表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
グンマー帝国の興亡史  作者: 甲州街道まっしぐら
第四部 滅亡期【三都の時代】
41/51

帝国の内乱と崩壊:国家秩序の破壊と神の沈黙

およそ、歴史における巨大な帝国の崩壊は、壮麗なる都に敵軍の旗が翻る、その遥か以前に、その精神的な支柱が、内側から砕け散った時に、実質的に始まっているものである。高崎の中立宣言は、グンマー帝国という、単一の理性によって統治されていたはずの身体を、もはや決して癒合することのない、三つの断片へと引き裂いた。後に続く半世紀は、もはや国家の歴史ではなく、一つの文明が、自らの亡骸の上で繰り広げた、長く、そして絶望的なる葬送の儀式であった。後世に「三都戦争」と呼ばれるこの時代は、理性の暴走、恍惚の氾濫、そして、その狭間で最後まで人間であろうとした者たちの、悲劇的なる闘争の記録である。糖蜜病が帝国の肉体を蝕み、蜜霧がその精神を溶かす中で、帝国臣民は、自らが作り出した楽園の中で、自らを食い尽くす、最後の戦争を始めたのである。


第一節:三つの極――相容れない世界の鼎立


高崎の反乱によって、帝国は、その版図と精神を、三つの相容れない勢力圏へと分割された。それは、もはや政治的な対立ではなく、人間という存在を、いかに定義するかという、根源的なる宗教戦争の様相を呈していた。


上毛京(術政庁):理性の要塞

帝国の首都にして、〈赤城〉階級が牙城とする、術政庁の本拠地。彼らは、自らを、金子志道が遺した、完璧なるシステムの唯一正統な守護者であると信じていた。彼らにとって、回帰者は、蜜霧に脳を汚染された、駆除すべき害獣であり、高崎の中立派は、システムへの忠誠を忘れた、許しがたい裏切り者であった。食料と労働力の大部分を失った彼らは、残された資源の全てを、防衛システムの維持と、八咫烏による「反乱の最適鎮圧計画」の計算に注ぎ込んだ。八咫烏は、食料配給を〈赤城〉階級に90%集中させ、残りの臣民を最低限のレベルで維持することが、システム中枢の存続確率を最大化するという、冷酷な解を提示し、術政庁はそれを忠実に実行した。彼らの掲げる正義は、ただ一つ、「システムの復旧(System Restore)」であった。


太田(回帰者):恍惚の聖地

〈妙義〉階級が蜂起した、回帰者の最大拠点。預言者カイナの指導の下、彼らは、蜜霧の中で、全く新しい共同体を形成していた。そこでは、階級も、市民IDも、そして、個人という概念さえもが希薄であった。人々は、蜜霧がもたらす一体感の中で、歌い、踊り、そして、大地と一体化することを夢見ていた。彼らは、糖蜜病に汚染された超蒟蒻を、聖なる果実として食し、蜜霧の幻覚の中で、自らの肉体が、大地に溶けていくのを感じていた。彼らは、放棄された垂直農場を、栽培のためではなく、蜜霧が最も濃く立ち込める、巨大な『聖堂』として再利用し、その中で瞑想と儀式に明け暮れた。彼らにとって、術政庁は、自らを理性の牢獄に閉じ込めていた、偽りの神であり、高崎の中立派は、福音(蜜霧)を拒絶する、救われざる魂であった。彼らの掲げる正義は、ただ一つ、「大いなる回帰(The Great Return)」であった。


高崎(中立派):人間性の孤島

〈榛名〉階級が、槻 彰人の下に結集した、商業・行政都市。彼らは、術政庁の狂信的な合理主義にも、回帰者の非合理的な神秘主義にも、与することを拒んだ。彼らは、金子志道が築いた理性と秩序の価値を認めつつも、その中に、人間的な尊厳と、ささやかな自由を確保しようと試みた。彼らは、残されたインフラを駆使して、限定的ながら食料の自給を試み、独自の防衛網を構築した。彼らの居住区画では、旧時代の書物を読むことが許され、子供たちは、システムの効率性だけでなく、人間としての倫理をも教えられたという。彼らの掲げる正義は、ただ一つ、「文明の存続(Civilization Continuity)」であった。


第二節:泥沼の戦争――共食いの時代


戦争は、術政庁による、高崎への「懲罰作戦」によって火蓋が切られた。彼らは、裏切り者である〈榛名〉を屈服させ、その支配下にある物流網を奪い返すことが、秩序回復の第一歩であると計算した。しかし、この戦いは、術政庁の予測を、あらゆる点で裏切る、絶望的な泥沼へと発展していった。


術政庁の誤算:

高崎の中立派は、脆弱な文民ではなかった。彼らは、帝国のインフラと防衛システムの、まさにその運用を担ってきた、最も有能な技術者集団であった。彼らは、術政庁の誇るドローン部隊の制御コードを熟知しており、巧みなサイバー攻撃によって、その一部を無力化、あるいは乗っ取ることにさえ成功した。上毛京から発進した攻撃ドローンが、高崎上空で、突如として同士討ちを始めたり、あるいは、術政庁の施設へと帰投し、自爆したりといった、不可解な事件が多発した。術政庁は、自らが作り上げた機械の兵士に、牙を剥かれるという、皮肉な事態に直面した。


回帰者の参戦:

術政庁と高崎が、互いに消耗しあう中、第三の勢力、回帰者が、最も予測不能な形で、この戦争に介入し始めた。彼らは、正規の軍隊としてではなく、殉教も厭わない、狂信的なるテロリストとして、両勢力のインフラを、無差別に攻撃した。彼らは、蜜霧を吸い込むことで、死の恐怖を克服しており、その身体に、糖蜜病の樹液から作られた、強力な腐食性爆弾を巻き付け、地熱プラントの制御室や、浄水場へと、次々と突入していった。彼らは、自らを「蜜の運び手」と称し、その自爆行為を、偽りの文明を、大地の甘美なる腐敗へと還すための、神聖なる儀式であると信じていた。彼らにとって、戦争とは、勝利を目指すものではなく、偽りの文明の全てを、大地へと還すための、神聖なる儀式であった。


糖蜜病の拡大:

この三つ巴の戦いは、帝国に残された、最後の物理的基盤を、回復不可能なレベルまで破壊していった。戦闘によって破壊されたインフラや、おびただしい数の死体は、糖蜜病の拡大をさらに加速させる、格好の栄養源となった。蜜霧は、もはや一部の地域を覆う現象ではなく、戦場全体を覆い尽くす、恒常的な環境と化した。兵士たちは、敵の弾丸だけでなく、大地そのものから立ち上る、甘美なる狂気の誘惑とも、戦わねばならなかった。術政庁の兵士の中には、蜜霧の幻覚に耐えきれず、自らの装甲服を脱ぎ捨てて、回帰者の歌声に引き寄せられていく者が、後を絶たなかったという。


第三節:帝国の終焉――光の消滅


この絶望的な内戦は、数十年間にわたって続いた。かつてパクス・グンマの栄華を誇った上毛の地は、そのことごとくが戦場と化し、あるいは糖蜜の海に沈んでいった。垂直農場は完全に機能を停止し、民衆は、建国以来初めて、再び飢餓の恐怖に直面した。そして、帝国を支えていた最後の柱、すなわち地熱プラントもまた、維持管理を行う技術者の不足と、回帰者の破壊活動によって、一つ、また一つと、その心臓の鼓動を止めていった。


高崎の陥落:

最後まで人間的な理性を保とうとした高崎は、最初に限界を迎えた。彼らは、術政庁と回帰者という、二つの狂信に挟撃され、その国力を使い果たした。指導者であった槻 彰人は、自らが書き記した『上毛年代記』を、後世に残すことを、最後の〈赤城〉である書記官に託し、自らは、都市と運命を共にしたと伝えられている。


最後の光:

西暦2300年、冬。帝国に残された、文明の光は、もはや、首都・上毛京の、かろうじて稼働を続ける、最後の地熱プラントのみとなっていた。食料も尽き、防衛システムも沈黙したその都市は、もはや、巨大な墓標に等しかった。

預言者カイナに率いられた回帰者の軍勢が、その廃墟へと足を踏み入れた時、彼らが見たものは、抵抗する兵士の姿ではなかった。彼らは、術政庁の中枢、すなわち中央制御室で、静かに自らの終焉を待つ、わずかな数の老いたる〈赤城〉たちと、対面した。


記録によれば、カイナは、彼らに、回帰の教えに帰順するよう、最後の言葉をかけたという。しかし、最後まで理性の信徒であった一人の〈赤城〉は、静かに首を振り、おもむろに、一つのコンソールに手を伸ばし、手動でブレーカーを下ろした。彼は、消えゆくディスプレイに映る、赤い警告の光を見つめながら、誰に言うともなく、こう呟いたという。『計算は、完璧だった』と。それは、帝国を支えていた、最後の地熱プラントの、緊急停止スイッチであった。


その瞬間、都市の全ての光が、永遠に消えた。


壁のディスプレイも、廊下の照明も、そして彼らが最後まで希望を託した、全ての計算機も、完全な沈黙に帰した。絶対的な闇と静寂の中で、グンマー帝国は、その二百五十五年の歴史に、静かなる終止符を打ったのである。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ