表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
グンマー帝国の興亡史  作者: 甲州街道まっしぐら
プロローグ:グンマーの夜明け(西暦2025年~2045年)
7/9

蒟蒻特異点:生命の再設計

地熱革命が、帝国の足元にある無機的なる大地を征服し、その心臓たるエネルギーを掌握する偉業であったとすれば、「蒟蒻特異点」とは、生命そのものを再設計し、有機的なる自然を帝国の意のままに従わせる、それに匹敵する、あるいはそれ以上の革命であった。それは、古来より上毛の地で食されてきた、栄養価の低い卑賤なる塊茎「コンニャク」を、遺伝子工学と生物化学の粋を結集して、食料と工業原料の両面で文明を支える万能の基盤へと作り変えた、バイオテクノロジー的特異点(Biotechnological Singularity)である。この二つの革命は、いわば帝国の両輪であり、一方がなければもう一方も存在し得なかった。地熱という炎が、この新たな生命を育む太陽となったのである。人類が自然を収穫する時代から、自然を設計する時代へと移行した、その転換点であった。


旧時代の食料問題:農業という名の脆弱性


革命以前、人類の食料生産、すなわち農業は、常に自然の気まぐれと資源の制約に縛られた、極めて脆弱なシステムであった。


化石燃料への依存:

現代農業は、トラクターを動かす燃料、ハーバー・ボッシュ法で化学肥料を合成する天然ガス、農薬の原料となる石油といった、化石燃料の塊であった。「大日本マラリア」は、この依存がいかに致命的であったかを証明した。旧時代の食卓は、遠く中東の油田と、国内の農地という二つの「見えざる耕地」によって支えられていたが、その一方が失われた時、もう一方もまた必然的にその機能を停止したのである。


気候変動の影響:

頻発する干ばつ、未曾有の豪雨、そして生態系の変化は、伝統的な穀物の栽培を極めて困難なものにしていた。西暦2032年に西日本を襲った「大稲熱病だいとうねつびょう」は、国内の米生産に壊滅的な打撃を与えた。土地は痩せ、水は枯渇し、収穫量は年々不安定になっていった。自然はもはや、恵みを与える母ではなく、予測不能な暴君と化していた。


コンニャクの限界:

在来種のコンニャク芋は、その97%が水分であり、栄養価はほぼ皆無であった。それは、腹を満たすための「食べる水」に過ぎず、「腹の掃除屋」と揶揄されることもあった。さらに、シュウ酸カルシウムという毒性物質を含み、その栽培には長い年月と特定の気候を要するなど、人類の主食たり得る植物では到底なかった。


革命の担い手:安斎信彦と「超蒟蒻ちょうこんにゃく


この絶望的な食料問題に終止符を打ったのが、地熱革命の父でもある安斎信彦であった。彼は、エネルギー問題の解決後、その尽きることのない探究心を生命科学の分野へと向けた。彼が着目したのが、痩せた土地でも育つコンニャクの強靭な生命力と、その主成分であるグルコマンナンという多糖類の、驚くべき化学的安定性であった。彼は、コンニャクを「神が作り残した、未完成の傑作」と呼び、その内に秘められた可能性を最大限に引き出すための研究に着手した。彼にとって、生命とは神聖不可侵な領域ではなく、解読と書き換えが可能な、精緻な情報システムに過ぎなかった。


安斎が率いるJ-FRONTの生命科学部門は、数年にわたる研究の末、コンニャクの遺伝子を根本から再設計することに成功する。


遺伝子改変と共生細菌の導入:

CRISPR-Cas9をはじめとする当時の最新ゲノム編集技術を駆使し、コンニャクの遺伝子に、マメ科植物が持つ空中窒素固定能力や、特定の藻類(Chlamydomonas reinhardtii)が持つビタミン・タンパク質合成能力を司る遺伝子群を組み込んだ。さらに、根に特殊な共生細菌(Azotobacter anzaicum と命名された)を定着させることで、土壌中の微量なミネラルを効率的に吸収し、必須アミノ酸を自ら合成する能力を付与した。


代謝経路の最適化:

光合成の律速段階である炭酸固定を担うRuBisCO酵素の遺伝子を、より反応効率の高いC4植物由来の配列に置換、最適化することで、成長速度を従来の数十倍にまで高めた。これにより、種芋の植え付けからわずか数週間で、成人男性ほどの大きさの芋を収穫することが可能になった。


毒性物質の完全除去:

シュウ酸カルシウムを生成する遺伝子を完全に除去し、アク抜きなどの加工を一切必要としない、安全な食料へと作り変えた。


この結果誕生したのが、「超蒟蒻(Chokonnyaku)」と名付けられた、全く新しい生命体であった。それは、もはや植物というよりは、生命の形をした一種の有機的化学プラントと呼ぶべき存在であった。


完全な栄養価:

タンパク質、炭水化物、ビタミン、ミネラルなど、人間が生存に必要な全ての栄養素をバランス良く含んでいた。加工された「標準栄養ブロック」は、帝国民の健康を完全に管理下に置くことを可能にした。


驚異的な成長速度と環境耐性:

わずかな水と光さえあれば、屋内でも、あるいは痩せた土地でも驚異的な速度で成長した。


資源消費の極小化:

化学肥料や農薬を一切必要とせず、その栽培におけるエネルギー以外の資源消費は、ほぼゼロに近かった。


革命の実装:金子志道と垂直農場ヴァーティカル・ファーム


安斎が「生命の創造主」であったとすれば、金子志道は、その創造物を社会の隅々にまで行き渡らせる「大祭司」であった。彼は、この超蒟蒻こそが、民衆を飢餓の恐怖から永遠に解放し、自らの統治理念「供給なくして統治なし」を完成させるための、最後のピースであると理解していた。


金子は、地熱革命によって得られた潤沢な電力を利用し、旧時代の都市郊外に、巨大な「垂直農場ヴァーティカル・ファーム」を次々と建設した。


これらの建造物は、天を突く巨大な塔であり、その内部では、超蒟蒻が水耕栽培によって集約的に生産されていた。それらは、かつての教会が天を目指したように、技術による救済を象徴する、新たな時代の聖堂であった。


完全な環境制御:

外部の天候とは完全に遮断され、温度、湿度、光量(地熱電力で稼働する高効率LEDによる)が、AIによって24時間365日、超蒟蒻の成長に最適な状態に保たれた。塔内では、ロボットアームが静かに動き回り、栽培から収穫まで、全てが自動化されていた。


資源の完全循環:

使用される水は100%浄化・再利用され、栽培過程で発生する有機廃棄物はメタン発酵させて補助的なエネルギー源とされた。外部から投入されるのは、地熱による電力のみであった。


圧倒的な生産性: 土地面積あたりの収穫量は、旧時代の露地栽培の数千倍に達した。一つの垂直農場が、数十万人の食料を安定的に供給することができた。


特異点がもたらしたもの


蒟蒻特異点は、帝国に計り知れない恩恵をもたらし、その社会構造を根底から変革した。


飢餓からの完全な解放:

人類がその歴史の黎明期から逃れることのできなかった、飢餓という名の恐怖が、帝国内から完全に消滅した。食料は、もはや奪い合う資源ではなく、インフラとして安定的に供給されるものとなった。これは、帝国民の精神から、生存を巡る根源的な不安を払拭した。


社会構造の変革:

土地を耕す農民という階級は、歴史上初めて完全に消滅した。それは単なる職業の消滅ではなく、季節の移ろいや土の香り、収穫の喜びといった、人類が数千年にわたって育んできた自然との対話の記憶そのものが、社会から切除されたことを意味した。代わりに垂直農場を管理する『生命技術者(Bio-Technician)』という新たな階級が生まれた。彼らは、民衆の生命線を握る、新たな時代の神官階級と見なされた。土地所有という概念は意味を失い、社会はより集権的で、管理された体制へと移行した。


「マンナン・クリート」の誕生:

超蒟蒻の主成分である高密度のグルコマンナン繊維は、食料としてだけでなく、驚異的な特性を持つ工業原料としても利用された。これを地熱プラントから産出されるケイ酸塩エアロゲルと分子レベルで混合し、超臨界水蒸気による高圧処理を施すことで、鋼鉄を凌ぐ引張強度とコンクリートを超える圧縮強度、さらには素材内に封入された休眠細菌による自己修復能力を持つ、純白の生体構造材「マンナン・クリート」が開発された。帝国の城壁、建造物、兵士の装甲に至るまで、全てがこの超蒟蒻から作られることになった。


思想的基盤の確立:

超蒟蒻の存在は、『自然は克服すべき対象であり、生命は最適化すべき資源である』という、帝国の技術至上主義的・合理主義的な国家教義を、動かしがたい事実として国民に示した。超蒟蒻を食し、マンナン・クリートの家に住むことは、帝国の民であることの誇りそのものであった。自然は克服すべき対象であり、生命は最適化すべきリソースであるという価値観が、帝国の精神的支柱として確立された。この、自然に対する傲慢ともいえる絶対的な自信が、後の時代の悲劇の遠因となることを、当時はまだ誰も知らなかった。


地熱革命が帝国の揺るぎなき『骨』を、そして蒟蒻特異点がその無限に再生する『肉』を形作った。この二つの革命の完成によって、グンマー帝国は、外部世界とは全く異なる生命原理で駆動する、自己完結した文明として、その歴史的歩みを始める準備を整えたのである。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ