肌で感じることができれば、彼は恋人を許せるのではないかと考えていた。納品の折に、ドーリーの使われている世界に触れさせてほしいというと、ホテルの支配人は「アルバイトを兼ねてなら歓迎しますよ」と答えてくれた。
船上でも、支配人は上機嫌で「君のような若いかわいい男の子は、是非カウンターで接客の練習なんかしてみるといいよ。何もできなくても問題ない。ただ、笑顔で他のスタッフが作ったグラスを出すだけでいいんだ。無理にとは言わないよ。ただ、興味があれば、好きなだけ滞在するがいい」と言うと、その後はそのホテルがどのように素晴らしいかを語り続けた。
彼は、曖昧に頷き、帆の高さを調整しながら海をすべる。
振り返ると、ドーリーの島は水平線のかなたに消えていた。
「ペンギンって、知ってますか?」
彼は、プールサイドのバーで、ビキニ姿の白人女性に声をかける。
「なに? こんな暑い国で、氷の国の話?やぁーねぇー」
笑いながら、グラスの淵を指先で撫でまわしながら、女性は思案する。
「そういえばね、アニメだけれどペンギンが主役の映画があって。そのキャラクターのポーチなら、部屋にあるかもしれないわ! わたしのじゃないわよ。娘のものだけどね」
彼は、教えられたルームナンバーを確認してから、ノックする。
「夜空を見るツアーに、夫と娘が参加しているの。大丈夫よ」女性はドアを開け、彼の腕を強く引き素早く部屋へ引き入れた。
何が大丈夫なのだろうかと失笑する。
彼にとっては、女性の保身はどうでもいい話だし、夫と娘が何を見ようが関係ない。
女性はベッドサイドのテーブルに約束通りポーチを用意してくれていた。
「なんだか、デフォルメされていて申し訳ないけど、これがペンギンよ」
「もらってもいいんですか?」
「もちろんよ」
そういうと、女性は両腕を彼の首に回し、唇を重ねた。
彼は、本能の赴くまま、女性を抱く。
かわるがわる上になり、下になり、境目がなくなるまで、溶けあった。果てそうになるたびに、島の恋人を思い出した。彼が女性をホテルで誘ったり、誘われたりするのは毎晩のことになっていた。
気前のよい女性から口止め料なのだろうか、いくばくかのお金をもらうと、それで恋人のために「綺麗な何か」を買った。
そろそろ潮時だと思う。二週間も帰っていない。しかし、バーカウンターでの仕事をする毎日が楽しいのも事実だった。お酒の銘柄を頭に入れ、味を覚え、スタッフとも楽しく過ごしていた。
ベッドの上で汗が引くのを待っていると、女性がテレビをつけた。
「あら。ちょうどこの国の話じゃない。大変よね」
そういいながら、ミネラルウォーターのボトルを一本放り投げて寄こした。
彼は器用に受けとり、キャップを空けながら、テレビに映し出された島々を眺める。高い空から見下ろすこの国は、まるで太陽のような形をしていた。ドーリーの島も写っているのかもしれないが、どんな形をしているのかも知らない。
「海面上昇? 政府は国民の移転先を用意するのが焦眉の急ですって。温暖化の影響なのかしらないけど、ほんとに大変よ」と心配そうな声を出した。
その横顔は、心底心配しているのが見てとれる顔で、彼は思わず見つめる。
同情されているのが、分かる。
「なんで、海面が上がるの?」
そう聞くと女性は眉を下げながら「地球温暖化で南極の氷が解けているからって言う話もあるけれど…分からないわ。本当のところはわからないのよ」と呟いた。
「南極の氷が解けるってことは、あの……ペンギンはどうするの?」
「そうね。他の大陸に住むことになるかもしれないわね。あなたたちの未来の子供、またその未来の子供たちがそうせざる負えなくなるように、ペンギンもどこか別の世界に移動しないといけない時がくるのかもしれないわね」
と、寂しそうな声をだしてから、首にふたたび手を回し「でもいまは、わたしも、あなたも、平気よ」と囁き、彼の背中にゆっくりと指を這わせた。
「遠い寒い氷に閉ざされた国の生き物と、この暑い国の僕の運命が一緒だなんて、不思議だよ」
そういいながら、彼は女性を強く抱きしめた。
恐い、というのが本音だった。助けを求め縋る気持ちで女性を抱いた。
抱きながら、肩車した恋人の体の重さと、三メートルという心もとない高さを思った。
数か月ぶりにあう恋人は、ペンギンのポーチを見せても、笑顔を見せない。
綺麗なガラスの置物を見せても、微笑まない。
ただ、正面から彼だけを見つめ、おなかに小さな命が宿ったことを、静かに伝えた。
ただ、彼は黙って恋人の髪を優しく撫でた。
「子供の名前、何がいいかしら」
「メール」
「綺麗な響きね」
「海って意味なんだって」
彼は、慎重に、ゆっくりと彼女を肩車する。
この高さと、あとちょっと。もう、少し。
生れてくる子供を彼女が抱いて軽くあげれば、ちょうど三メートル。
低いけれど、低くない。それでも、と彼は思う。
願わくば、このお腹の子どもが大きくなり、さらにその子供が命を宿し、その命が絶えることなくまた新たな命を宿しますように。
それらの命は、この綺麗な海の、この珊瑚の島で育まれますように。
それでも、ドーリーで海の底に沈んでしまった島々を見なければならない日が来るかもしれない。
どこかへ移住するときには、彼の作った強いしなやかなドーリーで、水平線のそのまた向こうまで、南風に導かれてゆけばいい。
きっと、きらきらと輝く海上に漂い浮かんでいるのは、観光島の置き土産。
綺麗なガラスのついたサンダルやドレス、色とりどりのお酒の瓶を集めながら、笑い、歌い、流れてゆけばいい。